観たいように目の前を観ている。アートの対話型鑑賞で、無意識のバイアスに気づく
最近、美術館で開催されている「対話型鑑賞」と呼ばれるアート作品の言語化ワークショップに参加するようにしています。実際に参加してみての感想を書いてみたいと思います。
論理性と合理性だけではい、感性と直感の重要性
元々の参加を考えた理由は山口周さんの著作がきっかけです。
内容が分かりやすくまとめられているnoteはこちら↓
本書の中でも記載されておりますが、今までのビジネスは「論理性・合理性」ばかりが偏重され「直感・感性」がないがしろにされていた部分があります。
これからは「サイエンス、クラフト、アート」のバランスが重要になり、かつ「美意識や感性は努力で鍛えられる」とメッセージングされています。その努力の方法の一つが「アート作品の鑑賞と言語化」でした。
以降、意識して美術館に通うようになり、アート作品を好むようになりました。
アート鑑賞と対話を通して、バイアスに気付く
対話型鑑賞では、通常の一人で作品を鑑賞するのではなく8名前後で美術館を回ります。字の通りですが、一つの作品を20分~30分ぐらい掛けて各々が対話しながら作品を観ます。
ここではファシリーテーターの方から「作品への事前情報」はあえて開示されません。まずはただ「目の前の作品」について参加者の対話はなされます。
先日、参加したワークショップでは何を話せばいいのか分からない場合、下記2点に着目すると話しやすいと教えていただきました。
1,見えている事=モノ、色、構図
2,見えていない事=関係性、フレームの外にあるかもしれない事
感想として、目の前の作品に対して「率直に思った事を話す」って意外と出来ていない自分に驚きました。無意識の内に「何か意味を読み解かないといけない」と思ってしまうんですよね。
頭いいと思われたいとか思っちゃってるのかもしれません(笑)自分は美術史の教養がないので、何も知らない単純な話をするのを恥ずかしいと思っている部分がありました。
しかし、同じ参加者の方でも純粋に「構図や色彩を楽しむ」鑑賞をされている方がいらっしゃって驚きました。どういう意味だろう?と観ている自分に対し、率直に作品の美しさを観ている違いは対話しないと気づけなかった部分でもあります。
「感性に素直になる」とは知識を基に理屈立てて筋道を考えるのでは全くなかったのです。
また、自分がいかに目の前の現実を都合よく捉えているか、にも気づかされました。とある人物写真を鑑賞していた時の事です。写真には若い男性が複数人写っている。
マイルドに言うと自分は「随分若くてやんちゃな人が写っているなあ」ぐらいしか感じていませんでした。
感想を参加者で重ねていくのですが、途中でファシリーテーターの方から写真の男性達は、有名な音楽グループである事を伝えられます。すると、自然と「スター性」を帯びてに見えてきてしまったのです。
いかに自分が目の前の出来事を「見たいように見ているか」に気づき、ハッとしました。
当然ですが同じ作品を観ていても解釈は多様です。その他者の視点によって気づきを得る事の繰り返しで、普段は出来ない作品鑑賞が可能になります。加えて作品を「言語化」する機会も一人で鑑賞するとないため、その行為も大きいと考えています。
「よくわからないもの」「解釈が多様であるもの」「抽象的なもの」に対して他者の意見を通し「目の前の何か」が開けていく貴重な体験となりました。
今後もぜひ継続的に参加をしようと考えています。
ちなみに、こちらの題材を書こうと思ったのはこちらのWSに参加した事がきっかけでした。
第2回も開催されるようで、自分も参加出来ればしようと思っています。
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