幼少からの仏教感

私の実家は、2代続けて父親が早くに亡くなる家だった。祖父もそう、若くして亡くなった。そのためなのか分からないが、祖母は毎日欠かさずお経をあげていた。

毎日毎日、朝炊きたてのご飯を高坏に盛ってお勤めをし、前日に盛ったカチカチになったご飯にお茶をかけて食べていた。「仏さんのもんは、生き物と食べたらあかんのや」と言って、僅かな漬物と一緒におさがりを食べていた。

私が通っていたのはお寺の保育園だった。何も違和感なく、月曜朝は本堂でお勤めし、4月には花まつり、卒業制作は仏様の絵をみんなで描いた。

今の歳になって、幼少からの強烈な「仏教感」は私の価値観そのものになっている事に気付いた。

「仏様はみんなを見てるんだよ、悪いことはできないんだよ。」

だから、悪いことは一切できない。悪いことをすれば必ず何かの形で帰ってくる、ずっとそう信じていた。

しかし歳をとるにつれて、価値観の違いや自己中心性を理解するようになってきた。

自己中心性というのは「自分さえ良ければいい」「人のためには犠牲を払わない」ということである。これは大多数の人間がそうなんだと思う。ある程度、余裕がないと、人に何かしようという気にならない人が多いのではないか。

だから、人を犠牲にしてでも自己中心性を守る人もいるはずだ。それは、守る人の立場を考えれば「悪いこと」ではないということだと思う。だけど、犠牲にされた方は一生物の傷を負うかもしれない。

すると、仏様の言う「悪いこと」というのはどういうことなんだろうか。

最近知った仏教の教えに「三毒」というのがある。欲と怒りと無知である。それらは心を蝕み、苦しむ理由になる。

人を犠牲にしてまで自分を守ろうとすることも欲であり、「それは悪いことだ」と怒ることそのものも、心を無闇に蝕んでいる。さらに、お互いそう言う気持ちでいる事を知らないでいる事も心をすり減らす原因になるのだ。

つまり、仏様の教えには「悪いこと」という定義は特になく、そもそも心を穏やかにする事を説いているのではないか。

私が振りかざしていた「正義」なんて、ホントは仏教には無かったのだ。

だけど、煩悩の塊である私は欲が渦巻き、どんどん毒に侵されている。欲は本当にないほうが良いのだろうか。

欲がある方がいろんな事を経験したり、楽しんだり、美味しいものが食べられたりできるような気がする。

だから、毒に侵されている事を認識して(気づきを得て)誰かの怒りを生んでいたり、それを知らなかったりすることもあるんだと思えば気が楽になるかもしれない。

一つ、はっきり言えることは、「これが正しい」ということは絶対この世には無いということだ。

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