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■【道しるべ】『息子へ紡ぐ物語』

1)サダメ

やはり、父の文章は全然違う。

何か自分にしかできないことはないかと考えて、自分の人生を「ブログ」に書きだすことにした。ほんの遊び程度の気持ちで。

何故、このような気持ちになったかというと、、、まぁ、世代交代。と言えば、格好がつくかもしれないけど、仕事で大きなプロジェクトリーダーを任されたときに、政治的にはしごをはずされて、周りからの賛同も得ることができず、プロジェクトを頓挫させてしまったから。

いまの会社に入社してから、それこそ一心不乱に走り続けてきたけど、このような仕打ちを受けたのは初めてだったので、自分のチカラのなさを感じ、良いオッサンが、仕事で涙を流した。

その後、色々とチャンスを与えられて、足掻いてみたけど、既にストーリーは決まっていた。過去の異物は扱いづらいのだろう。営業のトップが匙をなげ、管理部門へ異動となった。

これは、経営陣が自分のチカラを発揮できる部署への異動を考えてくれたことだと思うけど、それでも、筋を通さない人間のしたたかさに憤りを感じ、頭も心もズタズタになり、何も手をつけられなくなってしまった。それほど、喪失感というか、挫折を味わいました。

仕事以外でなにか人生の目的を探すべく、多くの戦友たちにくりかえし相談すると、みんな心を支えてくれました。しかし自分ときたら、いつまでもネチネチと妬み、恨みを語る日々。それでも粘り強く話を聞いてくれて、どん底から支えてくれた家族や仲間には、感謝してもしつくせないです。

特に、以前同じ職場で働いていた山根さんには、自分の気持ちを全て吐き出しました。どんなに、ネガティブな言葉でも「大丈夫ですから」「長谷部さんがやってきたことは人が真似できないことですから」「いま、仕事でこういうことに悩んでるんです。相談にのってください」「だって、今の会社の根っこをつくった人ですよ。自信を持ってください」ありがたい言葉を与え続けてくれました。

そして「ブログ」を書き始めることにしたのです。社会人になってから文字を考え、文章にすることがいつのまにか好きになっていたことに気が付きました。いままで、経験したコトを、気張らず、自分のペースで面白おかしく書いてみようと、思いを綴ることにしたのです。

手前みそですが、自分には運気があります。人とは違う人生を送ってきたと思います。小中学校の頃から全く勉強もせず、偏差値38の高校を卒業した落ちこぼれは、たいした努力もしないでギャンブルにハマりました。すると、いつのまにか数百万の貯金が貯まりました。やがて、それなりの年齢になると、将来に不安を感じベンチャー企業に入社しました。すると、その会社が株式上場しました。

本当は、ストックオプションが欲しかったのですが、新入社員に与えられるワケもなく、ギャンブルで貯めたお金で自社株を3株買うと、あれよあれよと、株価は10倍になり、会社は一部上場をはたしました。

金銭的に余裕はありましたが、会社は、超、超ブラック企業です。ハラスメントは当たり前だし、朝6時から翌朝3時まで、365日・休みなく働きまくりました。散財することで人脈もできました。やがて、会社が成長すると共に、少しずつ自分の時間を持つことができるようにもなってきました。

プライベートでは、会社の後輩と結婚し1男1女の子を授かりました。家も買ったし車も買いました。超ブラック企業をなんとか生き抜いて、大きな企業になったときには、良いポジションも与えてもらい、会社の命運をわけるプロジェクトリーダーまで任せてもらうという、まさにサクセスストーリーです。

そんな、小さなプライドを拠り所にしていた自分が、2020年2月。コロナ対応を理由に管理系の部署に異動を告げられました。「なぜ自分が?」とも思いましたが、緊急事態宣言や在宅の関係で、いままで以上に家族と過ごす時間が増え、あたらしい日常を過ごすようになりました。

でも、なんだろう。何かが物足りなかったのです。情熱を燃やす何か。そんなときに、自分の「ブログ」を読んだ父からメールが届いたのです。それから毎日欠かさずにメッセージのやりとりをしています。

いま、思うと何故そのようなやりとりがはじまったのかわからないです。そのくらい不思議なチカラが働いたのだと思います。父からの何気ないメールは、父の偉大さを改めて知るには十分なものでした。

父は、サラリーマンをしながら作家デビューをしていました。自分のなかでは、なんかの賞を受賞して賞金を貰い、上から読んでも下から読んでも同じ文章になる、「回文いろは俳句」の本を出版したりしていましたが、ただ、ただ難しい内容の本を書く売れない作家だと思っていました。

それでも、父が自分の「ブログ」を褒めてくれたというのが嬉しかったのです。めちゃくちゃ頭のいい、あの超秀才な父に偏差値38の高校を卒業して、パチプロで生計をたてていたロクデナシが、44歳になって、はじめてリスペクトしてもらったのです。

そして、このメールのやりとりから自分のルーツを調べる物語がはじまりました。


2)序章

「自分は何故存在してるのだろう。自分は何者で、いったい何のために生きてるのだろう。」

こんな答えのでないことを考えるのは、自分だけではないと思う。むしろ、誰もが一度は考える儚い疑問。何か目の前のことに熱狂したり、熱中することがあれば、こんなセンチメンタルになる暇などないのだろうけど、いまの自分は、ふと我にかえり感傷的に呟いてしまう。

だいたい、いままでの人生でもそうだったんだ。幼い頃から繰り返し考えては答えのでない不安を抱えながら、暇をつぶしてきたように思える。本気になって足掻けるものを自分でみいだせないから、言い訳を探して、諦め、こんな人生でいいのかと葛藤する毎日だ。

ただ、いたずらに過ぎていく時間と、ただ、漠然に広がる将来の不安。そして、あたり前のように過ごしている幸せな日々に、

いまにも溺れてしまいそうだ。

LINE:「突然ごめん。相談があるんだけど。さっき、実家から連絡があって、父さんの従兄弟が変死体で見つかって孤独死したみたい。近所の人が通報して警察がマンションに入って判明したらしいんだ」

LINE:「独身で身寄りもないみたいだから、うちで身元を引き受けて葬儀や片付け、資産整理などしないといけないみたい。明日、父さんと一緒に警察に行くから、色々と相談にのってほしいんだ」

LINE:「葬式をしても誰も来ない人みたい。火葬だけして、慎ましく対応したいんだけど、相場もしりたいんだー。父さんは20万くらいで抑えたいと言ってるよ。父は82歳でおじいちゃんだから、自分が対応しなくてはいけないくて。。」

LINE:「いま、電車だから30分後に電話しても良い?」

LINE:「いいよ。あとで電話して」

その日は、いつものように煩雑な業務に追われていた。周りの声が聞こえなくなるほど集中してパソコンを見つめながら仕事をしていると、突然、背後から声をかけられる。

「ハッ」とわれにかえった瞬間、遮断されていた空気が一気に流れ込んできた。せっかく集中して仕事をしていたのに、、、怪訝な顔をして振り返ると、以前同じ部署で働いていた先輩がにやけた顔して立っていた。

あぁ、北田先輩だ…

北田先輩は、3歳年上のイケメンで、以前、同じ部署だったときに大変可愛がってもらっていた。同じ部署の頃は、よく一緒に飲みに連れていってもらっていたけど、お互い部署異動してからは、めっきりご無沙汰していた。

「どうされましたか?お久しぶりですね。」一旦きりかえて、いつものように軽快に回答する。

「べーちゃん、今日ヒマ?お風呂一緒に行こうよ」と、屈託のない笑顔で誘ってきた。

「別に構わないですけど、急にどうしました?」

「最近、疲れが溜まってるんだよ。あと、勉強のためサウナに入りたいんだよね。」

イケメンの北田先輩は、全国にブティックホテルを展開する開発部門に所属しており、今後OPENするホテルにサウナの設備を導入する予定らしい。

「今日は、特に予定もないですし、ご一緒させてください!19時ピタでいいですか?」

「えっ、いまから行こうよ!」また、無茶なことを言ってきた。いまから外出するのは、さすがに難しい。

「定時の19時に会社をでますから、先に行ってください」と伝えると、

すんなり「了解、会社でるとき連絡して」と北田先輩は足早に去っていった。

久しぶりのお誘いだった。妻に夕飯を食べて帰るとLINEで告げて家庭内の段取りをつけた。会社を出たころに北田先輩からメッセージが届いた。呼び出されて向かったのは、東京大井町にある「牛タン屋」だ。

大井町は東京の品川区にあり、JR京浜東北線と東急大井町線が停まる街で、駅前には商業施設や大型スーパーが立ち並ぶ。しかも、駅のすぐ横には昭和の匂いが漂う横丁商店街があってサラリーマンの憩いの場所となっていた。ただ、本来なら、多くのサラリーマンたちが集まり、もっと賑わっているはずの横丁も、いまではそれほど多くの人々がいるわけではない。

2020年初頭から流行しだしたコロナウィルス感染の第2波が東京を襲ったからだ。未知なるウィルスとのたたかいは、国民の我慢と努力で、一旦おちつきを取り戻したが、マスクが欠かせない生活と外出を控えながら生活する、ニューノーマル時代が到来していた。

大井町の「牛タン屋」に入ると北田先輩と先輩の上司である役員の山崎さんが、カウンターに座って話をしていた。

「お待たせしました。お二人で珍しいですね。今日はどうしたのですか。」

「いやー、契約がひと段落ついて、ささやかなお疲れ様会をしようと思ってね。本当に大変だったよ。とりあえず、好きなの頼みなよ。」小一時間くらい仕事と趣味のゴルフ話しをツマミにお酒を楽しんでから、お風呂に向かうことにした。

大井町の駅の近くに「おふろの王様」という大衆浴場がある。コロナ禍というのにすごい人数のサラリーマンが「癒し」に群がっていた。自分も風呂好き、サウナ好きだが、今日の「お風呂の王様」は、異常に混雑している。

どれだけの混雑具合かというと、サウナの部屋に入るのまでに5人くらいの大和男児が、スッポンポンで列をつくっているのだ。自分はどうしてもサウナに入りたかったので我慢して最後尾に並ぶ。数分後、ようやく順番がくると、なかには20人程が等間隔をあけて、蒸し暑いサウナに堪え忍んでいた。

サウナについているテレビをみながら、周りを見渡すと、口元をタオルでかくしている人がいる。ウィルスに感染するリスクがあろうとも、普段のストレスを洗い流すために、必死になっている姿をみて滑稽に思えた。

52インチくらいの大きなテレビに気をまぎらわせながら、12分間、汗を流す。サウナの入り方は昔、同僚だった山根さんに教えてもらったことがある。12分、10分、8分とサウナに入り、合間に水風呂に入る。体のなかにたまったデトックスがでていく感覚を実感した。

癒しの時間が終わり、ロッカーに預けていた衣服に着替え、ふと携帯をみると実家の母親から複数回着信がきていた。これは、ただごとではないと感じ、留守電を聴くと「今すぐ連絡がほしい」とメッセージが入っている。

LINEにもメッセージがきていた。妻からは、「お母さんから連絡とりたいとメッセージきてるよ」

姉からは「お父さんの従兄弟が、孤独死して変死体で見つかり、さっき実家に警察がきた!身寄りがないから、葬儀代とか諸々の片付けとか、うちがやらなきゃいけないみたい。詳しくはわからないから、今日無理だったら明日の朝、実家に電話してあげて!明日、お父さんが大井町警察にいく予定なの」

なんだか、実家があわただしい。


3)葬儀屋

妻や母、姉からのメッセージを確認し実家に連絡をすると、慌てた様子の母が電話口にでた。

「父さんにかわって」と伝える。

「おぉ、ジュンシロウか。さっき、大井町警察署の刑事が実家に来て、どうも、徹さんが亡くなったらしい。明日、身元を確認するため大井町警察署へいかないといけないんだ。お前、一緒に来てくれ」

父は82歳の高齢者。認知症にはなっていないが、最近、忘れっぽく歩くスピードもゆっくりになってきているので、1人では心配だ。

「しかし、大変なことになったよ。金もないし葬式の段取りやマンションの掃除などしなくてはいけない。徹さんは生前、誰にも連絡するなといっていたから、俺がやらなくてはいけないんだ。」

年金生活の父は、それほど貯えがあるわけでもないので金銭的な援助も必要かもしれない。

「わかった。友人に葬式屋がいるから相談してみるよ。明日、大井町の駅で待ち合わせをしよう。」

電話をきると、すかさず会社の上司に報告をし有休を申請する。上司は、杓子定規に了承してくれたので、一緒にサウナで汗をながした山崎さん、北田さんに事情を説明して一足早く家路につくことにした。

電車に乗ると葬儀屋で働いている親友の小野崎にLINEすることにした。ひと通りの事情を説明したあと、後ほど電話をするとメッセージを送り、いつものように、携帯を片手に暇をつぶした。30分ほどすると自宅の駅に到着したので改札口を出た瞬間に小野崎へ電話をする。小野崎は、すでに品川区の斎場や火葬場、大井町警察署を調べてくれていた。

「費用は諸々で、ざっくり50万くらいかな」

一番心配だった金銭面の概算見積を教えてもらえた。50万円なら4人兄弟の子供たちがひとり10万弱ずつだせば、何とかなるだろう。予算の目処がついただけでも少しだけ安心することできた。なんだか長く感じる一日が終わった。

翌朝、父との待ち合わせのため自宅マンションのエレベーターを降りると、見知らぬ電話番号から着信がきた。不審に思いながらも電話にでてみる。

「自分は○△葬儀の者ですが、小野崎さんからキャンセルの連絡があったのですがよろしいでしょうか?」

突然の電話に驚いてしまった。この方は、何を言ってるのだろう。。

「そもそも御社とは、契約も何もしてないので、キャンセル云々もないとおもいますが、、それよりも、なんで自分の番号を知ってるのですか?個人情報もなにもありませんね」と伝え、話をつけた。

きっと、警察が囲ってる葬儀屋があるのだろう。しかしなんてスゴい業界なんだ。サービスを受ける側が依頼先を選べない仕組みになっている。自分は、たまたま友人に葬儀屋がいたから良かったけど、一般的にはナシつぶし的に葬儀屋が決まり、対応してもらうのだろう。

葬儀業界の闇を感じながら小野崎に報告をすると大井町警察署へ連絡をしたとメッセージがきた。

「すでに出入り業者がスタンバイしているとのことだったので、キャンセルしといたよ。」

「スゴイ業界だね」

「警察出入りの葬儀屋が待機していて取り合いなんだよ」

「そうなんだ。あと警察の見解では、死後、1か月くらい経っているのでは?と言ってたよ。検案はまだしてないと言ってた。医務院に行くか、行かないか確認しておいて。諸々準備が整ったら、俺も大井町警察署へ向かうから」

めちゃくちゃ安心するし心強い。小野崎は、自分が働いている会社の創業メンバー役員が起業した葬儀会社で働いている。まだ、会社ができてまもない頃、友人の小野崎を紹介した。あれから10年以上が経ち数百人の従業員が働く規模にまで成長したが、小野崎は創業メンバーのひとりとして活躍している。

しかし、人が亡くなったときの対応は、勝手もわからないし葬儀屋サービスの違いもわからない、費用も検討するまもなく言い値で支払う。ほとんどの人が、見知らぬ葬儀屋にお願いすることになるこの業界は、本当にグレーな業界だな。


4)長谷部さかな

父とは11時に東京品川区にある大井町駅で待ち合わせをした。しかしこの待ち合わせには、少々不安なことがある。それは、父が82歳の高齢ということ。そして、携帯電話を持っていないということだ。

なので、現地に到着してから父と連絡がとれない。ちゃんと待ち合わせの場所にいてくれたらいいのだが、、

「大井町は出口がそれほどたくさんあるわけでもないし何とかなるか。」

淡い期待を持ちながら東急田園都市線に乗車し、溝の口駅で東急大井町線に乗り換える。電車のなかでは親友の小野崎や姉と今後のことなどをLINEで相談しながら、約束の時間までに大井町の駅に到着した。改札をでてあたりを見渡す。

あぁ、不安が的中してしまった。案の定、父がいない。すぐさま実家に連絡をして、母に確認をする。

「お父さん、ずいぶん前に家をでたわよ。もう大井町の駅についているんじゃないかしら。お父さん携帯電話もってないから困るわよね。お父さんから電話が来たら連絡するわ」

困った父親だ。不器用にもほどがある。

父親は1939年3月7日生まれの82歳。生まれは、満州国哈爾濱市はるぴんし。日中戦争の真っ只中に誕生した。1歳で実の母と妹を亡くし実家の岡山県新見市にいみし神郷町しんごうちょう高瀬たかせ村で6歳の時に終戦を迎えた。

祖父は関東軍に所属し戦時中に義理母と再婚。祖父と義理母のふたりから、腹違いの妹と弟が生まれた。終戦後の祖父は、岡山件新見市新郷町大字高瀬村の村長を歴任し、駅のなかった農村に新郷駅にいざとえきを開通するという偉業を成し遂げた。

