『大喜利挨拶』についての考察

こんにちは、物数と申します。
普段は名古屋の生大喜利会によくいます。
そんなわたしが、ここ数ヶ月名古屋大喜利界隈を観測している中で急速に広まった現象があります。
それは『大喜利挨拶』です。

大喜利挨拶とは、"大喜利に挨拶をすること"を指します。
目的は「大喜利に挨拶をすることで大喜利に気づいてもらう」ということ。

大喜利挨拶の始祖である落合監督曰く、
「長く大喜利をしている人たちはその分大喜利と関わっている時間が長いため大喜利に気づいてもらっていて、ウケやすい。大喜利を初めて間もない私たちはまだ大喜利に気づいてもらっていないので大喜利に挨拶をして大喜利に気づいてもらう必要がある

誇張とかではなくマジで言ってた

勝手にやってるだけなら「また、落合さんがおかしなことを言ってるよ」と思っていたことでしょう。
実際、わたしも初めのうちは笑って見ていました。
しかし、彼女は大喜利挨拶を始めた頃(観測上では11月頃)からさまざまな場所で結果を残し始めます
名古屋の大会形式の会での予選突破や遠征先で面白かった人としてツボ上げtweetを目にした方もいるのではないでしょうか。
それらの出来事は彼女が「大喜利挨拶」を始めたころから始まっているのです。

この様子を見て、ある者は彼女を信じ追随し、ある者は怖れ関わらない道を選びます。反応は様々でしたが、誰もが「大喜利挨拶には人ならざる力があるのではないか」と感じているように見えました。

「このままでは名古屋がオカルトの地になってしまう」


この1年で名古屋の大喜利界隈が少しずつ盛り上がってきたというのに、そんなことではいけない。
そんな思いに突き動かされ、今回のnoteを書くことにしました。

『大喜利挨拶』についての謎

大喜利挨拶には3つの謎があります。
それは、

  1. なぜ、はじまったのか?

  2. なぜ、挨拶なのか?

  3. 誰に、挨拶をしているのか?

まずは、この3つの謎から考えていこうと思います。

謎1.なぜ、大喜利挨拶がはじまったのか?

これを知るためには、大喜利挨拶が初めて発生した時のことを知る必要があります。

私が調べた限りではこのtweetが初出です。
このtweetの直前まで遡っていただけると分かると思うのですが、落合さんはなんの前触れもなく『大喜利挨拶』を初めています。
少しずつ『大喜利挨拶』という行為が形作られていったのであれば、なにか理論のもとに構築されていると考えられたかもしれません。しかし、ある日突然閃いたかのように大喜利挨拶を初めているのです。

このことから1つの仮説を立ててみます。

仮説1.「大喜利の神様のような存在」がいて、その存在が『大喜利挨拶』を教えた。

少々、突飛な仮説に思えるかもしれません。
しかし、この仮説を立てたのには前述の「突然閃いたかのように初まった」ということ以外にも理由があります。
それは、『大喜利挨拶』を始めてから、彼女の行動に2つの傾向が現れたからです。

〔大喜利挨拶を初めてからの2つの傾向〕
1.真摯に挨拶を行う者のことを深く信用する
2.挨拶を無下に扱う者には容赦なく牙を向く

これらは「信仰心が深すぎるが故に起こる行動」と考えられるのではないでしょうか?
これらの事実から「大喜利挨拶は大喜利の神様によって伝えられた」と考えられます。

謎2.なぜ、"挨拶"なのか

気づいてもらうための行動として「挨拶」をする。
ここに違和感を持った人もいるのではないでしょうか? 少なくともわたしは違和感を持ちました。なぜなら、挨拶とは「気づいてもらうためにする行動」ではないからです。
ここを理解するためには、挨拶について知る必要がありそうです。

日本語の「挨拶」は、元々禅宗の用語であった。修行者が互いの修行の成果を質問し合う事によって悟りや知識見識等の深さ浅さを、確認する行為を指す。

wikipedia「挨拶」より(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/挨拶)

本来、挨拶には「修行者が質問をし合い、お互いの修練度を確認する目的があった」ということが分かりました。
これを『大喜利挨拶』に当てはめて考えてみます。

大喜利挨拶とは「大喜利プレイヤーが大喜利に対して問いかけること」であり、それを通して悟りや知識見識などの深さ浅さ、つまり「大喜利にどれだけ向き合ってきたか、どのようなことを考えてきたか」を振り返り確認をする行為である、と言えるのではないでしょうか。

