俺の平成ネット史を語る

なんとなく書いてみたくなったので書く。ただ長いだけの回顧録。

はじめてPCに触れたのは小学校低学年の頃、ファミコンが家にやってくるよりも早かった。近所のちょっと年上の子の家にPCがあって、南極大冒険だかなんだかペンギンが走りまくるゲームをやってた。

時代的にPC8801mkⅡくらいかと思ってググってみたけど、記録媒体がフロッピーじゃなくてカートリッジだった記憶があるのでMSXだったのかな。もはやよく覚えてない。

まだファミコンに触れる前なので、なんかすごく先進的な遊びをしている気がしてワクワクした。

ちなみにその後、我が家にはファミコンがやってくるのだけど、周りはどんどんスーファミやゲームボーイに行く中、メガドライブを購入。ゲームギアはカラーだぜ、とセガ路線を突っ走る。頑張れ湯川専務。

少し時間は流れて1990年代。我が家にパソコンがやってくる。

パソコンがやってくるよりもちょっと前、タイピングを覚えたいと言ってたら知り合いからお下がりのワープロがやってきた。自分の名前の漢字が出ずにまずは外字を作る羽目になった。記録媒体はフロッピーではなくカセットテープ。

パソコンのきっかけは音楽雑誌で見たRolandの「ミュージ郎」。パソコンで音楽を作る、という完全なイメージだけに憧れ、懇願に懇願を重ねて購入することになった。いまやソフトシンセは当たり前だが、当時は音源といえばハードウェアのMIDI音源を外部に接続して鳴らすものだった。ちょうどRolandの名機SC88が出た頃。

パソコンは富士通のFMV、Windows95だったはず。3.1も学校かどこかで触ったことはあったけれど。初めて自分のものとして触れたPCは、ハードディスク容量が「衝撃の1GB」と謳われた製品だった。当時の主流は650MBくらいだったと思う。

ネット回線は当然ダイヤルアップで、プロバイダは確かBIGLOBEだった気がする。例に漏れずテレホマン時代を送る。

当時のインターネットはパソコン通信の外部接続機能みたいな位置づけだった。ニフティサーブが多数派だったが、ゲームでもセガ路線を走っていたくらいだから迷わずPC-VANに入る。

何しろ情報に飢えていた。地方に暮らしていたこともあるけれど、「何か新しいことが始まっている」「時代が変わっていきつつある」空気感は感じていて、でもうまくその流れを泳げないもどかしさみたいなものがあった。ネット情報はもちろん、書籍も圧倒的に不足していた。

PCにMIDI音源をつないで音が出るまで試行錯誤しまくって半日がかり、とかザラだった。でもとにかくそうやってこの流れに泳ぎださなければならないという妙なモチベーションがあった。

ある時、どうしても入手したい本があった。地元の書店でも図書館でも無理で、ふと思い立ってパソコン通信のBBSに書いてみた。

譲ってもいい、という連絡が来る。住所をやりとりして、お金を払ったのかどうか覚えていないけれど、とにかく本は家に届いた。

インターネットというのはこれか、と思った(いま思えば正確には違うけど)。バーチャルでサイバーな空間の向こうには自分と同じ人間がいる。

大学進学で県外に出ると、同級生は全国各地から来ていたが、気づくと多少パソコンやネットに詳しい扱いになっていた。大学生になるとパソコンくらい扱わねば、みたいな空気もあり、友人たちにアドバイスしたりした。廉価PCを売りにしていたソーテックなどをよく勧めた気がする。なんかごめん。

大学生になってアルバイトができるようになり、自分のお金で自分のPCを買う、ということをすぐ計画した。関西には日本橋という電気街がある。何度も何度も通って、怪しげなショップの店員から嘘かホントかわからない情報をたくさん得た。あの頃は何しろ情報に飢えていたんだ。

検討に検討を重ねた結果、当時日本橋にあったGATEWAYでBTOパソコンを購入する。タワー型だったので後々拡張しまくった。

ネット回線はテレホマンを卒業し、ISDNのマルチリンクで128kbpsになっていた。

この頃、携帯電話が急速に普及していく。初めて持ったのは関西デジタルホン、のちのJ-Phoneで数字とカタカナしか表示できなかった。もともとDTM出身だったことで「着メロ」にハマる。ダウンロードではもちろんなくて、自作。端末の同時発音数が大事だった。友人のケータイに打ち込んだ着メロに伴奏をつける、などけっこうやった気がする。

そのうちJ-Phoneが「写メール」を搭載。以降、しばらく端末はずっとSHARPだった。このころのサービス名が「J-SkyWalker」だったので、我々世代はスカイウォーカーと聞くとSTAR WARSよりもJ-Phoneを思い出すのは余計な話。