しかし実家には、父の居場所がなかったのではないかと、話の節々から感じている。中学の頃から勉学に集中するため隣村の親戚の家に下宿しながら高等学校に通い、みごと京都大学に合格したそうだ。祖父からは官僚になるために、京都大学への進学を進められたそうだが、父が選んだのは大阪外語大学だった。反骨の意味があったのか、理由はわからない。

その後、水産会社に就職をして60歳で定年退職。会社員として働きながら、50代で作家デビューをして、世に文学を広める活動をしていると岡山県文化財団が主催する内田百閒文学賞で、随筆「山椒魚の故郷」が最優秀賞を受賞した。その後、長谷部さかなとして「俳句極意は?―回文俳句いろは歌留多」などを出版。売れない作家として年金をもらいながら老後を過ごしている。

自分にとっての父の印象は、サザエさんにでてくる波平さんのようなヘアスタイルをしており、とても頭がよく英語が堪能。サラリーマン時代は、よく海外出張でニュージーランドやオーストラリアに行き、お土産を買ってきてくれていた。

麻雀や競馬などのギャンブルは、父から教えてもらった。お正月には、父や姉たちとコタツを囲み、テーブルを裏返してジャラジャラと牌をまぜ、ミカンをかけて家族麻雀をしていたことをよく覚えている。

生まれてから父に怒られたことは1度だけ。それも、いま考えると岡山に帰省したころ親族の集まりでやんちゃ坊主だった自分が、自己主張や承認欲求を満たすためにワガママを言ったのだろう。周りの親戚から親としてしっかり対応するよう言われ、平手打ちで顔を殴られた。あの時は、普段優しい父に怒られたことがとてもショックだったけど、普段はとても温厚で母の嫌みをいつも飲み込む我慢強い姿が印象的だ。

自分が大人になり、サラリーマンとして悩みがあるときは父に相談し、いつも味方でいてくれた。生活面は不器用でポテトチップスの袋も開けられない。好きな食べ物は魚とイカと胡瓜で、初老になった頃からは、ステーキ肉を食べる機会が増えていった。服装はズボンのチャックが常にあいている。シャツはズボンから片方でている。無骨な秀才を、絵にかいたような人だ。

健康には気を付けていて毎日散歩をする。定年後にはプールなどにも通って泳げるようになっていた。それでも、運動神経はそれほど良くない。本人も公言している。

子供は4人、長女、次女、長男、三女の6人家族で、三女以外は、結婚し7人の孫に囲まれながら幸せな余生を過ごしている。そんな父親のことを自分は、幼少のころから中年になった現在でも尊敬し続けている。


5)仏さま

大井町の駅周辺をキョロキョロとみわたしながら、父をさがしていると携帯電話が鳴った。母親からの着信だ。ワンコールで電話にでる。

「さっき、お父さんから電話がきて、ジュンシロウがいないと言ってたのよ。どこから電話をかけてるの?と聞いたら公衆電話だといってたわよ」

「それで、どこにいるって?」

「なんか、近くにスーパーがあるといっていたわ」

「もう一度電話がかかってきたら、大井町線の改札をでたところにいると伝えといてよ」

いきなり振り回されているが、まぁしょうがない。それから10分ほど待っただろうか。父が改札口にやってきた。

「ようやく出会えたね」なんとも、父らしい開口一番の言葉だった。

歩くスピードが遅くなった父に「ここから、歩いて10分ほどだけど、約束の時間に間に合わないから、タクシーでいこう」と伝え、タクシーで大井町警察署へ向かうことにした。

タクシーに乗車すると父がおもむろに話し出した。

「徹さんは、酒が好きだったから、おそらく酒にやられたんだろう。両親も亡くなっているし結婚もしていない。ロンドンの大学で教授をしていて、まるで、ふうてんの寅さんのようにさまざまな国に出向いていた。老後は大井町のマンションで一人暮らしをしていたんだよ。気になるのは、白虎隊の脇差を持っているといっていたな。そして、徹さんから、自分が死んだら誰にも連絡をするなと言われていたから俺がやらないといけない」

「ただ、徹さんの叔母さん、佐藤信子さんが93歳でご存命なんだ。信子さんは、3等身にあたるから、相続権もある。連絡するなと言われていたが、昨日連絡をした。息子さんがこっちに来るらしい」

「そうなんだ。徹さんは、なんで誰にも連絡するなと言ってたの?」

「佐藤徹さんの父親は、オレの母親の兄貴、ひろむさんだ。豊島博子さんと結婚した弘さんは、佐藤信安さんという、元広島市町の夫婦養子になったんだ。そのことで信子さんと博子さんの間でひと悶着あったときいてるよ」

チンプンカンプンだ。知らない名前の登場人物が多くて、頭が追いつかない。そうこうしているうちに大井町警察署に到着した。

タクシーを降りると、担当の刑事さんが笑顔で出迎えてくれた。いままでの人生で、警察の人がこんなに、にこやかに迎え入れてくれる印象を受けたことがない。きっと警察の人からしたら、助け船が到着したようなものなんだろう。引き取り手のいない孤独死の対応は社会問題になるほど大変で、最終的には、国が費用を出して無縁仏となると聞いていた。ロビーに案内されソファーに座ると警察官の方々が、3名ほど出てきて状況を話し出した。

「マンション管理人からの通報があり、死後1ヶ月ほど経っているようです。遺書などはなく身辺を確認したところ長谷部さんのお名前がでてきたので、昨晩ご自宅に伺いました。まだ、検案の順番がきていないので少しこちらでお待ちください」

「わかりました」

「あと、身元不明のため、本人とわかるものを故人の自宅から持ってきたので確認をしてください」

そこには、財布や通帳、住民票、パスポート、写真や薬手帳なのど様々なものが紙袋に入っていた。ひとつずつ父と目をとおしていくとパスポートの緊急連絡先に父の名前と実家の住所が記載してあった。

「これをみて警察の人たちが実家に行ったんだね。しかも、住民票にはウチの実家から大井町のマンションへ引っ越したことになってるよ」

「徹さんが、ロンドンに行ってるときに、日本に家がないから、ウチを下宿先として登録してたんだよ」

20年以上も下宿したことになってる。そりゃあ、実家に警察がくるだろうに。。。そうこうしているうちに友人で葬儀屋の小野崎がやってきた。

「お待たせ。お父さんこの度はご愁傷様です。もうすぐ、霊柩車がきますので、検案が終わったら安置所に仏さんを運ぶ段取りします」

「よろしくお願いします」

小野崎は、遺体を運ぶ霊柩車を用意してくれていた。そして、警察と色々話をつけて諸々段取りをしてくれている。正直、これから、何をしたらいいか全くわからなく困っていたところに頼りになる存在が到着した。まるでヒーローのような存在だ。

しばらくロビーで待機していると検案が終わり身元を確認をすることになった。自分は、顔もわからない人の亡骸をみることに、なんか引っかかっていて、躊躇していた。

「お前はみなくていいよ」

自分の考えを見透かされたように、父が立ち上がり警察と一緒に奥の部屋に向かっていった。そして、5分ほどすると戻ってきた。

「あれは、みないほうがいいね」

死後1ヶ月ほどたっていたので亡骸は崩れていたという。その後、検案をした先生と話しをした結果、死亡理由が不明な「不詳」扱いとなった。仏さまは安置所に運ばれて行き、3人で警察を後にする。いまから、品川区役所へ行き死亡届を提出しに行かないといけないらしい。


6)孤独死

時間はすでに13時を過ぎていた。朝から活動しておなかが減ったので、大井町駅近くの商店街にあるステーキ屋に入り、3人でランチを兼ねて献杯をすることにした。せっかくなんで、でかいリブステーキと生ビールを頼んで故人を偲ぶ。ちょっと脂っこいステーキ屋のテーブルの上で「死亡届」を記入してステーキをたいらげた後に品川区役所へ行き無事手続きは終了した。

あとは、葬式の段取りだ。

親族や知人が集まるわけではないので、ひっそりと火葬で終えることを希望している。これは、小野崎が紹介してくれた大田区の臨海斎場を予約することで解決した。

埋葬については、父が故人の徹さんと1年前に会ったとき、鎌倉の円覚寺に永代供養してほしいと依頼されていたらしい。円覚寺には、徹さんのご両親、ひろむさんと博子ひろこさんのお墓があるそうだ。

京都からこちらに来ると言っている博子さんの妹、佐藤信子(旧姓:豊島)さんの息子さんには、実家の浦安近くにあるホテルにでも泊まってもらって、お葬式の時に今後の対応について相談しよう。できたら、信子さんの息子さんに諸々の対応を全部依頼したいが、遺書もないので話し合いが必要だ。

父と信子さんの息子さんは、互いに相続権のない従兄弟同士だから、ひとり15万ほどで火葬の費用は足りる。あとは、生活面の対応が心配だ。父が保証人になっているというウワサのマンションは、通帳を調べると家賃が月額17万円と高額だ。銀行から現金を引き出すことはできないが、いくらか貯蓄があったので数ヶ月は持つだろう。

ただ、死後1ヶ月となると、匂いも充満しているはずだからクリーニングをしなければいけないし、賃貸契約も解約手続きなどをしなければいけない。光熱費や携帯、その他資産を整理するには、いったいいくらかかるのか。。お金のことばかり心配ばかりしてしまう。

そんな、バタバタした対応を終えてなんとか週末を迎えることになった。月曜日には、大田区で火葬をすることになっているが、まだまだ心配事は絶ない。なんとも言えない疲労を感じながらマイホームで心と身体を癒やしていると妹からLINEが届いた。

LINE:「おとうさんがさ、お金全然もってないから、100万円近くのお金だと払えないと不安がっていて、税理士さんに確認をしたら、遺言書がない限り、相続の対象にならないから、貯金や信託はすべて国の資産になる。だから我々は相続しないから、色々とお金を支払う義務もないんだと。どこまで、やるか明日話をするともうけど、知り合いの弁護士にも確認してくれるみたい」

急にどうしたんだ。昨日、段取りをつけて方向性が定まったじゃないか。火葬の値段も30万程度でおさまると小野崎が言っていたし。京都からくる佐藤信子さんの息子さんと折半したら15万円で済むはず。。

いったい何があったんだ。

LINE:「なんかお布施に100万円かかるとか言い出して、マンションのクリーニングとか、色々止めたりとかもやらなくてはと紙に書き出してたからさ」

LINE:「お寺のお坊さんが火葬場までお経唱えに来るとか言い出してるらしいわ」

LINE:「京都の人がそこらへんのことを、お坊さんと話してるらしいのよ、、」

ちょっ、ちょっと、待て待て、話がずいぶんとおかしなことになってきた。なんで急に今まで連絡を一切とっていなかった京都の従兄弟が、シャシャリ出てきたのだろう。

疎遠になっていると聞いていたし、永代供養のお金は徹さんが毎月支払っていたから、埋葬にお金がかかるとは思っていない。しかし、お坊さんが来て、戒名をつけるとなるとかなりの金額になる。しかも、鎌倉の円覚寺は海の見える由緒正しいお寺さまだ。

騒いでもしょうがないので、お葬式の日に京都の従兄弟さんが来られたら話し合いをしよう。もしかしたら、何かの認識違いでこちら側が「出過ぎた真似を出て申し訳ない」と謝罪しないといけないかもしれない。

葬式の日、父を迎えに車で実家に向かった。レインボーブリッジを渡り千葉の浦安までは、約1時間程で到着する。父を車に乗せてから豊洲で小野崎をひろい、大田区にある臨海斎場に向かった。

「佐藤信子さんは、俺が幼少の頃に亡くなった母の兄にあたる、ひろむさんの奥さん、博子さんの妹なんだ。博子さんと信子さんは豊島家の人間で、雲州益田藩の家老。わが家の親戚で一番格の高い家柄の出身だ」

「元広島市長の佐藤信安さんとは、どういう関係なの?」

「それは、まったく別の佐藤だ。たまたま、ひろむさんと博子さんが夫婦養子になった先が豊島家出身の佐藤信安さんだった。豊島信子さんが嫁いだ先も、たまたま佐藤家だったということだ。」

いつも通りたくさんの名前がでてきて相関図がわからない。チンプンカンプン。ただ、佐藤信子さんの息子さんが来ることだけは理解してる。

豊洲から高速道路にのると臨海斎場までは、25分ほどで到着した。だだっ広い駐車場に車を止めると2階のロビーへ案内される。

「佐藤さんを探してくるよ」

自分は、それらしき人を探しに臨海斎場をキョロキョロと見渡しながら探しだした。父は佐藤信子さんと連絡をとっていたようだが息子さんの携帯番号は聞いていなかった。

現地で落合う方法などの細かいことは決めてないようなので、一度、信子さんのご実家へ連絡をしてみると何とも礼儀正しい奥さまが電話に出られた。事情を説明し旦那さんの携帯番号を聞きだし携帯電話に連絡すると、無事に佐藤信子さんの息子さん、佐藤浩一さんに出会いご挨拶することができた。

どんな人が登場するかドキドキしていたが、浩一さんは、思っていた以上にめちゃくちゃ誠実な方だった。すでに、徹さんの件は、信子さん(お母様)の弁護士に相談しており、全て後処理をしていただけるとのことだ。相談や話し合いも必要なさそうだ。

しばらくすると円覚寺のお坊さんが到着した。お坊さんは、一言も口を開かない。いかにも格の高そうなお坊さまだ。火葬の順番がまわってくると、父と徹さん、自分と小野崎、そしてお坊さんの5名で徹さんをみおくり、遺骨を拾い鎌倉に向かう。翌日、無事に徹さんをお父さんのひろむさん、お母さんの博子さんと同じ円覚寺のお墓に埋葬することができた。

「親族に連絡しないで欲しい」という徹さんの希望を叶えることはできなかったが十分対応できたと思う。しかし、身寄りのない孤独死は大変だな。誰かが対応をしなければいけない。死後の対応に希望があるのであれば、遺書を残しておいてほしかったけど、徹さんも許してくれるだろう。


7)ご隠居さまとのメール

徹さんが亡くなってしばらくすると、父からメールが届いた。なんてことない、自分の「ブログ」を読んだ感想メールで「どんな人間も大河ドラマのように物語があるものだな」という、たわいもない文章だった。しかし、何かのご縁だったのか、それから毎日メールのやり取りがはじまった。

自分のなかでは、長男にも関わらず、後期高齢者の両親と離れて暮らしていることに引け目を感じていた。32歳の時に妻との間に子供を授かり、妻の両親の家に近い方が良いだろうと考えて拠点を川崎にしたからだ。

実家は千葉の浦安なので、車で1時間程の距離にあるが、俗にいう核家族ということになる。父は頭がよく質問したらなんでも回答できる秀才だけど、さすがに後期高齢者だから認知症対策にもなると思いメールを続けることにした。

主なメールの内容は、親族を含めたご先祖さまのファミリーヒストリーだった。

ご隠居からのメール:【アンナチュラる】
アンナチュラるとは不自然、不審という意味。ミステリードラマのタイトルに使う場合は、不審死がテーマになることが多い。昨年八月に従弟が孤独死したとき、警察官が二人わが家を訪れた。続いて十二月には神戸の叔母が風呂場で亡くなった。叔母さんは102歳。遺品として人形を送ってくれた。女の子がいれば、貰ってほしいということだが、長女は三十年前、叔母さんの家に泊めてもらったとき、人形を見せてもらったのに、まったく興味を示さなかったらしい。

返信:【Re_アンナチュラる】
うちの娘も人形はいらないというだろうな。最近は、「将来、スイミングの選手になる!」といって練習頑張ってるよ。息子は、中の下の学力だから、これから3年間でどこまで巻き返せるかで人生変わりそうだね。それよりも、お父さんの人生もタイトルだけでも振り返ると面白そうだよね。大河ドラマのように文章にしてみてよ!