大喜利挨拶をすることで、下記のような問答が自然と行われていると考えます。

〔調子が良い日〕
「大喜利さん、今日もよろしくお願いします」
大喜利「最近は大喜利たくさんやってるし、結構ウケてるし良い感じじゃん」
「左様ですか。今日は自信を持っていろんなことをしていこうと思います。大喜利さんありがとうございます」

〔調子が悪い日〕
「大喜利さん、今日もよろしくお願いします」
大喜利「最近サボり気味なんじゃない? ちょっとがんばったほうがいいかもよ」
「大喜利さん、すみません。今日は気を引き締めて参ります。ありがとうございます」

自分の修練度やその日の調子を適切に把握できている、ということは自分を客観視できているということになります。自分について適切に把握することは大喜利をする上で大切なことの1つだと考えられています。
大喜利挨拶を初めて以降、彼女の調子が良くなったのは大喜利挨拶のこういった側面からではないかと考えられます。
これらを踏まえて、仮説2を立ててみます。

仮説2.大喜利挨拶は大喜利に修練度やその日の調子を問いかけ、確認する行為である。

謎3."誰"に挨拶をしているのか?

これについては、東海大喜利勢の中でも度々議論が交わされています。

この謎について考えるにあたり落合監督本人に話を聞くことができました。

ご快諾、ありがとうございました。


まずは、「謎1.なぜ、大喜利挨拶がはじまったのか」で立てた仮説をもとに質問をすることにしました。

Q.「大喜利挨拶」は誰に対する行為ですか。例えば「大喜利の神様」に挨拶をしているというようなことなのでしょうか?

A.大喜利の神様には挨拶していません。大喜利の神はいるかもしれないですが、私は信じてないしそいつには挨拶はしてないです!

神様のことそいつって言うなよ

残念なことに、仮説1は違ったようです。
しかし、「大喜利の神様には挨拶していない」ということが分かりました。
質問を続けます。

Q.では、大喜利という概念に挨拶しているのですか?
A.概念というか、大喜利です
Q.わたしたちが普段行っている大喜利ということですか?
A.そんな感じです!

そんな感じです?

どうやら、「大喜利自体に挨拶を行っているらしい」ということがわかりました。
これは、余計な解釈を挟まずに言葉そのままの意味で受け取った方が良さそうです。

このインタビューから、仮説1.「大喜利の神様のような存在」がいて、その存在が『大喜利挨拶』を教えた。」は違うということが分かりました。
しかし、このインタビューを通して大喜利挨拶の確信に迫る事実を聞くことができました。

大喜利挨拶と礼儀

インタビューの中で彼女は「大喜利挨拶の大前提として"礼儀"がある」ということを言いました。それは挨拶を用いることで大喜利に礼儀を示すことが目的であるということでした。

Q.大喜利挨拶とは何を目的にした行動になるのでしょうか?
A.大前提としてあるのは礼儀です
Q.大喜利に礼儀を示すとなにか良いことがあるのでしょうか?
A.大喜利に気づいてもらえたり、逆に自分が大喜利に気付けるようになります

わたしは大喜利挨拶とは「わたしたち → 大喜利」一方向の行為だと思い込んでいました。しかし、彼女は「わたしたち ⇔ 大喜利」相互に変化が起こるものだと考えていました。
つまり大喜利挨拶は大喜利とコミュニケーションを取るための行為であると言い換えられるのではないでしょうか。

大喜利挨拶は「大喜利とのコミュニケーションである」つまり、仮説2として立てた「大喜利挨拶は大喜利に修練度やその日の調子を問いかけ、確認する行為である」と考えても良いのかもしれません。

大喜利挨拶について分かったこと

今回の調査を通して以下の3つのことが分かりました。

  1. 大喜利挨拶は大喜利に礼儀を示す行為である。

  2. このとき指す「大喜利」とは「我々が普段行っている大喜利自体」のことである。

  3. 大喜利挨拶を通じて大喜利と双方向のコミュニケーションを取ることができる。

この3つのことから、わたしは『大喜利挨拶』は大喜利に挨拶という形で問いかけることで自身の修練度やその日の調子を確認する行為であると考えます。
また、『大喜利挨拶』をして以降、調子が良くなる現象については、その瞬間ごとの自身について適切に把握し、理解を深めることができたためだと考えられます。

みなさんも大喜利挨拶をして自分や大喜利について理解を深めてみてはいかがでしょうか?
もしかしたら大喜利の新たな一面を見ることができるかもしれません。

さいごに

ここまで長文散文にお付き合いいただきありがとうございました。
最後に、インタビューにお付き合いいただいた落合監督ありがとうございました。あなたにインタビューしなければこの文章を書き切るモチベーションは維持できなかったことでしょう。

おまけ

毎日じゃなかったらいいんだ

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