モバイルの可能性に目覚めてからは、ノートPC、PHS、ケータイの3台持ち、そのうちZaurusを加えた4台持ちになる。当時のノートPC高かったなあ。大学生がZaurusで何してたのかはもう覚えてない。

PHSはいわゆる通信カードではなく、電話型でフリップを開くと下半部がコンパクトフラッシュになっていてそのままPCに挿せる、パルディオ611Sという端末を使っていた。ああいう変態端末がたくさん登場した時代だった。

オフ会なるものに参加したのもこの頃が初めてだった。そのへんの話は別のnoteに書いた。

就職活動はいわゆる超氷河期の真っ只中でけっこうな件数を受験しなければならなかった。相変わらず日本橋に通っていたが、東京の会社を受けるときは無理矢理に夜行バスなどを駆使して秋葉原に必ず立ち寄った。秋葉原には大阪日本橋の3倍謎の店があって、10倍怪しい店員から謎の知識をめいっぱい吸収した。

この頃になると、ショップで買い集めたパーツでPCを組むようになっていた。秋葉原からパーツ抱えて夜行バスで帰ったのはいい思い出。

この頃には、回線はADSLで常時接続になっていたと思う。

就職戦線をなんとか乗り越えた頃、日本橋でとあるデバイスに出会った。SONYのClip-On。いわゆるHDDレコーダーだけど、光学ディスクなどは入らない、EPGとHDDだけという商品。店頭でデモを見て、なんだかわからないけどゾクゾクした。新しい時代が来る感じ。この波を泳ぎたい、と思った。

ある店の店員に聞いてみた。「テレビの見方が完全に変わるよ」と言ってた。この人はもう持ってるのだ。

就活で疲弊して、バイトで貯めたお金もほとんどなくなってたけど無理して買った。以降、この機器では最大でわずか10時間程度しか録画できないにも関わらずリアルタイムでテレビを見ることはほとんど無くなった。

新卒で入社した業界でメディアに関する論文みたいなのに応募せよ、という課題があった。HDDレコーダーによるタイムシフト視聴が人々のメディア観をどう変えるか、という話を延々書き散らかした。
指導役の社員からは、テーマがマニアックすぎる、という指導が入ってボツになった。

テキストサイトやオモシロFLASHや2chや、HTML手打ちの自作HPなどなどもひととおり通ってるけど特に面白い話でもない。あ、いちおうMIDI扱えたのでBGMも自作してた。ループとかないからステップ入力とピアノロールで。

ちょっと時間は流れて、地元鹿児島に戻る。大阪を離れるとき、同期がiPodをプレゼントしてくれて、iTunesを使うように。実家にあった膨大なCDをぜんぶブチ込んだ。鹿児島には日本橋も秋葉原もないが、この頃はもう常時接続で自宅の部屋は世界につながっていた。

「ねとらじ」というサービスを見つけた。いまはFC2のサービスになってるけれど、当時はLivedoor傘下だったはず。生放送(正確には放送ではないのだけど)で音声を配信できる。これは面白いかも、と思ってネットラジオを始めた。当初はWinampを使ってねとらじのサーバへ送る方式、その後Ustreamが出てきてからは実質的な動画配信になった。

このへんのことがきっかけでローカルなテレビやラジオの仕事につながったりもするのだけど長くなるので割愛。

初めて持ったスマホはiPhone3GS。あいかわらず変態端末への興味は尽きず、auのIS01なんてのも持ってた。たぶん今でもどっかにあるな。

iPhoneも、Macbookもひととおり使った。データはクラウドに置くようになり、ノートPCはどっちかというとビューアとして使うようになった。音楽はループシーケンサやソフトウェアシンセが出てきて、タブレットでも簡単に作れるようになっていった。

YouTubeもニコニコ動画も各SNSも通ってはみたけれど、通りきってみたら「この流れを泳ぎに出なければ」という感覚はいまのところ無くなった。

それは自分が馬齢を重ねて流れを読めなくなったのかもしれないし、変化の方向が自分の感性にマッチしていないだけかもしれない。停滞した水の中にいるような気すらすることもある。

ただ確実に言えるのは、いまこの瞬間も眼の前の流れを泳ぎきろうととにかく進んでる奴がどこかにいるということ。それを自分が感じられていないのだとしたら、やや寂しくはある。

流れを起こす側になろうという気もない。ただ、時には泳いでみたいと思う。自らが泳ぎだせば、いくらかの波は立つ。気がつくと意外なところに流されているかもしれないけれど。

そうやって、平成が終わってゆく。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?