ご隠居からのメール:【七人の孫】
たしかに、七人の孫に恵まれたのは心強いし、特にJの息子が長谷部家・岡村家の血を引き継いでいるというのは心強い。岡村家は鳥取市の医者の家柄だが、現在は愛知県碧南市へきなんしで従弟が病院を経営している。もともとは、伯父さん(母の兄)が岡村家の跡をついでいたが、弟(母の弟でもある)に家督を譲って、佐藤家の夫婦養子になった。

返信:【Re_七人の孫】
医者の家柄から距離ができてしまったのは残念な気もするけど、息子や娘も勉強を積み重ねるチカラはDNAにありそうだね。息子は、自分に似て、怠ける方が得意のようだけど(笑)。まだまだ、これからだと思っています。

いつのまにか、毎朝届く父からのメールを楽しみにしている自分がいた。コロナ禍で在宅勤務となり時間に余裕もあったし子供たちも成長したので手がかからなくなってきたというのもあるだろう。ファミリーヒストリーを調べるという、ひとつの目的は、謎が謎を呼ぶ趣味としてほどよい暇つぶしになった。

ご隠居である父は、以前からご先祖様の研究をしていて、自分も幼いころから「我々のご先祖様は尼子あまこの落人だ」という話を散々聞かせれていた。とはいっても尼子氏だ。織田氏でも、豊臣氏でも、徳川氏でもない。尼子氏だ。ほとんどの人が知らない武将の名を誇らしげに語られても興味がわかなかった。

しかし、父とのメールを重ねファミリーヒストリーを調べはじめると、とても面白い。父は「尼子の落人」という随筆を書いていた。どのような随筆かというと「平家物語」にでてくる長谷部信連はせべのぶつらが我々の氏祖で、長谷部信連は、謀反を計画した源氏の皇太子を逃がした。しかし、逃亡に手を貸した罪で、平氏のお偉いさんから、伯耆、現在の鳥取県の日野郡に流されたという話しだ。

戦国期になると、長谷部信連の子孫、長谷部元信はせべもとのぶという国人こくじんが、現在の広島県の府中市にある翁山おきなやまに城を築いたという。長谷部元信は、当初尼子氏に属していたが、毛利氏に寝返り「厳島の戦い」などで活躍している。尼子氏と敵対している毛利氏の武将がご先祖さまと言われているのに、我が家には「尼子の落人」という云い伝えがあるのはなぜか。

その答えは、備中松山藩で藩主・板倉勝静いたくらかつきよを支え続け、農民から武士になった山田方谷やまだほうこくの先祖、長丑之助ちょううしのすけにあるというものだった。長丑之助は、毛利氏ではなく、尼子氏に加勢し豊臣秀吉から「上月城こうづきじょうの戦い」の論功で備中松山藩領西方村一帯の土地を知行した。

さらには、高瀬にある長谷部の隣に住んでいる松田氏とは、血がつながっており、松田氏のご先祖様は、松田誠保まつださねやすという尼子十勇士となる。すなわち、毛利氏と尼子氏の血のつながった武将が、我々のご先祖さまだという。

父の随筆「尼子の落人」は、そんな、我が長谷部家のルーツをたどる推理小説みたいなものだった。父の随筆は、昔の言葉や色んな登場人物が書かれているので、正直、とても難しいものではあったが、わからないことを一つひとつ検索してみると、史実のようで色々な情報がでてくる。それがまた楽しい。

ご隠居へのメール:【長谷部氏】
ネットで調べると金沢に長谷部信連が祀られている長谷部神社があり、年に一度「長谷部まつり」があるほどの人のようだ。他にもご先祖さまに関連することを発見した。やはり関ヶ原の戦い後、徳川家に追いやられている気がするね。

ご隠居からのメール:【平家物語】
「平家物語」によれば、長谷部信連は平清盛に反抗した罪により伯耆(ほうき=鳥取県)の根雨に流刑となったが、源頼朝の天下になってから頼朝にとりたてられて能登の守護になった。備中や伯耆の守護にはなっていない。しかし、一族の長谷部元信の先祖が備後の上下地方の地頭になった。新見荘の地頭になったのは新見氏や多治部氏で、東寺が直営したこともある。やはり、元信の頃、長谷部氏は備後から侵入してきたと推測される。また、尼子氏が滅んだことにより、宍道湖畔の白鹿城主松田氏が高瀬に侵入し、八幡神社を拠り所にして吉野村を高瀬村に名称を変更した。おそらくその頃、松田氏と長谷部氏が政略結婚により手をにぎったのだろう。


8)家系図

父とのメールのやり取りをはじめてから、ご先祖様のことに興味をもつようになってきた。寝ても覚めても暇さえあれば、ご先祖さまのことを考えている。学生の頃は、歴史を学ぶ気にはなれなかった。戦国武将の名前を覚えるのも面倒だったし、なじみのない昔の言葉は、学ぶ気持ちを削いでいた。

ただ、戦争の話しや大河ドラマには、何故だか興味を持っていた。遺伝子に導かれているのかもしれないが、「坂の上の雲」をみたり、ひとりで「靖国神社」を参拝したり広島の「大和ミュージアム」「平和記念公園」などの見学をしたりもしていた。

山根さんの地元九州に行ったときには、玄洋社げんようしゃの話や地元でコッソリ語り継がれている謎の公園、谷公園たにこうえんなどにつれて行ってもらったりして、歴史の話をよくしていた。

浦安の実家には仏壇などもない。母がクリスチャンのためか、お盆に墓参りをしたり、ご先祖さまの話しをする機会なども少なかった。

結婚してからは、妻の実家近所に住んでいるということもあったので、妻方の墓参りには毎年行っていたけど長谷部家の墓参りは、ほぼしたことがない。中年になってから、寝ても覚めてもご先祖さまのことを考えるのは、自分なりに罪滅ぼしのキモチがどこかにあるのかもしれない。

長谷部一族の歴史にどっぷりハマった自分は、父とのメールのやりとりでは飽き足りず実家の浦安に帰りご先祖さまの話しをすることにした。そのときに父がみせてくれた資料がいくつかあったのだが、なかでも目にとまったのは、「家系図」だった。そこには、一番初めに「桓武天皇」と記載がされている。

「なんだこりゃ?」

もちろん、祖先をたどれば誰かしらの天皇につながるとは聞いたことがあったが、ここまで明確に記載されているとなると興味がわく。その後「葛原親王」「高望王」「高見王」「良望」「良将」などなど、歴史上の人物が記載されたコピーが8枚。

多くの人物名が書かれており、中には、「義李:後号信連長谷部兵衛尉」や「信豊:長谷部左右兵衛尉」「元信:長大蔵左兵衛尉」など様々な名が記載され、最後に「西谷幾三郎」と記載がある。

「これはなに?」

「長谷部家の家系図だ。最後の西谷幾三郎さんの娘が備中松山藩家老で百姓から武士となった山田方谷の母親だ。西谷家と長谷部家は親戚となる。昔、西谷さんに電話をしてこの家系図コピーをもらったんだ。」

「なんで、西谷さんに連絡したの?」

「そりゃぁ、研究したからだ。昔、長谷部家のおばさんがギャンブルに負けて、長谷部家の家系図を他人に渡してしまったという逸話を聞いたことがある。恐らくそれが西谷家の手に渡ったのではないかと思っている。」

突然舞い降りた驚きの話しだ。何のことだかわからない。しかし、この家系図には確かに長谷部の名前がある。そして、ふと昔のことを思い出した。

父の実家は、岡山県新見市神郷町高瀬という、岡山県と鳥取県、広島県の境界にある村で、幼少のころ祖父に「ここから見えるすべての土地は全部長谷部の土地だ」と言われたことがあった。当時は、全くよくわからない話だったが、いまとなれば、「なぜだ?」と思ってきた。

「俺が昔書いた随筆のコピーだ。お前、歴史に興味があれば読んでみろ」

「家系図」とは別に父が書いた随筆「尼子の落人」と「新見太平記」のコピーをもらい読んでみると、益々ご先祖様の歴史に興味をもつことになった。


9)神郷町大字高瀬

岡山県新見市阿哲郡神郷町大字高瀬

父である82歳のご隠居が育った故郷。自分が幼い頃は、毎年夏休みに家族6人で新幹線に乗り東京から4時間かけて岡山へ行く。そこからローカル電車に乗り換え新郷駅にいざとえきまで3時間かけて里帰りをしていた。

無人駅の新郷駅には駅開設の石碑が立っていて当時村長だった祖父の名が刻まれている。駅前からバスに乗り10分ほど経つとようやく祖父の家というか、長谷部家の土地に到着するのだ。

幼少の頃、祖父から「見渡す限りすべてが長谷部の土地だ」と教えられたことがあった。当時は、何のことだかわからなかったが、中年になったいまとなると、それはもの凄いことだなと思う。

隣の家まではかなり離れている。しかも、住んでいるのは、祖父の弟、亀三おじさんの家族だった。亀三おじさんは、太平洋戦争のとき予科連で特攻隊に所属していたと言っていた。出陣することはなく終戦になったそうだが、亀三おじさんは優しく男らしい人だった。

自分は、祖父が大好きだった。高瀬に帰るとトラクターに乗せてもらったり、畑になっているトウモロコシは食べ放題。キュウリやトマトも好きなだけ食べさせてもらった。必ず瓶の三ツ矢サイダーがあって、サイダーは飲み放題だった。

裏山にもよく連れて行ってもらった。たくさんの杉林がありチィエンソーで木を切る祖父をみて、カッコいいと思っていた。家のすぐ裏には川が流れており、そこらに生えている竹を切り糸と針をつけて、畑でみつけた大きなミミズを餌に魚釣りをした。

だだっ広い野原には馬や牛が放牧されている。「蹴られると危ないから近寄ってはダメだ」と言われていたので、馬や牛と触れ合うことは少なかったな。いつしか馬小屋はなくなり「さみしいな」と思った記憶がある。

楽しい思い出だけではなく、めちゃくちゃ怖いこともあった。それは、トイレ。小便をするトイレは室内にあるのだが、大便をするトイレは外にあった。それも、、ボットン便所だ。

夜トイレに行くことが、とにかく恐ろしいのだ。小屋の電気をつけると見たこともない大きな蛾や蜘蛛が「ここは、俺たちの縄張りだ!」と言わんばかりに陣地を奪い合っている。

虫たちがガサガサ動くのがメチャクチャ怖いのだ。虫がいるから身体を支える手すりも握れない。だから、ボットン便所の穴に落っこちてしまうのではないかと更なる恐怖が生まれてくる。そんなこんなで自分は、夜トイレに行かなかった。姉たちも心底嫌がっていたな。

そして、大人たちの飲み会も恐ろしかった。自分たちが高瀬に帰省すると、親戚中の人々が夜な夜な集まってきて、大騒ぎしながら飲みまくる。中年のオヤジとなったいまなら、楽しくその輪に入れると思うが、当時は酔っ払いたちに絡まれるのが怖くて襖をしめて子供たちだけで遊んでいた。

昼間、あんなに優しかった祖父も豹変して大声でなんやら話している。いま考えると、「大和の男」を象徴するような飲み会だ。

あとは、「ご先祖様が畳の下に眠ってるよ」とも言われたことがある。その部屋に布団を敷いて眠るのが怖くて怖くてしかたがなかった。

高瀬は、本物の田舎なので、夜はまったく光がない。それは、誰もがびっくりするほど。家族でキャンプをしに田舎に行くことがあるけど、それでも街灯など、どこかしらに光があるものだ。しかし、高瀬には月と星の光しかさしこまない土地なのだ。

自分が14歳の頃に祖父が亡くなった。そのとき印象に残っているのは、テレビや漫画でオバケが頭につけている白い三角の布を頭に巻いて、男たち6人で棺を担ぎ土葬したこと。

そして、義理の祖母が壊れた腕時計を自分の手のひらに押込み握りしめ「お祖父さんの形見だよ」と渡された。それを見た母はメチャクチャ怒っていたけど自分は、とくに気にしなかった。というか、祖父が亡くなったことを受け入れることができなかったのだ。

その後、義理の祖母も亡くなった。自分たち家族は、葬式にも行かず父だけが参列した。父は、長男だったので、見渡す限りの土地や山林を相続したが、一切の権利を放棄し義理の弟に全て相続した。争いごとの嫌いな父は、欲に負けない武士の精神をみごとに貫いたと思った。

それでも、中年のオヤジになった今となると、父の故郷に帰りたくなる。それは、自分のなかのDNAのなにかが騒ぎ出しているのかもしれない。


10)長谷部信連

長谷部氏の始祖といわれる長谷部信連はせべのぶつらのことを調べてみると、色々な伝説や逸話を知ることができました。現代の日本人で約25,000人くらいの人が、長谷部氏の姓を名乗っているそうですが、すべては、この人、長谷部信連から始まっているといっても過言ではありません。

調べたことを自分なりにまとめてみます。長谷部信連が伝説となっている所以は「平家物語」に記されているからです。長谷部信連は1147年(久安三年)1月16日に遠江国(静岡県浜松市付近の村)で誕生します。

16歳で滝口武者たきぐちのむしゃ(天皇の護衛)になり、常磐殿ときわでん(京都八坂神社)に入った強盗を二条堀川まで追いかけ、1人で4人を討ち取り2人生け捕りにしたことで武名をあげたそうです。その後、後白河法王ごしらかわほうおう第三皇子の以仁王もちひとおうに仕えることになりました。

ときは、平安時代末期。「平治の乱」で勝利した平清盛は武士で初めて公卿(貴族)の仲間入りを果たし朝廷は平氏一族であふれていました。

世はまさに平氏の天下です。

しかし「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉が現代に残るほど平氏一族は傲慢で乱暴でした。みかねた|後白河法皇が平氏を討とうと計画しますが阻止され幽閉されることになります。このことで平氏一族に対する反発は、より一層高まることになりました。

1180年(治承四年)に後白河法皇の第三皇子、以仁王は源頼政よりまさと平氏追討の計画(以仁王の挙兵)を図り、源氏一族に平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促しました。以仁王も自ら挙兵を試みますが、事前に平氏に発覚してしまいます。このときに以仁王を近江国(滋賀県)の園城寺おんじょうじに逃がしたのが当時33歳の長谷部信連といわれています。


■平家物語

以仁王を捕まえるための検非違使けんびいし(違法を取り締まる使者)が御所にむかっていることを知った長谷部信連は、自分の女房(日吉社の神子)の薄衣一枚と笠を取り出して以仁王に女装して逃げるように提言します。一行はあわただしく出発していきましたが、部屋を見渡すと以仁王が大切にしていた小枝(笛)をみつけだし、信連は急いで後を追い二条高倉で小枝(笛)を届けたそうです。

小枝(笛)を置いてきてしまったことを後悔していた以仁王は、信連にたいそう感激し「一緒に参らぬか」と誘います。しかし、信連は「あの御所に自分がいることは、京中のありとあらゆる者が存知ておりますので、夜中にいなくなったなどと言われる事は名を惜しむものです。官人どもの相手をして一方を打ち破って参るつもりでございます」と言って走り戻っていきました。

案の定、六波羅ろくはらの兵達が三百余騎で押し寄せてきました。検非違使である土岐光長ときみつながは、門をくぐり「以仁王の謀反が露見したためお迎えに参りました速やかに御所のなかからお出になられませ」と大声で叫びます。

信連は「ただ今、以仁王は御所にはおられないが何事か、事の次第を申されよ」と返答すると土岐光長は「何を言うか。この御所じゃなければ何処にいらっしゃるものか。そういう事ならお探しいたせ」と兵を乗り込ませました。

信連は「常識知らずの官人どもの申し方だな。馬に乗りながら御門の内へ入るのでさえ、とんでもないことなのに、お探しいたせとは何事だ、左兵衛尉長谷部信連がいるぞ。そばに寄って怪我をするなよ」と言い放ち、屈強の兵たちを十四、五人切り倒しました。しかし多勢に無勢、捕らえられてしまい六波羅に連行されてしまったのです。

翌朝、六波羅で尋問をうけた信連は「御所に何者か知らないが、鎧を着た者が三百騎ほどで打ち入ってきた。最近は物騒で盗賊も多いと聞く。ずけずけと御所に入り込む者がいたので討ち取ったまで、以仁王の御在所は存知あげない。たとえ存じておりましょうとも、侍ほどの者が、申すまいと決心している。以仁王のために首をはねられるのであれば、冥土の土産になる」と言い放ったそうです。

すると平氏の老少は「あっぱれ、剛の者の手本であるな。もし思い直すならば、当家に奉公せよ」と打ち首を免れ伯耆の日野へ流されたといいます。

■伯耆日野
伯耆日野に流された信連は、日野一帯の権力者である金持左衛門尉かねもちさえもんのじょうを頼り、金持に属して日野黒坂に住みつきました。伯耆日野でも賊を討つなどの武功をたてたといわれています。

当地には『ある日、腹をすかせた信連が川を眺めていたところ、美しい女性が川の向こう岸に渡してほしいと頼んできました。信連は願いを聞き、川を渡らせると、女性は狐の姿になり信連の服の家紋を食いちぎり走り去ったという。追いかけた信連は、ご飯の前にたどり着き飢えをしのいだ』という伝説も残っています。

さらに信連は、京都の風景を懐かしみ伯耆日野の地に延暦寺えんりゃくじ長楽寺ちょうらくじ祇園神社ぎおんじんじゃをつくったとわれています。現在も日野下榎には「長谷部館跡」が存在し、長谷部信連の子孫が勧請したと言われる日野厳島神社には長谷部家31代当主がご存命しています。

■鎌倉時代
以仁王が全国に命じた「国々の源氏よ平氏を討て!」その言葉で源頼朝よりともはじめ、全国の源氏が立ち上がり挙兵しました。有名な「源平合戦」です。当初は平氏優勢で戦が行われましたが、源頼朝が背水の陣で臨んだ「富士川の戦い」で、水鳥が飛び立った羽音を敵襲と間違えた平氏一族が戦わずに逃げ帰ったり、源義経よしつねの「鵯越ひよどりごえ逆落しさかおとし」や「壇ノ浦の戦い」での船から船へ飛び移った「八艘飛はっそうとび」などの伝説が語り継がれるほど、源氏の勝利は現代に残っています。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰のことわりをあらわす
おごれることも久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ


