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#自分との向き合いシリーズ「期待・自覚・道すがら」うずまき物語

夫によく言われる言葉が

期待してるからやん

です。
カッカしてる渦中の時にこれを言われると猛烈に腹が立つ。
でも、ずいぶんと自分が視えてきたら、よくわかる。

noteの記事の中で大変多い「夫婦関係」「親子関係」。
ま、わたしがまだそのあたりをフォーカスしているから目に入ってくるのだろう。

うん、卒業しようなか(笑)

ディスりに聞こえるかも。
でも、オブラートに包めない質なので先にごめんなさい、謝っときます。

夫婦なんてそもそも他人さま。
そしてこどもはもっと他人様です。

ついでに自分も「他人様」です。

どれも所有していません。
これがデフォルトです。

コントロール、制御不能、未確認生命体。
完全理解など絶対に出来ない。

うずまき辞書「うずまき的”他人様”定義」

「期待し過ぎ」←この言葉の意味が全く分からなかった。
わたしは一体その人に何を求めているのか?

自分が求めていることの内容よりも
自分がその人へ何か求めていること丸ごと否定していたから、内容などわかりようがなかった。。

この「求め」が曲者。

言いかえれば「わたしの正解だけを表現してくれ」という限定の「求め」という「期待」だったからして自分がそれを相手に求めているなどと、認められなかったのだ。

この「限定的な正解」の裏側には「わたしはこんなに自分を犠牲にしてやってやった」のだから「請求は正当(報酬は当然のことで見合う以上の物を指す)」で、「わたしが限定している正解だけを差し出せ」というものがベースとなっている。

アービンジャーの「箱理論」そのもので全く箱に入っている状態だ。
自分の正当化で「わたしは悪くない」を胸を張って主張しているわけだ。


なるほど、そうだとしたらそうだね、その返事以外は全部却下でしたね。

そんな答えが欲しいわけじゃない!
その対応、行動は要らない!

違う違う違う違う!!!!!

アドバイスかそれ?
なに?わたしが間違ってるといいの?
あなたに何がわかるの?
こんなに一生けん命に自分の時間をささげてまでも「母として」愛を注いでいるのに!あなたは何をしてくれたの????

そんなんじゃ足りないのよ!!!!

ってな具合に。
この事例はお気づきの通り「子育ての現場」でも夫婦の関係ですよね。

前にも書きましたが、「母親の教科書」なんてないので、どんな人であろうと、みんな「知らない」のがデフォルトなんです。

知っているのは「娘として」のポジションで体験した自分の母親との関係だけ。

そもそも存在しないんです「母親の教科書」なんてね。
「育児書」というものは存在しますよね。
ほぼ参考にならなかった。
同じ人なんていないからね、同じ状況にもなく結果もそうならないからね。

でも、どうしても大急ぎで「母親」という何者かにならなくてはならなかったから参考書が必要だったのだ、可愛いわたし。

犬を見ていて感じた。
この子たちは教科書も学校もない、生まれていきなり犬との生活さえ奪われ人間と暮らしている、見本も手本もない。

だけど、食べ方も、飲み方も、眠り方も、赤ちゃんの作り方も、育て方も、人と生きていくのだということも、いろんなことを知っている。

公園でカラスの子育てを観察すると、やっぱり同じ。
誰かに教わっているわけではなく、そもそも備わっている。

本能

人間は本能をどこかに置き忘れてきたんじゃないか。

やっぱり人生は「覚いだす」旅なのだ。
ええーっと、本題からずれてきたな。


「期待」=「限定的な欲求」でした。
基本、自分すら他人の境地において、こんなことを願っても絶対に手に入らないのが事実。
そもそも、自分すら「自分の欲求」がわかってないのだから。

具体的に相手(夫)に指示ややってほしいことを伝えればいいとその時の自分に言いたいが、きっとそんなことは周りからや夫自身からも言われてるはず。

聞けない!!
耳に入ってこない!!

