サムネ

バーチャル蠱毒が私たちに与えた印象は一体何だったのか?

ロボットVTuberのアラハバキです。
今回は、いわゆる「バーチャル蠱毒」と呼ばれている「最強バーチャルタレントオーディション~極~」に関して記事を書きました。

以下、バーチャルYouTuberの”魂”に関するメタ的な内容が含まれるため、苦手な方は「戻る」を推奨します。







――― ここからスタート ―――

目次
・バーチャル蠱毒とは何か?
・不快感の原因に関する考察
・オーディションに対する私の考え方
・最後に

・バーチャル蠱毒とは何か?

先日あるVTuberオーディションが開催された。
VTuber業界では、オーディションはもう特には珍しくもないのだが、このオーディションの場合は一風変わったものとなっており、それがTwitter上で大きな話題となった。

簡単に概要を説明すると、1人のキャラに対して約12人程度が候補者としてエントリーし、最後の1人に選ばれるまで競争するというものだ。
ここまでは普通なのだが、話題となったのは次の点である。
それは、エントリーした候補者全員がキャラクターとして、TwitterやSHOWROOMなどの公の場で競っているということである。
これがキャラクター5人に対して行われている。
もしかしたら「何を言ってるんだ……こいつ……」と思っている方もいるかもしれない。
そういう方は、私がまとめた以下のTwitterリストをご確認いただきたい。「百聞は一見にしかず」である。

この企画を見た人々からは、その見た目の強烈さとオーディションであるということから、いつしか「バーチャル蠱毒」と呼ばれるようになった。
そうした反応の中、この企画には「不快」「不愉快」という反応が、VTuberファンの中から少なからずあった
恐らく、普通の生身の人間による公開オーディションであれば、特に問題にはならなかったであろうし、ここまで反響を呼ぶことはなかったであろう。
では、そうしたオーディションと今回のオーディションとは何が違うのだろうか?
その不快感を呼び起こした根源的な原因を探っていくことで、今後のVTuber、ひいてはVRによるバーチャルな世界における常識を探っていく手がかりとしたい

・不快感の原因に関する考察

そこで、Twitterにて「バーチャル蠱毒 嫌」「バーチャル蠱毒 不快」で検索してみた。
すると様々な反応が見えてきた。
こうした反応から考察してみた結果、不快感を生み出す原因としては、以下の2点に集約されると思われる。
1つ目は、「オーディションを公にすることによって、キャラクターの生死へ関与してしまうため」。
2つ目は、「そのオーディションの手法から、企業がVTuberという存在そのものを代替可能物として扱っているように感じたため」。

1つ目に関して考えよう。
先ほども書いた通り、最近ではVTuberのオーディションは特に珍しいことでもない。
例を挙げれば、「北斗の拳」の登場人物であるハート様をVTuber化する企画で「中の人」を決めるオーディションが行われ、つい先日ハート様としてデビューした。

では、こうした例と「最強バーチャルタレントオーディション~極~」が違う点は何かと考えると、やはり「公開されている」点だろう。
普通、VTuberのオーディションでは、誰と誰が争ってそのキャラに決まったということは、公にはされない。(オーディションに落ちた方が個人VTuberとして活動を開始したという例はあるにはあるが)

しかし、「公開オーディションだから悪い」というわけでもなさそうだ。
私はアイドルオーディションの方面は詳しくはないが、Twitterで#公開オーディションで検索したり、Googleで「公開オーディション アイドル」と検索すると、いくつかの公開オーディションが行われており、昨今では珍しいことでもないようである。

では、今回、批判の声が上がったのはなぜなのだろうか。
考えられるのは、「VTuberの活動停止」ということが「死」というものを強く連想させることに関係しているのかもしれない。

これまでにも何人かのVTuberが活動をやめてきた。
もちろん「中の人」たちが死んだわけではない。しかし、キャラクターが生きているように感じるというVTuberの特性上、その反対に活動をやめると「キャラクターが死んでしまった」という印象を強く与えてしまうようである。
もしこれが生身の人間のミュージシャンだったとしたら、引退したとしても、「今もどこかで働いているのかもしれない」と思えるし、何かの巡り合わせで再びその演奏が見られることがあるかもしれない。