「この世のものはすべて移り変わるはかないものである。どんなに栄えているものも必ず衰える。どんなに偉そうにしている者もその繫盛は長くは続かない。それはもう、春の夜に見る夢のようなもの。どんなに強い者も最後は滅んでしまう。まったく風が吹けば飛んでしまう塵と同じだ」

平家滅亡後、源頼朝が創設した武家政権、鎌倉幕府が樹立されると源頼朝は、以仁王の遺臣である長谷部信連を探し出し「剛の者のたね継がせんとて」「由利小藤太が後家に合はせ」と旧功を賞しました。そして、信連は関東御家人となり、安芸国宮島の検非違使に補され、さらには能登国珠洲郡大屋荘を与えられたのです。


■能登国大屋荘

1186年(文治二年)、長谷部信連(39歳)は源頼朝に従い武功をたて続け領地を広げていきました。最後には出家をしたともいわれていますが、1218年(建保六年)72歳で大屋荘の河原田で没したと言われています。大屋荘では、39歳から72歳までの33年間で5人の男児を産み、その子孫は長氏と名乗ることになります。戦国期には一度お家断続になりそうなこともあったそうですが、加賀国・前田家の家臣として存続しました。

こんな伝説もあります。『信連が領内を巡視した時、偶然に白鷺が降り来たって葦原の小流に病脚を浸すのを見た。これが、もとで霊泉を発見し、のちに有名となる山中温泉の発端である。また、山中温泉が一名白鷺温泉とも呼ばれる由来でもある』

石川県には、長谷部信連を祀った「長谷部神社」や「長谷部まつり」があるそうです。いつか行ってみたいものです。


■始祖信連

他にも、武蔵長谷部氏、尾張長谷部氏、伯耆長谷部氏、備後長谷部氏、筑後長谷部氏、津江長谷部氏など長谷部信連の子孫と語られている文献を多くみつけました。

また、姓は、蔵田だが先祖は信連といわれている記事もありました。鎌倉殿の公認で「多くの種を残せ」と言われた長谷部信連です。若き頃、京都にいたときの女房を含め全国各地に多くの子孫を残し現代の我々につながっているのだと思います。


■三浦氏

長谷部信連は桓武平氏の一派三浦氏のながれであり三浦義明の五男義季が後に改名したと言われています。

源頼朝が亡くなり息子の源頼家よりいえが政務を執行しましたがチカラがなく、源頼朝の妻である北条政子が源頼家から実権を奪いました。そして政治を行ったのは有力者13人。一般的には、「宿老十三人の合議制」と呼ばれていますが、そのひとり三浦義澄みうらよしずみは、長谷部信連の兄にあたります。

そして、三浦一族の上流、千葉氏の家紋は九曜紋でわが家の家紋と同じです。


11)戦国期までの道のり

ファミリーヒストリーを紡ぐなかでは、長谷部家の命運をわける戦国期をなんとか生き延びた長谷部元信についても調べる必要があります。

長谷部大蔵左衛門元信はせべおおくらざえもんもとのぶは、長谷部信連の子孫と称し、広島県府中市上下にある翁山おきなやま城の城主で国人だったそうです。長谷部信連ほど伝説が残っているわけではないですが調べてみるといくつかの文献や痕跡が残されていました。

しかし、長谷部信連の活躍した鎌倉時代の1200年頃から、長谷部元信が活躍した戦国中期までには、約350年の月日が経っています。まずは、そこまでの歴史背景を簡単にまとめてみることにしました。


■戦国期までの道のり

1333年(正慶二年)鎌倉幕府を滅亡に導いた後醍醐天皇ごだいごてんのうと足利尊氏たかうじは、戦後の主権争いで揉めることになります。後醍醐天皇は三種の神器を持ち出して正当な天皇を主張しながら奈良(南朝)で政治を行います。一方、全国の武士をまとめあげた足利尊氏と光明天皇こうみょうてんのうが京都(北朝)で政治を行い、世は南北朝時代に突入しました。

1392年(明徳三年)。世代交代した3代将軍・足利義満よしみつは、南北朝の問題を解決するため、交代で天皇を出す約束を交わし三種の神器を取戻しました。しかし、義満は約束を破り北朝から天皇を出し続けると南朝はチカラを失います。そして、ようやく幕府が安定するようになり室町幕府最盛期を迎えることになったのです。

足利義満は、みんとの国交貿易を再開すると財を成し金閣寺をつくったり「猿楽能さるがくのう」を大切にするなど日本文化の礎をつくりました。更には、義満の正妻、日野康子を後小松天皇の准母じゅんぼ(生母ではない天皇の母)にすることに成功すると、武家出身の義満が皇族の仲間入りを果たしました。

1428年(正長元年)室町幕府中期。日本は全国的な飢饉に苦しみ、田畑は荒れ、強盗が出没し、はやり病まで大流行するようになりました。窮地に追い込まれた農民たちはそう(自治組織)をつくると、土一揆を起こすようになります。暴徒化した農民たちは、寺や土倉どそう(質屋)、酒蔵などを襲い農民たちは徳政令を勝ち取りました。

1449年(宝徳元年)8代将軍・足利義政よしまさは、飢饉や一揆などの問題を解決することができず、足利義満が後世に愛した「猿楽能」や「造園」「建築」など文化的なものに夢中となりました。この財政難を救ったのが、足利義政の妻、日野富子ひのとみこです。日野富子は高利貸しや関所の通行料などで大きな富を得ることになりました。

しかし、日本をゆる動かす悲劇はここから始まります。足利義政は、政治が苦手だったので、出家していた弟の足利義視よしみ還俗げんぞく(一般人にもどる)させ跡継ぎにする準備を始めました。しかし、ここで足利義政と日野富子に待望の男児、足利義尚よしひさが生まれると有力大名を巻き込んだ、将軍跡継ぎの戦い「応仁の乱」が起こるのです。

1467年(応仁元年)から始まった「応仁の乱」は様々な思惑が入り混じっており、学ぶのも面倒くさいですが、この時期を知らなければ戦国期に突入しません。様々な思惑を分けてみますと「将軍後継争い」「幕府勢力争い」「跡継ぎ争い」「守護同士の権力争い」という、私欲(家の利益)の戦いだったと個人的には思っています。

【東軍】
・足利義視・細川勝元・畠山政長・斯波義敏・赤松氏・富樫氏・京極氏など

【西軍】
・足利義尚・山名宗全・畠山義就・斯波義廉・六角氏・一色氏・大内氏など

大義名分のない「応仁の乱」は11年間、30万人近い兵士が戦いますが、東西軍どちらの勢力で戦っているかもわからないような混乱もあり、はっきりとした勝負もつかないまま1477年(文明九年)に両軍が解散されて幕が下ろされました。そこで残ったのは、日本全国の不安と、焼け野原になった京の町。将軍の権威や幕府の支配力が失われてしまったことで、各地の支配権を奪い合う戦国期に突入していくのです。


12)長谷部元信

応仁の乱を経て、戦国期に突入したご先祖さま。現時点ではあるけれども、戦国期に活躍した長谷部大蔵左衛門元信はせべおおくらざえもんもとのぶの逸話や語り継がれている歴史についてまとめてみました。

はっきりとした勝敗もつかないまま1477年(文明九年)に東西両軍が解散して応仁の乱は終了しました。幕府の統制が効かなくなった日本国は、各地で「一向一揆」が起きるなどの混乱期となっていきます。西日本では、室町幕府時代までチカラを持っていた山名氏が衰退し、代わりに大内氏が影響力を強めていくことになります。

大内氏は、応仁の乱で戦火から避難してきた、公家や僧侶を積極的に受け入れ、「西の京」「大内文化」と呼ばれるようになるまで文化を発展させました。また、日明貿易にちみんぼうえきなどで莫大な利益などで益々繁栄し、1508年(永正五年)ついに大内義興おおうちよしおきは上洛を果たすこととなります。

ときは経ち、尼子氏、毛利氏、大内氏の中国地方の勢力図が目まぐるしく変わる時期に、長谷部元信が活躍したといわれています。


■吉田郡山城の戦い

元々、山名氏と血縁関係のある長谷部氏でしたが、応仁の乱による山名氏衰退後、尼子氏の傘下に入っていました。しかし1540年(天文九年)尼子晴久が30,000の兵で毛利元就の居城、吉田郡山城に攻め込みます。理由は、毛利元就が尼子氏から大内氏に寝返ったためと言われていますが、毛利氏は2,400の兵で対抗します。その後、大内氏の援軍、陶晴賢すえはるかたが到着すると尼子晴久は撤退。このときの敗戦で多くの国人が尼子氏を離れたそうです。


■厳島の戦い

長谷部元信は、1555年(弘治元年)に毛利元就とともに大内義興おおうちよしおきを殺害した陶晴賢すえはるかた討伐のために厳島の戦いに参戦しています。当時、陶軍30,000、毛利軍5,000と言われているので、士気や連携、地勢の利をうまく利用して勝利したのだと思います。


■から傘連判状

長谷部元信は、1558年(永禄元年)に毛利元就が備後国衆18人と交わした「から傘連判状」に署名をしている一人でした。毛利元就が交わした「から傘連判状」は、芸州国衆と備後国衆と交わした2種類あり、円状に名を連ねることで首謀者を隠し、みな平等だという意味で署名と血判の契りを交わしたそうです。なお、備後の「から傘連判状」は、その後、破談したと伝わっています。


■白鹿城の戦い

他には、1562年(永禄五年)の白鹿城しらがじょうの合戦で、『楢崎三河守、長(長谷部)大蔵左衛門、虫上五郎は、好適の首を討ち取った』と「陰徳いんとく太平記」に記載されています。このときに松田誠保まつださねやすと戦っています。将来、長谷部氏と松田氏の末裔は、「尼子の落人」と称し高瀬村の隣人として支え合いながら生きていくことになるのです。


■逸話1

ロマンあふれる歴史だけではありません。伯耆日野黒坂に長谷部信連の末裔で神官の長谷部絢光氏が以下のような文章を残しています。

『註 これより元信、毛利家に加担したること及関長門守黒坂入城の際雅楽相模守(元信五代の孫)に地割じわりさせられしことより長門守神罰を受けて滅亡することに及び仏法を排し神明神衹しんめいじんぎを崇拝すべきことを詳論せり。』


■逸話2

そして、もうひとつ。鳥取県の日野に「大倉山」という山があり、この山は、「大蔵山おおくらさん」と呼ばれたり、第7代・孝霊天皇こうれいてんのうに退治された鬼が住んでいたので「牛鬼山」とも呼ばれ以下のような逸話が残っていました。

『長谷部信連の末裔の長谷部元信が山麓を通りがかると「大蔵殿」と鬼に呼び止められて、「お前の先祖長谷部信連が各地に神社を建てるので住み難くなったのでここを去る」といって消えた。』

まだまだ、深堀する必要があると思いますが、ご先祖さまの情報を460年後の現代にWebや本を通じて知るというのもなんですが、翁山城跡には、長谷部元信の墓があり、菩提寺ぼだいじである善昌寺ぜんしょうじがあるそうです。どちらも広島県の上下町と遠く離れた土地にありますが、いつか行ってみたいものです。


13)松田伝蔵

神奈川県の宮前区と千葉県の浦安市は、車で1時間ほどの距離。父と母も高齢だし子供たちも、どんどん成長するので、なるべく実家に帰る機会を増やしたいが、コロナ禍で県外移動自粛を求められているので、その希望も叶えることができない。

とはいえ、父と母には定期的に会いに行く必要があると思っている。しかも、父とは、今回のプロジェクトについて、つもる話しがたくさんあるのだ。そこで、妻と子供達に留守を頼み、自分ひとりだけで実家に帰ることにした。

浦安の実家に帰ると、待っていたとばかりにご隠居とファミリーヒストリーの話が弾む。そんななか、ご隠居が新しい資料を渡してきた。その内容は「西村伝蔵」さんという方の記事だった。

「この人は、松田(西村)伝蔵さんといって、高瀬にある我が家(長谷部家)の隣に住んでいた、松田家の人間で長谷部家の養子だった人なんだ。曾祖父の友治郎さんと、曾祖母のイシさんには子宝が恵まれず、幼少の頃の俺の祖母、津弥つねさんを養子にとった。そして伝蔵さんは津弥つねさんの許嫁だったようだ」

「へー、そうなんだ。そんなことどうしてわかったの」

「オレは全く知らなかった。都立図書館にある『神郷町史』をみてオレが見つけたのだ。恐らく神郷町長だった、父親の與一さんが隠していたのだろう。小さな村では、これは家の恥じをさらすことになる。しかし、歴史書に残ってるほどの宗教家となった伝蔵さんについて、我々は知る必要があると思っている」


■新郷町史

松田伝蔵さんは、1887年(明治二十年)に松田家の五男として生まれ、土地の豪農長谷部家を継ぐべく、同家に入り、養父・友治郎に従い、未来の妻と定められた養女・津弥さんと共に農業の仕事を習った。

長谷部家の養子となって、その家族を守っていけば、もとより食うに困るような家ではなく、この村においてはまず、上流の農家として人の羨むほどの身分である。しかし、それだけに甘んじることが、果たして男子の本懐であろうか。

「財において、三井・三菱と肩を並べるほどであろうとも、それは人間の価値というものではない。況や人の成し遂げた在を継いで、それが何の価値があるのか」

養父・友治郎氏は、たいした学問もなく、伝来の家族に満足し晩酌の一杯も傾ければ、それで天下太平という男だった。伝蔵はその様子をみて

「わしもあのようになるのだろうか。だが、あのようにはなりたくない。もっと大きい使命があるに違いない」と思っていた。ある夜、彼は、養父母と許嫁に決別を告げ郷関をでた。

その後、興譲館こうじょうかん中学校に編入学し上京。「貧しいもの、弱いものの味方になって、世を救い、理想の社会を築きたい」という悲願を起こし宗教家となり、やがて金光教こんこうきょうに入信し活動をつづけた。

だいぶ要約したが、記事にはこのようなことが書いてあった。松田伝蔵さんが大志を抱き村を出る決断をしてくれたことにより、曾祖父・勝次郎さんが長谷部家の養子となり、津弥さんと結婚した。そして、ご隠居や自分は命を授かることができたのだ。そして、友治郎さんが大酒飲みだったことに、なんだか親しみを感じてしまう。

友治郎さんが生きていた150年後に長谷部の名を継いでいる自分がご先祖様の人柄を知ることができるなんて。なんて、ありがたいことなんだろう。


14)山室軍平

我々に命があるのには、松田伝蔵さんの生き方に関係していたが、もう一人、影響のあった方がいる。それは、日本人初の救世軍士官で、日本軍国司令官になった山室軍平さんの存在だ。

はじめて松田伝蔵さんや山室軍平さんの話を聞いたとき、二人とも宗教家のため、正直胡散臭いと思ってしまった。「宗教」=「胡散臭い」と思ってしまうのは、自分のなかで何かの防衛本能が知らずに働いてしまっているのかもしれない。

しかし、明治から昭和までのあいだは、貧しい人や男女間の差別等も当たり前のようにあったので、人間としての倫理観を訴え続けてきた人なのだろうなと思っている。

念のため、先にお伝えしておくが、自分は『金光教』でも『救世軍』の信者でもない。ファミリーヒストリーを紡ぐうえで、神仏含め、ご先祖さまがどのようなことを信じ人生を全うしたのか知りたいと思っている。


■救世軍:山室軍平
救世軍は、1865年(慶応元年)江戸時代末期にイギリスで発祥したキリスト教を布教する団体です。「軍」を名乗っているのは、組織的な統制(階級、制服、記章、指針、規律、用語)を図るためと言われています。日本には1895年(明治二十八年)に12名の伝道者が横浜港に到着し布教活動を始めました。

1895年(明治二十八年)といえば、日清戦争が終わり下関条約が調印された年です。近代国家、富国強兵を推し進める一方、鎖国から脱却してまもない封建主義が色濃く残っている時代のため、貧困や男女差別などが横行していたそうです。

山室軍平さんは、1895年(明治二十八年)に救世軍に入隊し、翌年の1896年(明治二十九年)には日本人最初の救世軍士官(伝道者)になりました。1907年(明治四十年)には、東洋人で最初の救世軍将官となり、日本軍国司令官を務めました。

終生に渡り社会福祉事業、公娼こうしょう廃止運動(廃娼運動)、純潔運動に身を捧げ、1915年(大正四年)11月9日に藍綬褒章らんじゅほうしょう、1924年(大正十三年)に勲六等瑞宝章ずいほうしょうを受章。1937年(昭和十二年)には救世軍大将より「創立者章」を受章しました。

1902年(明治三十五年)の日英同盟は、救世軍の存在も寄与し日露戦争の勝利に大きく関わったといわれています。また、渋沢栄一など経済界の重鎮と山室軍平さんは繋がっており、当時、多額の支援をうけていたそうです。