ほど、余裕がないのだ。
この言葉に尽きるね。

ちょっとでも何かをわきにおけるほどの余裕というか余白があれば、物事はややこしくはならない。

でも、知ってる?
出産は命がけで、子育ては、初体験(でなくても)、誰も手取り足取り教えてくれる人なんてなくて、すべてが初めてで、何をどうすればいいかなんてわかるわけがない!!!

これが事実です。
そうでも無い人もいるかもしれないけどね。

でも、少なくともわたしはそうだった。
34年経って、色々振り返ってのことですよ。
そんな33年前にこんな文章のような「これが事実です」なんて俯瞰なんてできるわけない!

なめんなよ!
出産と子育てと家庭の営みを!!

ってな感じですわwww

で、だから?どうしろと?

「自覚」ですね。

そういう状況なんだという自覚。
自分に余裕がなく、もう必死のパッチで余裕なんてごござらんという自覚。

と、そして相手も「同じ」だということ。

父親は「突然父親」になる。母のように体の変化はなくある日その日がやってくるという出来事なのだ。

母親の教科書と同じで「父親の教科書」も存在しない。
家庭をもって「夫」になる教科書もない。
視てきたのは自分の家庭での父親だけ。

出産してある日退院してきていきなり始まる初めての展開。
こどもは宇宙人!!
入院するまで「妻」だった妻は「母」となり別人か?と変化している。
なんか欲求されているのだが、分からない!!

これが事実。

つまり、期待しても無駄!です。

知らない相手に聞いても「分からない」が返ってくるばかり、
行動も、当たり前に分からない。

相手は「母」の大変さがなんとなくわかるから、なんとか助けてあげたいのだけど、分からないのだから!!!

もう、お互いが初心者なんだってね。
だから、落ち着いて、何をどうして欲しいとちゃんと伝えること。
具体的に自分の思っていることも、アイメッセージで。

ここに丁寧さがあると、いいのかなって今なら思える!!!

その時にわたしに言ってあげたい!!
耳たぶ引っ張ってでも言ってやりたい!!!


駄菓子菓子。
そんなことはできないし、過去に戻れることもない。
書き換えることもできない。

振り返りをしても変えようとしない。
ただ、事実を見つけるだけ

今、振り返るとでてくる言葉は「そんな時期だっただけ、必死に生きてたね、頑張ったよわたし、偉かったね」。
こども達にそのまま思い出話しとして笑って話せる。

自分だけがしんどかったんじゃないんだという新しい側面があるんだ、見てみようって思たからこそ、そう思えて、自分の両親へも感謝に変えることができたのだ。

愛着障害とか、色々出逢った。

なんでわたしはいつまでも母親とか父親とのことを考えているのだ?
noteの世界でも、リアルでもなんでいつまでも「自分のこども時代」をどうこう思っているんだ?

そんな過去にピン留め📍をして人生止まったままじゃないの?

クレヨンしんちゃんの映画であった。
映画の中之世界に入っちゃって、リアルに戻れない。その方法が「時計」
を動かすことだったっていう内容。

わたしの母が亡くなった時、自責の念からわたしの時が止まっていた事に気づいた経験がある。また記事にしようかな。

親への感情も思い込みだったかもね。
何やらセッションや読み物でも「母親との角質」とかってよく見るもんね。
こういうことはすぐに自分事になるんだ(笑)

違う側面を見て感じることで初めて、思い込んでいた過去の景色が動き出すのかも知れない。

自分の過去を「そうだったんだね」と感情を流れるようにイメージできた時、自分の家族とも流れ出したかな。

何かを変えようとか、思ったところで何も変えられない。
手前の自分を知って、、、、

って、自分の中で感じていることは自分にしか分からないのにね笑笑
わざわざ知らないんだって、これも思い込みじゃん(笑)

また、みーつけた!

note最高!!


#自分と向き合うシリーズ
#うずまき物語

どうでしょうか、わたしが2015年から自分探しをしてきた道のりを書き残していく日記のような記事だと思ってくだされば良いかと。

まだまだ、道すがらですけどwww

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