しかし、VTuberに関しては、そう単純にはいかない。
仮に、A子がV子というVTuberをやめることになったと仮定しよう。
V子のファンは、A子はまだ生きていると思えるかもしれないが、V子というキャラクターに関しては、今後一切音沙汰はないのだという自覚から、死を連想させてしまう。
さらに言えば、再活動の可能性という観点からいっても、そう簡単にはいかない。
そのキャラの絵や3Dモデルの権利を、運営していた事務所や会社、イラストレーターがまだ所有した状態なら、A子が再び活動をやりたいと思っても、V子としての復活は相当難しい。

こうした「VTuberの活動停止=死」という観点から考えると、今回批判の声を挙げた方々の気持ちが理解できるかもしれない。
負けてしまった候補者を応援する者からすれば、「自分の頑張りが足りずに”死なせてしまった”」と感じられるし、最終的に勝った候補者を応援していた者からすれば、「自分の応援が他の候補者を”死なせてしまった”」と感じられる。
すなわち、「VTuberの活動停止=死」という観念ができており、感受性の高い者からすれば、どの候補者を応援しても、”死”という概念から離れられないのである。
こういった死の心象がオーディションの前から発生したことが、不快感を生み出す理由の一つになっていると考えられる。

次に、2つ目のそのオーディションの手法から、企業がVTuberという存在そのものを代替可能物として扱っているように感じたためについて考える。

さて、ここで突然ではあるが、あなたに1つ質問をしよう。
「この現実世界で人間のクローンを大量生産して、優秀な個体を選別しています」と有名企業が発表したら、どう感じるだろうか?
恐らく「そんなの不快に決まってる」という方が多いのではないかと思われる。
そんなことをおおっぴらに発表したら、全世界から非難轟々であろう。
中国の科学者のチームが猿のクローンを誕生させたことに対する反応からも、それは読み取れる。

多くの現代人からすると、クローンを生み出すということは「不快な行為」であり、まだ「議論の余地がある」と言われる問題なのである。

こういったことを前提としたとき、「VTuberのキャラクターは、現実の人間と同様に扱われるべきである」という強い観念の持ち主が、今回のオーディションのことを知ったらどう感じるだろうか?
恐らく同様に不快に感じるだろう。
それに対して、「たかがフィクションじゃないかw」という向きもあるだろう。
しかし、人間にとって、”フィクション”は”現実”となりうる
でなければ、宗教や会社や国家というフィクションは存在し得ない。
人間がフィクションを基に共同体を形成する生き物だということは、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』にある通りである。

効力を持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。歴史の大半は、どうやって厖大な数の人を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人どうしが力を合わせ、共通の目的のために精を出すことが可能になるからだ。【ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上)』p.48】

こういった「VTuberのキャラクターは、現実の人間と同様に扱われるべきである」という強い観念が、不快感の強い要因となっているのではないかと私は推察する。
端的に言えば、「極めてなにか生命に対する侮辱を感じます」ということである。

・オーディションに対する私の考え

さて、最後に私個人としての考えを述べよう。
私は、このオーディションを知ったときは特に問題には感じなかった。(むしろ、12人の同じキャラの姿が並んでいる画像を見たときに思わず笑ってしまった)

これはもしかしたら、VTuberを構成する3Dモデルや2Dイラストの扱い方に関する私の考えが影響しているのかもしれない。
私は、VTuberが纏うキャラクターの姿に関しては、衣服のようなものと考えている
VRChatやバーチャルキャストを始めとする”バーチャル”な世界の特徴は、自分の姿となるキャラの姿を自由に切り替えられる点にある
私自身、YouTubeに投稿している動画ではロボットの姿で登場しているが、最近、バーチャルキャストを使用しているときは、Vカツという3Dキャラの作成ソフトで完成させたモデルを使用している。

将来的なバーチャル世界における公的な場では、リアルでの姿と同様の3Dモデル、私的な場では美少女の姿で友人と語り合うといったことが当たり前になるかもしれない。
こうした衣服のような切り替えができるものという観念があると、今回のオーディションは、複数人が衣服を着てみて、誰が一番魅力的に着ることができるか?ということを競っているような感じ方になる
だからこそ、特に問題には感じなかった。
(ただし、念の為、付け加えておくと、その”衣服”を無理やり剥ぎ取って、別の”衣服”を着ることを強制するような行為に対しては、私は不快に感じる)