■長谷部家との関わり
我が長谷部家は、長谷部信連の子孫として岡山県新見市高瀬村にひっそりと住みながら、「尼子の落人」を誇りに生きていました。百姓ですが、ご先祖さまから続く武家のしきたりを大切にしているため、当然、婚姻関係を結ぶには、「家」と「家」の格や血筋を重んじており、山を越えた隣村、伯耆日野(鳥取県日南町)から、毎回妻を娶っている様子が伺えます。伯耆日野というのは、鎌倉御家人の長谷部信連が流浪の身となって、7年間住んだ場所になります。

そのような、家の伝統を破った人がいます。それが、自分の祖父・長谷部輿一さんです。そのお相手は、鳥取藩主に仕えたという岡村家の長女、自分の祖母である岡村貴美子さん。この二人のご縁が結ばれたのは、救世軍・山室軍平さんが仲をとりもったといわれています。

山室軍平さんは、岡山県新見市哲多郡則安村に生まれ、則安村は、長谷部家の土地、高瀬村に近く、互いに知っている関係だったと思われます。救世軍には貴美子さんの父、岡村はじめさんが入信していましたので山室軍平さんから「長谷部の家柄であれば問題ない」とお墨付きをもらったのでしょう。

山室軍平さんがいなければ、自分の命は紡がれていないことになります。


15)八つ墓村

父とメールのやりとりを続けてると自分たちのご先祖さまに関わる知らない言葉や情報が入ってくる。その内容をネットで調べると、なんだかそれらしい情報が収集され、あらたな謎が生まれる。この作業を繰り返すことが「歴史ロマン」というものかもしれないが、事実と逸話が交じり合い、なんだか推理・推測が溢れ出てしまうのだ。まるで、完成していない実体験版の推理小説にのめりこんでいるみたいだ。

例えば、父の随筆「尼子の落人」や「辰五郎と方谷」でも紹介されている横溝正史さんの有名な推理小説「八つ墓村」。昔から、父の故郷である、岡山県新見市阿哲郡神郷町高瀬あたりにある山奥の一寒村がモデルだと聞いていたのだが、タイトルからして恐いイメージだったので、小説を読んだこともドラマをみたこともなかった。

しかし、今回は、ファミリーヒストリーを研究するうえで調べる必要があると思い、初めて金田一耕助シリーズのドラマをAmazonPraimeでみたり周辺情報調べてみた。すると、高瀬や日野周辺の史実を参考にした小説だということがよくわかってきた。まさに「歴史ロマン」だ。


■八つ墓村

我が家のご先祖さまは「尼子の落人」と家訓のような云い伝えがありますが、「八つ墓村」の物語にも八人の尼子の落武者たちが登場します。

1566年(永禄九年)月山富田城がっさんとだじょうで毛利元就との戦いに敗れた、尼子の落武者八人が伯耆、備中の境にある山々に囲まれた一寒村に落ちのびてきます。彼らは尼子家再興のために3000両を持っていましたが、それを知った村人たちに殺され黄金は奪われてしまうのです。「八つ墓村」の物語は、その怨念がなんと400年後の現代に続き、連続殺人事件が起こるという物語です。

この話だけみると、ひとつのフィクション小説にみえますが、実はいくつかの史実と実話のエピソードをもとに物語が構成されてました。


■津山事件

1938年(昭和十三年)に岡山県苫田郡西加茂村(現津山市)内の住人を約2時間のあいだに猟銃と日本刀で死者30名、重軽傷者3名の被害者をだした連続殺人事件がありました。この実際に起きた事件を「八つ墓村」ではモチーフにしています。小説では尼子の落人の怨霊により気が狂った豪家の田治見氏が村人を次々と殺害するシーンがあります。

ちなみに、父の実家神郷町高瀬から津山事件が起きた西加茂村までは100キロほど離れています。1938年(昭和十三年)というと日中戦争が勃発して丸一年経った頃です。まだ、父は生まれておらず、祖父の輿一さんと祖母の貴美子さんが満州国・哈爾濱はるぴんで仲睦まじく新婚生活を過ごしていたと想像します。津山事件のことは、二人の両親・勝次郎さん、津弥さんとの手紙や新聞などで知ることになったと想像しています。


■九牛士

伯耆日野(現日南町)に「九牛士きゅうぎゅうしの伝説」というものがあります。これは、毛利氏が尼子氏を滅ぼしたのち、尼子の残党が伯耆日野で食料を略奪をしていたところ、小早川隆景が尼子残党を生け捕りにしたという話です。隆景は生け捕りにした尼子残党を打ち首にする予定でしたが、住職が命を助けるようお告げの夢をみて、小早川隆景に懇願し助けたという伝説です。すくなくとも、この地に尼子の残党がいたのだろうと思えるエピソードですね。


■八人塚

「八つ墓村」の題名ですが、こちらも伯耆日野に備後、備中、出雲へ至る峠で馬子八人が遭難したといわれる場所に、「八人塚」という八人の霊を弔うための塚があるといわれています。「八人塚」から「八つ墓村」という名をインスピレーションしたのではないでしょうか。

■明智峠
1977年(昭和五十二年)に製作された松竹映画『八つ墓村』では、山陰地方にある明地峠がロケーションの地となりました。原作となった横溝正史の推理小説『八つ墓村』では、「八つ墓村というのは、鳥取県と岡山県の県境にある一寒村である」という書き出しで始まっています。疎開していた横溝正史も、明地峠の雲海をみたのでしょうか。明智峠は日南町(日野)にあり、神郷町高瀬からわずか20キロほどの場所にあります。


田治見氏、亀井氏
小説「八つ墓村」では、連続殺人の謎を解くために、金田一耕助が事件関係者の家系図を調べます。すると、尼子の落武者たちを皆殺しにした際の首謀者・田治見庄左衛門たじみしょうざえもんの子孫が、田治見要蔵たじみようぞうだということが判明しました。400年後の現代、尼子の落武者の怨霊により田治見要蔵が、村人を32人殺害するという話なのですが、この田治見氏は、戦国期に、備中(現岡山県新見市あたり)の代官であった「多治部たじべ氏」と「新見しんみ氏」の名前からとったのだろうと推測されます。

また、小説だと田治見要蔵の息子だと思っていた辰弥たつやが、実は、母、鶴子が昔深くお付き合いしていた亀井洋一の子だと判明します。この亀井氏は、戦国期の尼子家臣で、尼子再興軍結成時、羽柴秀吉に同行していた「亀井茲矩かめいこれのり」から名をとったと思われます。


■横溝正史

横溝正史は、1945年(昭和二十年)43歳のときに親戚である原田光枝の世話で岡山県吉備郡岡田村字桜に疎開をします。農作業などしながら疎開生活を送っているときに岡山地方の伝説・習俗などを学ぶ機会を得ました。これがのちに岡山を舞台にしたたくさんの作品を書く土壌となったといわれています。

当時、中国地方に住む、老人から聞いた言い伝えや語り継がれてきたことを推理小説に反映したのでしょう。このような事柄からも、「ご先祖様は尼子の落人」と云い伝えられている身としては参考にしてしまいます。


大庭葉蔵
これは、まったくもってトンチンカンな予測かもしれませんが、今回、父とメールを始めたことによって、著名な本くらいを読もうと思い太宰治の「人間失格」を読んだことがあります。それとなく選んだ本でしたが、「人間失格」にでてくる主人公の名前、大庭葉蔵から、「八つ墓村」にでてくる「生まれてスミマセン」と思わせる人物、田治見要蔵の「要蔵」の文字は、「葉蔵」から転用し命名したのではないかと最近、思っています。横溝正史さんは、太宰治さんのことをリスペクトしていたのではないでしょうか。


16)あらたな資料

毎日のように父とのメールを続けていると、どうも実家に帰って話をしたくなってしまう。緊急事態宣言中ではあるが、高齢者の両親に会いに行くということを名目にして浦安の実家に帰ることにした。

実家に到着するとすぐさま、ファミリーヒストリーについて話し合うのだが、その日も、父があらたな資料を用意していた。


■資料①:井出ノ谷造林地
長谷部の土地36町歩のうち父が一時的に相続したという井出ノ谷造林地の登記簿と山の写真をみせてもらった。岡山県が国有林として杉の木を植えているということだが、この山々は鳥取県の日野につながっている。相続で分割してこなければ、昔は100町歩ほど、「見渡す限りの山々が長谷部の土地」といわれてきた。この事実だけ考えると、長谷部信連の代からこの土地を守ってきた可能性がある。


■資料②:戸籍謄本
長谷部輿左衛門さんから父につづくまでの戸籍謄本16枚のコピーを譲りうけた。そこには、ご先祖さまが生まれた日や亡くなった日。入籍した日などが記載されている。この戸籍謄本をもとに、いつの時代にどのようなことが起きたのか、想像を膨らませることができるようになった。


■資料③:母からの手紙
父の生母、自分のお祖母ちゃんの貴美子さんは、1940年(昭和十五年)11月8日、父が1歳の頃、中国の張家口で亡くなっている。享年26歳。父は生まれてから今日まで母を想い続ける人生を送ってきたのだが、先日、貴美子さんの妹さんの喜久子さんが2020年(令和二年)12月30日に102歳で亡くなった。

その喜久子さんが持っていた母と姉つまり、父からすると母と祖母がやり取りをしていた「手紙」を遺族の方々から送っていただいたのだ。父とファミリーヒストリーの調査をして、このようなご縁があるのは、本当に不思議な事象だが我が家にとってこれほど貴重な言葉はない。

あらたな資料をみることによって、自分のルーツがより詳細に判明してくる。毎日、推理小説を読んでいるような感覚だ。更には、歴史も学んでいるので知識もついてくる。なによりも、父とのコミュニケーションは、現代版の直系家族のように、日々の出来事や考えていることの意思疎通ができる。

父と酒を飲みながら、ご先祖さまの話しをはじめた。コップ一杯のビールを飲んだだけで顔がみるみると赤くなる姿をみると、若い頃強かった酒もさすがに80を越えると弱くなるのだろうと思う。父は軽快な口調で語りだした。

「長谷部與左衛門さんの息子は、弥左衛門さん。弥左衛門さんは、自分の息子、友次郎さんがいるのに、なぜか、喜代太郎さんを養子にとり、家督を譲っている。しかし、喜代太郎さんが若くして亡くなってしまったことで、結局は、友次郎さんが家督を継いでいるようだ」

「友次郎さんと、妻であるイシさんの間には子宝が恵まれず、オレのお祖父さん、お祖母さんにあたる、勝次郎さんと、津弥つねさんが幼少の頃から養子になった」

「勝次郎さんと津弥つねさんは、8人の子宝に恵まれた。長男の與一さんは、オレの父親だが、母である喜美子さんと結婚して満州国に渡った。オレは、満州国の哈爾濱はるぴんで産まれたんだ」

「長谷部の家には、どうも家訓があるらしく、妻は、山を越えた日野からもらっていたようだが、與一さんは、その家訓を破り、岡村家の長女を嫁にもらった」

「岡村家は、キリスト教信者で救世軍に入信していた。その、救世軍の日本指揮官が山室軍平だ。山室軍平は、隣村の出身で長谷部との仲をとりもったのだろう」

「日露戦争は、日英同盟のおかげで日本が勝利したが、救世軍の山室軍平が日英を引き合わせた。渋沢栄一とも親睦があり支援していたようだ」

「日露戦争に勝利すると、南満州鉄道の権益や朝鮮の優先権、南樺太などの権益を得ることができたが、賠償金は得られなかった。それに怒った日本国民は、日比谷焼討事件を起こし、自由民権運動が活発になる。その頃、政党政治で地盤を築いた立憲政友会の党首・原敬が首相になったのだが、その一番弟子が、徹さんの養祖父・佐藤信安さんだ」

「日中戦争がはじまると、現在の外モンゴル自治政府に、蒙古聯合自治政府もうこれんごうじちせいふという日本の傀儡政府ができたのだが、父、與一さんと母、喜美子さん、そして、オレは、満州国の哈爾濱はるぴんから張家口に引っ越しをした。與一さんが、蒙古聯合自治政府で働くためだ。引っ越し後まもなく、母の喜美子さんと生後まもない妹の早苗さんが亡くなってしまった。」

「真珠湾攻撃で日米開戦すると、オレのお祖母さんである津弥つねさんの弟、見田守登みたもりとさんが、ニューギニアで壮烈な戦死をとげた。戦死したのは二十七歳。数々の戦功に対して、功六級の金鵄きんし勲章を授与されている。ミッドウェー開戦では前線で指揮をとったそうだ。」

「その後、オレの父親である與一さんの再婚相手、吉田文子さんの弟・八束さんが、フィリピンのバターン半島で戦死したと聞いている。また、與一さんの弟、菊二おじさんがルソン島で戦死したのは1945年(昭和二十年)2月と戸籍に書いてある」

「イタリアが三国同盟を脱退すると、キリスト教も敵となってしまった。キリスト教信者である母方の岡村家は、建物疎開を建前に京都の実家を没収されてしまった」

「父親の與一さんが、長谷部家の家訓を破り、山室軍平さんの紹介で喜美子さんと結婚し、満州事変が起きたことで、満州国哈爾濱で俺は生まれた。母や妹、おじさんなどは戦争で死んでしまったが、辛くも生き延び、お前に命がつながったということになる」

「張家口で亡くなった母が、岡村家のオレのお祖母さんにあたるハルさんに大同から手紙を送っていたんだ。先日、貴美子さんの妹が102歳で亡くなり、この手紙を譲りうけた。お前とファミリーヒストリーを調べだしてから、届いた手紙だ。なにやら、不思議な導きを感じるよ」


17)英霊の記録

浦安の実家に帰ったときに「戸籍謄本」や「お祖母ちゃんの手紙」「井出ノ谷の登記簿」など新たな資料を受け継いだが実はもう一つ資料をもらっていた。それは、見田守登さんの資料。

この写真をみた瞬間、脳裏に残っている顔が呼び起されて夜眠れなくなってしまった。見田守登さんは、自分の曾祖母の弟さんなので、もちろん自分は会ったことがない。それでも、どこか見覚えのある顔なのだ。自分のDNAが覚えていたのだろうか。不思議な体験だ。

そして、第二次世界大戦で亡くなったおじさんの記事を子孫に残すということは、とても意味のあることだと思ったのでここに記すことにする。

見田守登 (旧性 大原)
 法名:功海院守節義登居士
 生地:日野郡日南町神福一九一四番
 年令:明治三五年七月三〇日生

海軍兵曹長
 ・叙勲七等青色桐葉章
 ・八等瑞宝章
 ・功六級金鵄勲章


英霊の記録
岡山県神郷町大原喜太郎氏の三男に出生。温厚篤実な性格であり幼少より軍人を志望。郷校卒業後、家業たる農業に従事し精励を続けた。氏、一九歳の大正九年六月一日呉海兵団に現役志願兵として入団、 憧れの海軍軍人としての第一歩を踏み出した。同一〇年四月二八日戦艦「伊勢」に乗艦、同年一二月九日には海軍潜水学校付に転属となる。同一一年五月三日に第一六潜水隊付兼第三五潜水艦に乗組、北海巡航に派遣される等の名誉に輝いた。同一三年四月一一日第一四潜水隊付兼第六二潜水艦に転属、同年五月六日呉海兵団付を拝命、同年九月六日第一一潜水隊付兼第二七潜水艦に乗組む。

昭和一五年一月十三日新規竣工なった呂号第五一潜水艦に乗組、四年余の潜水艦勤務に精励した。同年五月七日呉海兵団付に転属、同年九月二二日第三艦隊司令部付となり戦艦「陸奥」に乗艦する。同年一〇月一五日呉海兵団付を拝命、同年一一月二四日には巡洋艦「天龍」に乗艦する。

昭和二年六月一二日呉海兵団に転属、同年一〇月一日には再び潜水艦に乗艦、第一五潜水隊付兼呂号第一五潜水艦に乗組んだ。昭和三年一一月北支漢口に派遣、漢口特別陸戦隊指揮小隊として治安維持に活躍、数々の武勲を打ち建てた。昭和五年四月一日呉海兵団付に転属、同七年一一月一〇日現役延期解止、翌一一日予備役に編入、帰郷する。

帰郷後、見田家に入籍、農業に従事する傍ら、氏の生来の性格は人々の信望厚く、在郷軍人会会長を二期、四年も相務めた。又子宝にも恵まれ、平和な生活が続いていた。昭和十五年一二月二〇日充員召集により呉海兵団に応召入団、同二八日には「東栄丸」に乗艦、ロスアンゼルス方面の遠洋航海に従事しつつあったが、昭和一六年一二月八日 大東亜戦争開戦と共に、昭和一七年一月四日呉海兵団付となり、同年二月三日呉鎮守府第三特別陸戦隊付となり、ニューギニヤ戦線に派遣となる。

昭和一七年六月ミッドウェー海戦を契機として米軍の反攻が 開始、氏も前線指揮官として奮戦するも、昭和一七年八月三一日ニューギニャで壮烈なる戦死を遂げた。二七歳の好漢であり氏の数々の戦功に対して、功六級の金勲章を拝受、盛大なる村葬を以ってその栄誉 を称せられた。夫人ますえさんは其後、言語に絶する苦労を重ねたが、幼子達六人もそれぞれ一家をなし、長男譲氏が家督を継承、益々の繁栄をみている現今である。


18)母からの手紙

父の生母で、自分のお祖母ちゃんである貴美子さんは、昭和15年11月8日、父が1歳の頃、中国の張家口で亡くなります。享年26歳でした。父が82歳になる今日まで母のぬくもりや、母の人柄を想いこがれる人生を送ってきたことは、自分も物心ついたころから知っています。

ある日、いつものように父と一緒にファミリーヒストリーの探求をしていると、お祖母ちゃんの妹さんである、喜久子さんの訃報が届きました。102歳で天命を全うしたそうです。父がお悔やみのご連絡をすると、ご遺族の方から、喜久子さんが持っていたという母・はるさんと姉・貴美子さん。つまり、父からすると母・貴美子さんと祖母・はるさんがやり取りをしていた「手紙」を送っていただいたそうです。

手紙は、1939年(昭和十四年)11月16日から、1940年(昭和十五年)9月1日までの14通の手紙です。手紙は昔の人が使っていた「くずし文字」でしたが、ご隠居が現代訳に解読してくれました。

冒頭の手紙には「まるで夢のような4か月間だった」と、家族で過ごした様子が書かれていたので、1939年7月に生後4ケ月の父を連れて内地にある実家、京都に帰省していたのだと思います。

その後「奉天、張家口、北京に宿泊した後に、大同に到着した」と記載がありましたので、哈爾濱はるぴんから一度帰国してから、中華民国の大同へ祖母・貴美子さんと父を連れていったのだと思います。

また、手紙には父の幼き頃の様子を、ご両親のはじめさんと、はるさんに伝えています。当時は、日中戦争中ですので検閲なども厳しかったと思いますが、戦争が起こっている事など全く感じない、幸せであたたかい文章がつづられていました。

貴美子さんのお父さん「はじめ」さんは、早稲田大学の一期生で夏目漱石に直接文学を教わっていたようです。貴美子さんの旦那さんである與一さんは、哈爾濱で「大豆の研究」をしていて研究内容の報告をしている手紙などもありました。ちなみに、「国立図書館」に與一さんの研究報告書が保存されているようです。

年が明け、1940年(昭和十五年)になると、新年のあいさつや、お腹に新しい命が宿ったことが記されていました。そして、妹の喜久子さんがこの頃、結婚をしたようで、お祝いの言葉を述べるなどの手紙もありました。

月日が経つと貴美子さんのお腹も大きくなったので、予定では、京都で里帰り出産をすることになっていましたが、お祖父ちゃんの蒙古連合自治政府への異動と張家口への引越しが決まり、日本に帰ることができなくなってしまったようです。

お祖母ちゃんがとても悲しんでいる様子がつづられていました。船の切符も買い、コレラの予防接種もして、あと数日で日本へ帰るというときのドタキャン劇です。

そして、1940年(昭和十五年)9月に、張家口へ到着してあたらしい生活をはじめたという手紙が届いてから、2か月後に赤子の早苗さんと貴美子さんが亡くなります。享年・生後4日と26歳でした。

もちろん、お祖母ちゃんが若くして亡くなっていたことは知っていましたが、ご隠居さまとのメールのやり取りをはじめて「息子へ紡ぐ物語」を綴りだしてから、届いた手紙です。

父は、1歳で母を亡くしましたが、82歳になったときに、母の人柄がわかる手紙が届いたのです。まさに「息子へ紡ぐ物語」だなと思い、涙がとまりませんでした。

自分は、「満州国」や「蒙古連合自治政府」の事を、全く知りません。そもそも、自分たちは敗戦教育をうけてきたので「第二次世界大戦」や「太平洋戦争」という戦争を学んできたからです。1941年12月8日に「真珠湾攻撃」をしかけて、「ミッドウェー海戦」で敗戦すると絶対国防圏を破られて、B-29による「東京大空襲」、広島と長崎に「原子爆弾」を落とされたことばかりを教えられてきました。

そこで、日本に何が起こったのかちゃんと理解しようと思い、近代史について調べることにしました。独学ばかりで、間違っていることもあるかもしれないですが、自分なりの見解も含めて何が起きたか残したいと思います。


19)ノモンハン戦争に至るまで①

戦後30年の1976年(昭和五十一年)に生まれた自分世代の教えでは、戦争は「過去」の出来事だったため、多くの事柄が公にされず隠されてきたのだろうなと思っています。GHQの戦後処理もあったし日本は戦争に負けたのだから「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」と平和を追い求めてきました。

しかし、戦後80年の現代になると、そろそろ「過去」から「歴史」に変わる節目の時期なのか、いろんなことが、明るみになってきました。ファミリーヒストリーを調べている自分としては、なにかに導かれているような気もしますが、近代史について理解を深めることにします。

とくに、自分の祖父母、長谷部輿一さんと長谷部貴美子さん、そして幼き頃のご隠居さまが、哈爾濱、大同、張家口で暮らし「ノモンハン戦争」が勃発した頃までの時代について知りたいです。この時代は、とても複雑で様々な思惑や出来事が起きているようなので、まずは「ノモンハン戦争」に至るまで整理してみます。


ノモンハン戦争に至るまで①
1894年(明治二十七年)の日清戦争を経て1905年(明治三十八年)日露戦争に勝利した日本は、「講和条約」で朝鮮を併合し南満州鉄道の権益を得ることになりました。そして、鉄道や住民を守るための軍隊駐屯が認められ関東軍を派遣します。すなわち、日露戦争に勝利したことで、日本人が満州の地に足を踏み入れることを許されたのです。

一方、面白くないのは、欧米列強国や日本にいいように権益を奪われた清国、清王朝。国内ではふがいない清王朝に変わり新たな国をつくろうと、若き将校、孫文や蒋介石が立ち上がり、1912年(明治四十五年)の辛亥革命しんがいかくめいによって清国は滅亡します。そして、アジアで初めての共和制国家(君主が統治しない)中華民国が誕生するのでした。

そうこうしているうちに、ヨーロッパでは、1914年(大正三年)に第一次世界大戦が開戦されます。日本も日英同盟を理由にドイツへ宣戦布告すると、日本陸軍はドイツの租借地だった中華民国「青島チンタオ」を、日本海軍はドイツ要塞の「南洋諸島」を攻略します。

更には、欧米列強の目がアジアから離れている隙に、建国したばかりの中華民国政府に対して「対華二十一カ条」の要求します。主にドイツ権益の継承や日清戦争で勝ち得た満州権益の延長などを求めたのですが、このとき日本がみせた中国侵略の野望をアメリカが危険視して1923年(大正十二年)に日英同盟が破棄されてしまいます。

また、1915年(大正四年)に「対華二十一カ条」を要求したあたりから、中華民国での排日運動が盛んになったそうです。しかし、建国3年目の中華民国国内は、まだまだ安定せず内戦が続いていました。そこで、孫文(広東軍)と蒋介石(江西軍)が手を組んで国民政府軍(国民党軍)を樹立すると、小さな軍閥をドンドン吸収していきます。そして、1926年(昭和元年)には、国民政府軍が共産党軍を北に追い詰めるほどのチカラを持ち、中華民国の国家統一がいよいよ目前に迫まりました。

その頃、満州地方の大軍閥としてチカラをもっていたのが、東北軍の張作霖ちょうさくりんでした。張作霖は日本軍の後ろ盾もあって勢力を拡げ続け北京に自治政府までつくるくらいまでになっていたそうです。日本軍もそれまでは、張作霖とうまく関係を保っていましたが、勢力を拡げた張作霖は、自らの事を「大元帥」と称し威張り散らかすようになり、日本の言うことを聞かなくなったといいます。

そこで満州権益を守りたい日本政府と陸軍は、「蒋介石の国民政府軍と直接衝突するより、張作霖を排除して、満州国を日本軍が統治しよう」と考えるわけです。そして国民政府軍との戦いに敗れ逃げ帰ってくる張作霖が乗った列車を爆破したのです。それが1928年(昭和三年)の張作霖爆殺事件です。

この爆破事件を関東軍は知らぬ存ぜぬで通しましたが、宮中の天皇陛下側近たちは、「どうもこの事件は関東軍の仕業のようだ」と疑いはじめ、当時の総理大臣、田中義一首相を呼び出して、張作霖爆殺事件の調査と日本人が関わっていた場合の処罰を厳命します。しかし、すったもんだ色々な思惑が入り混じり、なかなか対応が進まず、ついには、天皇陛下が直接、田中首相に総辞職を促しました。

このとき、政治に口をだしてしまったことを天皇陛下は大いに反省し「内閣が上奏するものは、たとえ自分が反対の意見を持っていたとしても裁可を与えることを決心した」と語っています。すなわち、張作霖爆殺事件により日本国は統帥権が名ばかりのモノとなり、ガバナンスの効かない国になってしまったのです。

この頃、海軍内でも派閥争いが発生していました。1930年(昭和五年)第一次世界大戦の戦勝国である日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの五大国で締結した「ロンドン海軍軍縮条約」を支持する「条約派」とそれに反発する「艦隊派」にわかれて揉めていましたが、軍縮に我慢ならない「艦隊派」が1932年(昭和七年)に当時の首相、犬養毅を暗殺するクーデター「五・一五事件」を起こします。その結果、アメリカやイギリスとの距離が生まれてしまうことになったのです。


20)ノモンハン戦争に至るまで②

司馬遼太郎さん原作のドラマ「坂の上の雲」にはこのようなシーンがあります。1905年(明治三十八年)の日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を殲滅した日本の連合艦隊は、東郷平八郎司令長官のもと「解散式」を行い、そのさいに作戦参謀で勝利の立役者、秋山真之が起草した「連合艦隊解散ノ辞」を読み上げ、最後には「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」と締めくくった。

しかし、秋山真之さんの思いは、残念ながらわずか数十年で叶わぬ願いとなってしまったんだなぁと、司馬遼太郎さんの表現に感化されてしまいます。


ノモンハン戦争に至るまで②
張作霖爆殺事件の首謀者である河本大作参謀の後に関東軍参謀長として着任したのが石原莞爾さん。自分のお祖父ちゃん、長谷部輿一さんが石原莞爾さんのことを尊敬していたそうですが、石原莞爾さんは「世界最終戦争論」をまとめた人です。

その内容は『第一次世界大戦後、ひとときの平和が訪れたとしても、欧米列強は次の戦争を仕掛けてくる。それまでに日本は余計なことをせず、国力と戦力を蓄えるべきだ』と唱え、『そのために「満州」と「内蒙古」を日本の領地にするべきだ』と計画をたてました。もう少し具体的にいうと、アメリカとソ連がやがて戦うから、決勝戦で勝ち残ったアメリカと日本が戦おうというものです。

そこで、関東軍の高級司令官や参謀たちは「満州」と「内蒙古」を手にいれるべく、自作自演で満州鉄道を爆破し軍隊を動かすことを策略します。それが、1931年(昭和六年)満州事変勃発の理由となる「柳条湖事件りゅうじょうこじけん」です。関東軍は鉄道を爆破すると「張作霖の息子、張学良率いる東北軍の仕業だ!」として、張学良軍の攻撃を開始したのでした。

関東軍は自らの陰謀により「自衛戦争」の大義名分を無理やりつくったのですが満州全土を制圧するには兵力が足りません。すると、のちに内閣総理大臣になる林銑十郎はやしせんじゅうろう・朝鮮司令長官が独断で関東軍に呼応し朝鮮から満州に軍隊を越境させたのです。

朝鮮司令長官が死刑にあたいする軍律違反を犯し、軍隊を動かしたのですが、その報告を聞いた日本政府は「すでに朝鮮軍が越境してるならもうしかたがない」と特別予算まで出して手の付けられない状態となってしまったそうです。国内世論も世界恐慌から脱却する満州事変に熱狂し、天皇陛下は「戦争を早く終わらせるように」と命令することしか出来ませんでした。

しかし、いくら日本が「自衛戦争」を主張したとしても、満州全域に勢力を広げていく様子に国際社会の目は厳しくなります。そこで関東軍は、イギリスやアメリカに利害関係のある上海で事件を起こし世界の目を満州から逸らすことを企てます。それが「上海事変」です。反日分子の思想をもつ中国人に金を渡して日本人のお坊さんを殺害させます。そして「犯人をだせ!」といいがかりをつけると日本軍と中国軍が弾の撃ち合いを開始したのです。

関東軍の狙い通り、国際社会の目が上海に向くと、その間に満州では着々と満州国建国の準備を進めていきます。日本は、あくまで中国人による国づくりのサポートをしているという立場を示すために、清王朝のラストエンペラー溥儀ふぎを満州国の初代皇帝にして1932年(昭和七年)日本は満州国を承認したのです。

もちろん、勝手に満州国の独立宣言をしたので、国民政府軍の蒋介石は怒りました。さらには中華民国国内で反日運動が一層盛んになります。この状況をみた国際連盟は、実態調査をするために、日本、満州国、中華民国に調査団を派遣します。これが、有名な「リットン調査団」です。

3ヶ月にわたる調査の結果、「柳条湖事件(満州事変の発端の事件)は日本の自衛戦争とは思えないけど、日本の満州国における特殊権益を認める」という、日本にとって悪くない内容を報告しました。日本人が一生懸命、不毛の地、満州に都市をつくり、国をつくってきたことを認めてくれたのです。

しかし、政府や軍、国内世論は、国際連盟が条件としてつきつけてきた「満州国からの一時撤兵」や「国際承認を得る」という内容がどうしても承服できず、1933年(昭和八年)に国際連盟を脱退してしまい、江戸時代のように再び鎖国の道を選んでしまうのです。すでにこのとき「和を以て貴しとなす」という思想はこの国からなくなっていました。

その頃、日本国内では、さらに混とんとする事件が起こることになります。そのきっかけは、陸軍内部で「皇道派」と「統制派」にわかれ議論が過熱したことからはじまりました。

「皇道派」は、戦国時代から続く反長州閥(反毛利)のながれをくんで、本当に困っている農村を助けるために天皇親政の下で国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向していました。対して「統制派」は、頭のいい合理的な人間たちが集まり、軍中央の一元統制、すなわち日本国民全員が一致団結して国家改造を図る計画。「対支一撃論」を推し進めていました。

もともとは、ふたりの中堅将校の議論から始まったことらしいですが、いつのまにか政治的な要素が加わって「統制派」が軍中央部の重職を担うようになり「皇道派」は封殺されるようになったとそうです。

その機会をつくったのは、満州事変発生時に朝鮮から独断で軍を越境させた林銑十郎陸軍大臣。「皇道派」と「統制派」が揉めたとき、当時陸軍大臣だった荒木貞夫さんが、喧嘩両成敗ということでうまく着地させたのにもかかわらず、後継の林銑十郎大臣が「統制派」を中央陸軍に呼び戻し政治の全てを取りまとめる要職につかせ、さらには「皇道派」のメンバーを次々と地方に飛ばしたのです。

そんなことから、こちらも有名な国内クーデター未遂事件、1936年(昭和十一年)に「二・二六事件」が発生するのですが、事件の経緯や理由は、何度勉強しても複雑で難しいです。一度覚えてもすぐ忘れてしまうので、改めて調べ自分なりに解釈した内容は以下の通りになります。

「皇道派」の1500人ぐらいの陸軍が、「天皇陛下の本当のお気持ちを叶えるためには、長州派閥が牛耳るいまの政治環境ではできないだろう」と天皇陛下を支えていた側近たち(元首相など)を殺害して警視庁や宮城を制圧する行動にでました。

「皇道派」の若き将校たちが、天皇陛下の望みを叶え喜んでもらうために、自分たち「皇道派」のメンバーが「官軍」になることを目的にしたクーデターでしたが、結果的には「朝敵」「逆賊」になってしまったという事件です。

そりゃあそうです。天皇陛下は、このときばかりは怒り狂ったらしいですよ。自分の育ての親や、いままで相談にのってくれていた大切な側近を、自分の部下である陸軍の若者たちが無慈悲に殺害したのですから。カンカンに怒った。そんな天皇陛下の様子をみて「統制派」の石原莞爾大佐なども鎮圧の対策を練り、クーデターに参加した軍人に向けてビラをまくなどの対応をしたそうです。

このクーデター失敗の流れから「皇道派」の優秀な人材は退役に追い込まれたり最前線に送られて「統制派」が中央軍部をとりまとめる天下となりました。奇しくも「二・二六事件」をきっかけに陸軍中央の体制は一枚岩となったのです。その結果、やがて東条英機内閣が誕生することになり、悲惨な太平洋戦争を突き進むことになりました。


21)ノモンハン戦争に至るまで③

全て結果論。平和な時代に生きている自分が思うことは、日中戦争勃発の理由となった「盧溝橋事件」は日本やソ連、中国、毛沢東の共産党、蒋介石の国民政府、関東軍に親を殺された張学良、反日分子など、多くの人たちの謀略が入り混じり「張作霖爆殺事件」や「満州事変」国内では「五・一五事件」や「二・二六事件」などの全部のツケが回ってきました。いわば因果応報のような事件に思えます。