あとは、恐らく私自身がアリストテレスの目的論に関する考えに影響を受けているからかもしれない。
『これからの「正義」の話をしよう』という本では、マイケル・サンデル氏がアリストテレスの政治哲学の観念を分かりやすくこう説明している。

正義は目的にかかわる。正しさを定義するためには、問題となる社会的営みの「目的因(テロス)(目的、最終目標、本質)」を知らなければならない。【マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』p.294】
正義は名誉にかかわる。ある営みの目的因について考える――あるいは論じる――ことは、少なくとも部分的には、その営みが称賛し、報いを与える美徳は何かを考え、論じることである。【マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』p.294】

こういった観念を前提とすると、バーチャルYouTuber(VTuber)の目的とは一体何だろうか?
私は「楽しませること」にあると思う。
VTuberのあり方は多様である。ある者はゲーム実況で楽しませ、ある者は音楽や歌で楽しませ、ある者は知識の披露で楽しませる。
これは何もVTuberに限った話ではない。YouTuberだろうが、漫才師だろうが、ミュージシャンだろうが、エンターテイナーの第一義的な目的は「楽しませること」にあるだろう。
アリストテレスの考え方を基にすれば、今回のオーディションで手に入れられるキャラの姿、およびそれに付随するあらゆる豪華な企画への参加権は、「最も人々を楽しませることができる者」に贈られるものとなる。
もちろん、その楽しませること自体が卑劣なものではない場合に限られるし、アリストテレスはそういった点も重視している。

彼[※アリストテレスのこと]の考えでは、最もよい笛が最もよい笛吹きに与えられるべきなのは、笛はそのために――うまく演奏されるために――存在するからなのだ。笛の目的は優れた音楽を生み出すことだ。この目的を最もうまく実現できる人が、最もよい笛を持つべきなのである。また、最も優れた奏者に最も優れた楽器を与えることで、最もよい音楽が生み出されるという歓迎すべき効果が生じるおかげで、誰もが楽しめることも確かである。つまり、最大多数の最大幸福が実現するのだ。だが重要なのは、アリストテレスの挙げる理由がそうした功利主義的な発想を超えていることである。【マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』p.297】

以上が、私見である。

・最後に

こうした考察が必要になってきたということは、これまでテレビや携帯電話といったモノがそれまでの常識に衝撃を与え、変容させてきたように、VRやVTuberを始めとするバーチャル世界という新たなモノを受けて、我々の常識を再検証する時期に来ているのかもしれない
そのために、まず各々が個別の問題に対する意見を表明し、各々が妥協できる常識を少しづつ形作る必要がありそうだ。
マイケル・サンデル氏は、「人間が他の動物と違い、なぜ言語能力を備えているのか」というアリストテレスの考え方について、こう紹介している。

われわれがみずからの本質を十分に発揮するのは、言語能力を行使するときだけであり、そのためには正しいことと間違っていること、善と悪、正義と不正義について他者とともに考えなければならないのだ。【マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』p.310】

願わくば、私のこの考えが多くの方の目に触れ、新たな技術が普及した世界では何が正しいのか、何が間違っているのかを考える材料になれば幸いである。
VTuberブームは、2017年12月頃から始まって、まだ1年ほどしか経っていない。
将来的なバーチャルな世界における常識は、まだ輪郭さえ不確かな状態かもしれない。
その常識を形作るのは、あなた自身でもある。
各々の活発な意見の表明を期待する。

また、何にせよ、「最強バーチャルタレントオーディション~極~」は始まったばかりである。
予選が11/26に始まり、そこから本戦を経て、最終的には12/10に勝ち残った者が活動を開始する。
その期間にまた何かが起きるかもしれないし、当初の騒ぎに比べたらすんなりと進むかもしれない。
この先の行く末は、神のみぞ知ることである。
願わくば、オーディションの候補者たちにとって、良き経験とならんことを。
彼女たちの健闘を祈る。

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