満州国を設立したうえで、徳川家康のように戦後処理にチカラを注いでいればこのようにならなかったのでしょうか。それこそ、「万系一世」や「皇軍」と謳っているのであれば、日本の歴史、戦国時代にどのようなことが起きたのか、宮中はじめ政府や軍人さんたちは沢山学んでいたはずです。徳川家康が幕府を開いてから明治維新まで260年もの間、平和を維持することができたのですから。

■ノモンハン戦争に至るまで③
1936年(昭和十一年)「二・二六事件」が起きたあと、軍の暴走を抑えていた宮中の側近や政府の人たちは、いわば脅迫されているような状態になり、命を狙われ殺されかけた岡田啓介内閣は解散しました。そして、広田弘毅内閣が組閣するのですが、このあたりから軍人の都合の良い政策がどんどん決まっていくようになってしまいます。

まずは、「軍部大臣現役武官制」の復活。これは、現役の軍人でなければ、陸軍大臣や海軍大臣になれないという制度です。この政策で影響力のある口うるさい年寄りたちは政治に関われなくなりました。次に日本とドイツの「防共協定」を結んだということです。ドイツも国際連盟を脱退していたので互いに手を組もうという話だと思いますが、これがやがて成立する「日独伊三国同盟」の基礎となります。そして、陸軍の「統制派」や海軍と話し合いが進み「北守南進」の方針、つまり米英と戦うことを、すでにこのとき決めていたのです。

続いて第一次近衛内閣が組閣すると、1937年(昭和十二年)7月に「盧溝橋事件」が勃発し日中間の全面戦争が始まりました。きっかけは、「二・二六事件」で左遷させられた「皇道派」の牟田口廉也隊長の独断命令です。『中国側から弾が撃ち込まれた』『いやいや、日本側が進軍してきたから戦争が始まったんだ』等、互いに言い分はあるのでしょうが、「対支一撃論」を構想していた陸軍「統制派」たちにとっては好機到来です。ここぞとばかりに、ものすごいスピードで中国軍を殲滅し南京を目指していきました。

そして、現代でも外交問題の題材となっている「南京事件」が起きます。自分たちには正直わからない問題です。ただ、中華人民共和国は三十万人の一般人が亡くなったと主張していますが、さすがに、そんなわけはないです。軍隊よりも多い、三十万人もの一般市民をどうやって殺害するのだと、突っ込みたくもなりますが、日本の侍、武士道として正しい行いをした軍人と、人間の欲望にまみれた軍人の両方が存在していたのだと思います。

義を貫いた軍人は弱いものを助け匪賊からの襲撃を守り感謝され、欲にまみれた軍人は、村を襲い虐殺し金品や食料を略奪する。若い女性は強姦、陵虐されました。罪なき一般人、弱い者が戦争の犠牲になるは、いつの時代、どこの国でも一緒です。日本も連合国に同じようなことをされたし、最前線の軍人たちが命をかけて戦う理由の一つだとは思いますが「人間が人の道を外れてしまう」のが戦争というものなのでしょう。

その後、中国政府は「日本軍が攻めたら逃げ、駐屯したら周りで騒ぎ、撤退したら自らが駐屯する」という、ひらひらかわすアウトボクシングのような戦術を徹底すると、広大な土地がある中華民国に関東軍は参ってしまいました。そこで、戦争を終わらせるために様々な策を練って和平交渉成立一歩手前まで進め、石原莞爾さんが蒋介石との面談を設定したそうですが、内閣総理大臣の近衛さんが当日ドタキャン。「賠償金をよこせ!」と、せっかくまとまりかけた話をひっくり返してしまったそうです。

その後、近衛さんは、1938年(昭和十三年)に「国民政府(蒋介石)を相手にしない」と声明を発表し日中戦争の和平交渉をしないことを宣言すると、蒋介石と対立していた汪兆銘おうちょうめいに南京国民政府の新政権樹立を後押しして「東亜新秩序とうあしんちつじょの建設」を唱えました。ようは、日中戦争は日本と満州国、中国(南京政府)が手を組んでアジアに新しい秩序をつくるための戦争をしているのだと主張したのです。この声明を聞いた欧米からすると「ヨーロッパやアメリカとは連携を図らず、あたらしい世界をつくるのだ」と日本が勝手に宣言したと受け止め、ますます孤立化の道を歩むことになりました。

そして、なによりも、1938年(昭和十三年)に制定された、「国家総動員法」という日本人、全国民を不幸に導く政策を決めたのです。その内容は、国民を自由に徴用できる俗にいう赤紙制度や給与の統制、物資の生産・配給・消費の制限。会社の利益や貿易の内容まで管理することで全ての日本国民は戦争のために身をささげることになります。陸軍「統制派」の思い描いたとおり総力戦の体制が整ったのでした。

このようなプロセスを経て、ご隠居が誕生する1939年(昭和十四年)に平沼騏一郎内閣が組閣され「ノモンハン戦争」が勃発するのでした。

先ほど徳川家康のように戦後処理をうまくやればよかったと書きましたが、色々調べていくとそんなことできるわけがないと思えてきました。こんな状況だと本当に難しかったと思います。なぜなら、日本や満州だけの国内問題ではなく世界情勢の影響がこのような判断をせざるを得ない状況になっていたのですから。

「第一次世界大戦」「内戦」「革命」「世界恐慌」や「パンデミック」。どの国も貧しく人命を軽んじていました。隣の国では隣の国を植民地化し「差別」や「虐殺」「迫害」があたり前のように行われている。アメリカやイギリスはしたたかに日本を追い込んでいき逃げ道がなくなってしまいました。

戦争犯罪と呼ばれる「人道に対する罪」や「平和に対する罪」は、あの時代、戦争に関わった全ての国や人が犯した罪のことをいうのだと思います。しかも、不可抗力で。

もともとは、ペリーの恫喝から始まった戦争物語。坂本龍馬が唱えたように「抑止力をもって戦争を起こさせない」という道を選ぶことができない時代になってしまっていたのです。日本が日本人が生き残るために、なるべくして軍事国家の道を進んでしまったとすると、果たして、同じような状況や、同じような状況に追い込まれそうになったとき、現代を生きる自分たちや未来の日本人はどんな判断をするのでしょうか。


22)ノモンハン戦争に至るまで④

現代でも「北方領土問題」について騒がれている様子をみるけど、ニュースをみても、それほど身近に感じていないというのが本音で、心のどこかで他人事に思っています。

それでも自分がなんとなく把握している内容とすると、日本の固有の領土である「歯舞群島はぼまいぐんとう」「色丹島しこたんとう」「国後島くなしりとう」「択捉島えとろふとう」の四島をロシアに不法占領されているから「日ソ・日露間の平和条約」を結んで領土を返してもらおうと歴代の政治家たちが奮闘しているという認識です。でも今回、ノモンハン戦争が第二次日露戦争だとわかったので「北方領土問題」についても色々検索してみました。

一連の流れを要約すると、1875年(明治八年)にロシアと「樺太千島交換条約からふとちどりこうかんじょうやく」を締結した日本は、樺太からふと全島を放棄する代わりに、千島列島(18島)をロシアから譲り受けることになりました。

しかし、1905年(明治三十八年)日露戦争に日本が勝利したことで、ロシアから千鳥列島隣にある樺太の北緯50度の南半分、南樺太を割譲かつじょうします。更には1912年(明治四十五年)のシベリア出兵で北樺太を日本が不法占拠しました。すなわち、この頃の日本は樺太全島を領土としていたのです。

そして、第二次世界大戦がはじまると1941年(昭和十六年)に「日ソ中立条約」を結び、日本とソ連はお互いに侵略しないことを約束しますが、長崎に原爆が落とされた1945年(昭和二十年)8月9日にソ連が条約を破り対日参戦してきて「ポツダム宣言」受諾後も攻撃を続け、8月28日から9月5日までの間に北方四島を不法占領しました。

1951年(昭和二十六年)「サンフランシスコ平和条約」で日本は南樺太と千鳥列島を放棄することになりましたが、日本固有の領土、北方四島は含まれていません。つまり、日本固有の領土だと連合国に認めてもらったのですが、ややこしいことにソ連は、「サンフランシスコ平和条約」に署名せず、1956年(昭和三十一年)に別途「日ソ共同宣言」を締結したことで、ようやく戦争状態が終結したのです。

この流れだけ見ると、千鳥列島は18島全てが日本の領土のような気もしますけど、世界的にみると未だに植民地化されている島や領土もあるし、つきつめると日本の歴史でも戦に勝った「家」が領地を得てきたワケですから、戦争に負けるということは、こういうことなんだろうな。と改めて思います。

ちなみに、シベリアとは、ロシア(ソ連)全域の呼称で、樺太からふとはサハリンと呼ばれていました。あと、近代史でよく名前がでてくるウラジオストクは、日本海に面した韓国の隣にある港街の名前とのことです。


ノモンハン戦争に至るまで④
ノモンハン戦争に至るまでの流れを整理するために、日本の仮想敵国であったロシア(ソ連)の歴史についても辿ってみることにしました。ロシアの慣れない名前や読み方が学ぶ意欲を阻害するけどしかたありません。わかる範囲で概略をまとめてみます。

ロシア(ソ連)は、1905年(明治三十八年)日露戦争で日本に敗戦したので満州権益を断念し南樺太を日本へ割譲するという屈辱を味わいました。1914年(大正三年)に勃発した第一次世界大戦では、連合国側として参戦するもドイツ軍に完敗。敗戦が続いたことで1917年(大正六年)にロシア全土で「戦争反対」「専制君主制打倒」のストライキが発生して革命に発展します。このとき、ロシア最長の王朝だったロマノフ王朝が終焉しました。「2月革命」です。

「2月革命」の後、立憲民主党主導の「臨時政府」が政権を担いましたが、同年10月に労働者と兵士からなる社会主義勢力「ソビエト」による暴力の革命「10月革命」が起きました。そこから革命を起こした社会主義、共産主義の「赤軍」と自由主義や共和主義、君主主義、保守派などの連合軍「白軍」にわかれ内戦が勃発します。

「赤軍」は人口密集地帯や工業地帯、鉄道などを支配し兵士、装備の輸送を効率的に実施することで影響力を増していきました。「赤軍パルチザン」「恐怖政治」「赤色のテロ」「秘密警察チェーカー」「皇帝一族の銃殺」「企業の国有化」「ロシア正教聖職者の殺害」など、「おそロシア」といわれる所以の武力行為で社会主義体制が急速に構築されていきました。

一方、内戦に便乗して欧米列強国や日本は反革命派「白軍」の援助を名目に軍隊を派遣します。いわゆる「ソビエト干渉」です。ちなみに、このとき日本はアメリカと一緒に軍隊を派遣し北樺太を制圧したのですが、「赤軍」が多くの在留邦人を惨殺する事件を起こしたため、『事件解決まで駐屯する!』と日本軍はそのまま北樺太を不法占拠しました。

内戦が終わると『なんの理由もない駐兵はやめるべき』として撤兵することになるのですが、それでも、なかなか帰らず1925年(大正十四年)にようやく撤兵します。このシベリア出兵は「人命」と「お金」「ソビエト人民の敵意」と「連合国からの不信」だけが残る日本史の外交上、最も失敗した外交と言われています。

内戦を治めたのちに、1922年(大正十一年)に世界初の社会主義国家であり一党独裁支配を国是とするマルクス・レーニン主義のソビエト社会主義共和国連邦が結成されました。2年後の1924年(大正十三年)には最高指導者のレーニンが死亡。後継者として、トップに君臨したのが日本の運命を握るヨセフ・スターリンでした。

スターリンの人間性を象徴する、人々が震撼する行為として印象的なのは、反対派を徹底的に排除する「大粛清」を実施するということでした。当時は多くのロシア人が満州に亡命したらしいです。

一方、国外に目を向けると1932年(昭和七年)に満州国が建国されたことにより、日本軍のソ連侵攻が現実的になってきました。日本は、モンゴル人民共和国をソビエト侵攻の戦略的拠点として重要視していたので、ソ連とモンゴルは、日満の脅威に対処するために1936年(昭和十一年)「ソ連・モンゴル相互援助条約」を締結。モンゴルは国境にソ連軍の駐屯を許しました。

すると、スターリンは、モンゴル人指導者の「大粛清」を始めます。更には、宗教を認めないソ連は、モンゴル仏教の迫害で1万人を殺戮したそうです。ドイツのユダヤ人迫害と同じようなコトをやっていたんだなという印象です。そうしてモンゴルをソビエトの傀儡国にしたのでした。

日本は、武力で制圧する共産勢力がすぐ隣まで迫ってきていたのでかなり恐ろしかったと思います。それに対抗するため、国民一丸となって戦争に臨んだわけですが、虐殺されるよりはマシだと考えたのでしょうか。結果的には、アメリカに原爆を落とされ一瞬で吹き飛ばされてしましました。

そして、ようやくファミリーヒストリーにつながります。1939年(昭和十四年)3月に自分の父が満州国哈爾濱で誕生します。お祖母ちゃんの手紙の内容から推測すると、生後4か月で内地の京都に里帰りして、生後8か月の1939年(昭和十四年)11月に大同へ転勤しています。

ノモンハン戦争が発生した1939年(昭和十四年)5月〜9月の間は日本国内にいたことになりますが、このとき満州国政府で働いていたお祖父ちゃんの興一さんは、どのようなコトを考え、思っていたのでしょう。


23)千鳥ケ淵戦没者墓苑と吹き抜ける空

年齢を重なるにつれて、いくら運動しても痩せなくなってきた。食事を制限したとしてもちょっと気を抜くとお腹がポッコリでてくる。長年のデスクワークとうつむきながら歩くクセが猫背となり、首に深い3本くらいのシワができた。

目じりには笑いシワがくっきりのこり、ほうれい線が目立つようになった。腕は垂直にあげられず四十肩に苦しみ白髪も増えた。髪の毛が薄くなってきたので、皮膚科に行ってプロペシアという薬を飲み、朝晩のリアップで頭皮に刺激をあたえるのが日課だ。

腰に気を遣いぎっくり腰におびえている、ほとんどの歯が差し歯になてしまい奥歯4本を抜歯した。ああそうだ、視力なんてほとんどありません。メガネとコンタクトは必需品だ。なんだか落ち込む話ばかりだが、身体がオジサンになったことを教えてくれている。

それでも、まだまだキモチは若いつもりだ。昔のようにロクデナシ人生を送りたいけど何を勘違いしたのか、人の役に立ちたいとも思ってる。家庭をもって、なんだかまるくなったみたいだ。

みた目もなんとか維持したい。本能的に健康でいたいのだろうか、毎日一万歩を日課にしたり、ジョギングをしたり、ゴルフなどで身体を動かす。いままでお酒も相当飲んできたので、できるだけ平日は飲まないようにしてる。

父の従兄弟が亡くなったことをキッカケに、ご隠居とのメールがはじまってから不思議なご縁が続いた。氏祖の長谷部信連や、戦国時代を生き延びた長谷部元信、「尼子の落人」と称したご先祖さまたちのことを学び、戦時中を過ごした亡き祖母の手紙を読むことができた。今日まで命を繋いでくれたご先祖さまを偲び、人生で何をするべきなのか考えている。

そんなある日、福岡に住んでいる山根さんが東京に来ることになったので水道橋で待ち合わせをして一緒に朝のお散歩をすることになった。山根さんとは、昔からよく日本全国の記念碑や史跡に足を運び一緒に歴史を学んでいる。今回は、せっかく東京に来られたので皇居の周りを散策することにした。

2人で話すことは、ビジネスのことや歴史のことが中心。ちょうど大河ドラマ「青天を衝け」をやっていたので、「この辺のレンガは全部渋沢栄一がつくったんですよ」とか、「昔はこの辺りまで江戸城ですよ」「この辺りに毛利の武家屋敷があったみたいですね」など、道ゆく史跡をみつけては、ネットで検索しながら道を歩いた。

九段下のあたりに着くと「昭和館」がみえてきた。昭和の国民の暮らしを展示しているようだが、まだ朝早いのでOPENしていない。今回は、ご縁がなかったということで改めることにした。そこから50mほど歩くと「北の丸公園」の入り口がある。ここは、自然豊かな場所らしいから、もう少し歳を重ねたら訪れよう。

「北の丸公園」入口をこえると常燈明台じょうとうみょうだいという灯篭とうろうが見えてくる。明治4年に靖国神社に祀られた霊のために建てられた塔のようだ。もともとは、戊辰戦争の「官軍」戦死者の慰霊のために、招魂社しょうこんしゃとして創建された。明治維新の志士達の慰霊の地である。

歩道橋を渡り反対車線に行くと靖国神社がある。何度か訪れたことがあるが、荘厳な雰囲気をかもしだしている。「あえて、江戸城の隣の地に明治維新の英霊を祀る神社を建てたということに薩長の意図を感じますよね」などと話しをしながら鳥居に進むと、黒のワンピース姿のお母さんと、黄色い傘を差した女の子が参道を歩いている。しかも、複数組、みんな同じ格好だ。

なんだろう、異様な光景というか、より厳粛な雰囲気が漂っている。調べてみると、お嬢様学校「白百合学園」が靖国神社の隣にあり、そこの生徒さんだという。

「白百合学園」はキリスト教系の学園だが、靖国神社の鳥居を通り過ぎるとき、必ず振り返り一礼をする。聞いたところによると、1981年(昭和五十六年)にローマ法王・ヨハネ・パウロ2世が訪れたとき、ある生徒が法王に対してこのような質問したそうです。

「通学路に靖国神社があるのですが、どうすればいいですか?」この質問に、ヨハネ・パウロ2世は「頭を垂れて通りなさい」と答え、それ以降、白百合学園の生徒は、靖国神社に向かって頭を下げるようになったそうです。まさに「和を以て貴しとなす」の精神だ。神様が違っても英霊を尊ぶ心にローマ法王の懐の大きさを感じる。

靖国神社の参道を進むと正面に「大江益次郎」の銅像、右手にさまざまな美術的建造物や石碑がみえてくる。美術建造物は、なんだか来るたびに新しいものが増えているような気もするが、なぜ、こういうところは美術品との融合があるのだろう。広島の平和記念公園もそうだし、全国のお城の隣にはよく近代美術館がある。「何か理由があるはず」と疑問を感じながらも先を急いだ。

境内入口横に、英霊の手紙が掲示されていた。毎月1回変わるようだが、自分のときは、陸軍少尉・齋藤一六さんが奥さまに送った手紙で「我は 大君おおきみ赤子せきしなり。今大君の御為おんため果つるは男の本懐なり。」と冒頭書いてあった。しかも「我は」の文字を下段に記し、「大君」の文字を隣列の上段に記していたのが印象的だ。自分の事よりも天皇の文字を上段に書く「皇軍」としての忠義を表していた。

靖国神社で参拝したので本来であれば、本殿近くにある「遊就館ゆうしゅうかん」に立ち寄り、近代史を学びたいところだが、コロナ禍のため閉館していた。たとえ入館できても2時間はかかるだろうから、こちらも、今度ゆっくり見学したいところだ。

皇居外周に戻ると「品川弥二郎」と「大山巌」の銅像が立っていた。やはり、明治維新の立役者たちの権威をここに残しているのだろうなと思いながら、皇居沿いに進むと、ようやく「徳川」の様子がわかる「江戸大江図」の看板がでてきた。これを見てみると「松平氏」「田安氏」「清水氏」「一橋氏」の屋敷がデカイことがよくわかる。ちなみに、みんな血のつながった徳川の親戚ということをこのときまで知らなかった。

そのまま、まっすぐ進むと、皇居の隣に信じられないほど大きな空き地があった。「東京のど真ん中なのに国が管理している場所なのかな」と疑問に思いながら通り過ぎると、さらに隣の土地に「三番町共用会議所」と書いてある施設があった。これまた、千代田区に合わない、なんともだだっ広いエリアに小さなプレハブ小屋がいくつか建っている。

とても不思議なだったので、調べてみると、第9代内閣総理大臣・山縣有朋が1885年(明治十八年)に建築した邸宅跡に建てられた国の会議所のようで、邸宅は、空襲で焼失してしまったそうだ。現在は、農林水産省管轄とのこと。見る限り、人影はない。

水道橋から歩いてきたのでいい加減疲れたなと思った頃に「千鳥ケ淵戦没者墓苑」がみえてきた。無料でだれでも入れたので、あたりまえのように進むとこのような説明が書いてあった。

「ここ千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため、1959年(昭和三十四年)3月、国により建設された「無名戦没者の墓」です。ここに納められている御遺骨は、1953年(昭和二十八年)以降政府派遣団が収集したもの及び戦後海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人もふくまれており、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです」

中国の張家口で1940年(昭和十五年)26歳の若さで亡くなった、喜美子お祖母ちゃんと、産まれてまもなく亡くなった早苗おばさんは、遺族が引き取りにきたので、父さんの実家、岡山県新見市新郷町高瀬に墓がある。でも、遠くて頻繁にいけないから、ここでお参りしてもいいだろう。これもきっと、なにかのご縁だ。


24)結婚式の演出

2008年(平成二十年)大好きな女性と結婚した。

彼女のお腹には新しい命が宿っていたので、運命の人との出会いと子孫がつながったことをご先祖様に報告しようと思い、お互いの両親には内緒で岡山県と広島県にある父と母の故郷へ向かうことにした。

両親の故郷は、神奈川県、広島県の横川、岡山県の釜村と高瀬村で、一番遠いところだと東京から6時間以上かかる場所にご先祖様のお墓がある。詳しい住所などわからない。幼いころの記憶をたどる行き当たりばったりの旅行になってしまったが、その様子を撮影して、映像にまとめて自分たちの結婚披露宴で上映した。

映像のBGMは、サザンオールスターズの「希望の轍」。ふたりで過ごしている生活の様子やお腹の子供の写真。新横浜から広島や岡山までの旅路の様子を編集して故郷の地に行ったことを連想してもらう。

曲をいれかえて秋川雅史の「千の風になって」がながれると、お互いのご先祖さまにお墓参りをして二人の結婚を報告しているシーンをいれた。そして、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんの若かりし頃の写真や戦時中に撮影したであろう写真、父や母が生まれてから両親が出会うまでの様子を映像にまとめた。

あのときは、ただただ、自分たちの両親に喜んでもらいたいと思って企画したことだったが、いま思うと「過去に感謝。現在に信頼。そして、未来に希望」という、結婚式の本質を問う演出だったのではないかと思う。


自分は、20代なかごろから、ウェディングプランナーとして結婚式のお手伝いをしてきた。日本のしきたりに重きをおいた結婚式ではなく、現代のお客様が求めている本当に喜ぶ結婚式をつくりあげようと、足掻きながらも、あたらしいサービスをいくつも導入していった。

いまでは、あたり前の演出も、あの当時は、あたり前ではなかった。

例えば、自分が結婚式業界に飛び込んだ当時は、金屏風もあったし背の高いウェディングケーキがあたり前だった。招待状は定型のモノが決まっていて、たいした種類を選ぶことができず、当時は、仲人をたてている方もいた。ご両親は燕尾服や留袖を着て、新婦はお色直しを2〜3回する。主賓の挨拶、キャンドルサービス、友人の余興、新婦の手紙、花束贈呈。決まりきった進行で、10人いれば10人がほとんど同じような内容の結婚式をしていた。


1945年(昭和二十年)の敗戦後、日本国民は、一人ひとりが自由な人生を送ることができるようになった。親が決めた伴侶ではなく、自由に恋愛をして、自分が『この人だ!』と思う好きな人と結婚できる。そのようなことが許される風潮が徐々に浸透していった。

それでも、社会的に認められるためには、結婚して家庭を築くことが必要だった。「家」と「家」の間を取りもつ仲人をたてて、お見合い、結納をして結婚する。「結婚式は派手にする」という流れが常識だった。

ロイヤルウェディングの影響もあった。1959年(昭和三十四年)には、当時皇太子だった、現在の明仁上皇、美智子上皇后両陛下の御成婚式があり、美智子さまの十二単を身にまとった姿に国民は熱狂し、一般人の結婚式でも、神前式や和装が主流となった。

1981年(昭和六十一年)のロイヤルウェディングでも、あらたなブームが起きた。イギリスのダイアナ妃、チャールズ皇太子の結婚式だ。お二人の結婚式から「ウェディングドレス」と「キリスト教式」が日本に輸入された。いまでは当たり前のことだが、結婚式でウェディングドレスを着るようになったのは、この頃からだ。

戦前までの「家」と「家」がむすばれる祝言では、男性側の家に親族が集まり宴が行われていた。しかし、戦後になると専門の式場やホテルなどが様々なサービスをつくり、多くの人を集めるお披露目会の文化をつくる。名称を「披露宴」と名付けて親族だけでなく勤め先の上司や友人なども参列できるようになっていった。

つまり、自分がウェディングプランナーをしていた頃というのは、戦前の日本文化がわずかに残りながらも、団塊世代が結婚するときに、専門式場やホテルが決めた「結婚式」のルールが当たり前になり、世の中に溢れていたのだ。

それを、ひとつずつ顧客が求めている、顧客に寄り添ったサービスに変えていった。高い位置からゲストを見下ろす高砂や金屏風はやめた。招待状はオリジナルで自由につくれるようにして、席札などもこだわれるようにした。ウェディングケーキを生ケーキにして、デザートブッフェを取り入れた。定番のキャンドルサービスをやめてゲスト一人ひとりに感謝を伝えることを大切にし写真撮影の時間などを多くとりいれた。

あるとき結婚式のプロとして余興を頼まれたので、結婚式当日の朝に「仁義なき戦い」のパロディ映像を撮影したあとに参列をした。その映像をお開きまでに編集するという「撮ってだし」商品、いまでいうエンドロールが誕生したのだ。現代では、あたり前のように、お開きのときに結婚式当日のダイジェスト映像が流れるのだが、このときの余興が原点だ。

そんな、あらたな結婚式文化を創っていく一員として携わってきた自分も2008年(平成二十年)に結婚することになった。十数以上経ったいまでも、大切な人たちが集まる、最高に幸せな時間は、人生最大の思い出となっている。このとき、さまざまな演出をしたが、その一部として3本の映像を作成した。

1本目は、「プロフィール映像」これは、現代でも定番だと思うが2人の生涯と出会ってからの映像。

2本目は、「墓参りの映像」すでに亡くなってしまった祖父母のお墓に挨拶へ行く様子と、生前、祖父母の若かりし頃の写真や、自分たち両親が産まれたときの様子。両親の出会い。そして自分たち2人が生まれるまでを映像にまとめた。

3本目は、「生まれてくる息子へ」自分たち夫婦がどのように出会い、お腹に宿ったときの気持ちを綴った。息子の結婚式時にサプライズで流す予定だ。(ちなみに、娘にも生まれてくるとき制作している)

祖父母、父母、新郎新婦、息子と4代続くストーリーを表現したかった。誰に喜んでもらいたかったかというと、祖父母であり、両親であり、まだ見ぬ息子に喜んでもらいたかった。

日本は、鎌倉時代から江戸時代までのあいだ武士政権が続き武士のしきたりを重んじてきた。3歳まで生き残る子供が一握りの時代。家を存続させることがなによりも重要だった。

明治維新後、身分制度の不平等が声高らかに叫ばれて、人権が尊重される風潮になっていったが、近代国家、富国強兵を目指して「多くの子をつくるように」と国がはたをふった。それでも、人々は、「家」と「家」が結ばれることを重要視していた。

戦後、自由主義、民主主義により結婚することも自由になった。いまでは、生涯未婚率も増加しており、男性は4人にひとり、女性は7人にひとりが生涯一度も結婚をしない。コロナ前までは、年間60万組が結婚し20万組が結婚式を挙げなくなった。

コロナ禍で58%が結婚式を挙げなかったと、「明治安田生命」が統計を発表したので36万組くらいが結婚式をあげていないことになる。しかし、なんてことはない。コロナ前から結婚式をあげなくなっているのだ。

本来であれば、自分たちのファミリーヒストリーが続くことを喜び、家族が集まって祝い、未来を願うものが結婚式だと思う。もちろん、一生の思い出なので見栄えも重要だが、それは全くもって本質ではない。

男女が結婚し、夫婦として家族を築くということは大変なことだ。核家族が当たり前の現代であればなおのこと。夫婦がチカラを合わせる方法も変化しなければいけない。しかし、一人ひとり、人と人の生き方が尊重される現代ではそれも難しくなってきた。現に離婚率は、35%。3人に1人が離婚しているので、離婚することもあたり前になっている。

夫婦が家族をつくり、家族が組織や社会をつくる。社会が世界をつくり、世界が時代をつくる。

決して結婚すること、結婚式を挙げること、子どもを産むこと、離婚することを否定しているワケでも、考えを押し付けているつもりではない。色んな人の人生があるんだから、それぞれ事情もある。

それでも、心豊かな人生をおくる人が多ければ多いほど、世界は平和になるはずだ。もちろん、未来の人類、自分たちの子孫たちのためにも。


25)人は死ねども刀は残る_白虎隊の脇差①

父の親族関係を紐解いていくと色んな人物が登場するのでいつも頭のなかが混乱してしまう。でも、父の親友でもある従兄弟の徹さんが亡くなったことをきっかけに、ファミリーヒストリーを探究する身になったのだから、そうもいってられません。

父の母、自分のお祖母ちゃんには兄と4人の妹、そして弟がいました。残念ながらお祖母ちゃんは、父が1歳のときに中国の張家口で亡くなってしまいましたが、お祖母ちゃんの兄弟姉妹たちは父のその後の人生を支えてくれたそうです。

今回は、お祖母ちゃんのお兄さん。岡村(佐藤)ひろむさんと、奥さんの博子さん。そして、息子さんであり、父の従兄弟である徹さんのファミリーヒストリーを整理してみたいと思います。

ただ、自分は生前の徹さんに一度も会ったことがありません。父に依頼されて告別式に出席しただけの関係です。父の話しだと徹さんは他人の噂をするのが嫌いだったそうです。自分の死後、このように噂をされるのも不快だとおもいますが、長年にわたる父との交友に免じてお許しください。

ファミリーヒストリーのヒントは、徹さんのお母さん、博子さんが雲州益田藩家老、豊島家の出身。岡村ひろむさんと結婚したあとに夫婦で元広島市長の佐藤信安さんの養子になりました。

元広島市長の佐藤信安さんは、第19代総理大臣・原敬はらたかしさんの一番弟子だったそうで、昨年亡くなった徹さんが、白虎隊の脇差を遺品として持っていたと聞いています。これら、いくつかの逸話から歴史の謎に迫ることにしました。


原敬はらたかしと戊辰戦争

1853年(嘉永六年)にペリーが浦賀に訪れ、港の開港を求められると「日米和親条約」や「日米修好通商条約」などの不平等条約が結ばれました。天皇の子として武士の心をもつ多くの日本国民は心穏やかではありません。「攘夷」を合言葉に、全国各地で異国人の排除活動が盛んになっていきました。

そんななか「武士が政権を握る徳川幕府の世がこのまま続くと、隣国、清国のように欧米列強国に侵略されてしまう」と考え行動に移した人がいます。それが有名な土佐藩(高知)坂本龍馬。坂本龍馬が仲介者となり、長州藩(山口)の桂小五郎や高杉晋作と薩摩藩(鹿児島)の西郷隆盛らが手を結び、倒幕を目的にした薩長同盟が成立したのです。

坂本龍馬は、故郷の地、土佐藩主であり徳川の家老でもある山内容堂やまうちようどうに「大政奉還」の建白書けんぱくしょ、現代の身近な言葉でいうと上司に対する意見書を提出させることに成功しました。この動きから1867年(慶応三年)徳川15代当主・徳川慶喜は、政権を朝廷に返上することを決断します。鎌倉時代から約700年続いた武士が治める世の中が終わりを告げたのでした。

その後、明治天皇は「王政復古の大号令」を発し全国各潘の領土返上を決定したのですが、それでも旧幕府勢力が影響力を持ち続けていました。そこで、武力での倒幕を果たすことで世の中に力を示したい新政府薩長が執拗な工作を行います。すると我慢ならない旧幕府軍の強硬派は、薩長の挑発にのってしまい戊辰戦争が開戦してしまうのです。

旧幕府軍の筆頭、会津藩(福島)は、徳川家と一連托生の間柄で「将軍家に忠勤を励むように」という家訓や「武士らしい武士であるために」という心得を藩士たちは幼い頃から学んでいました。幕末には、チカラの弱まった徳川幕府を支えるために、会津藩のお金で新撰組を派遣し京都守護職として尊王攘夷を唱える浪人などをとりしまるほど忠実でした。

しかし、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争がはじまると、徳川慶喜は江戸城を無血開城します。すると薩長が次に目をつけたのが徳川家を支えてきた会津藩。薩長は仲間たちに対する積年の恨みを果たしたいと考えたわけです。

会津藩は「朝敵」とみなされ、最新の武器を所有する新政府軍に攻めこまれることになります。そこで会津の志士がたちあがるのですが、そのなかに、16歳から17歳で結成された総勢343名の「白虎隊」がいました。「白虎隊」は、ふるさとが燃やされる光景を見ながら、自決の道を選び自らの首に刃物を突き刺して死んでいきますがこの悲劇は現代にも語り継がれています。

また、東北地方では奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめいという反維新政府同盟を結び、会津藩の「朝敵」に対して赦免嘆願しゃめんたんがん、ようは、罪を許してほしいとお願いをしました。しかし、薩長に拒絶されてしまい新政府軍に対抗する軍事同盟へと変貌していったのです。


原敬はらたかしの宿命

1856年(安政三年)に盛岡の南部藩家老の孫であり、南部藩士の息子として誕生した原敬は、11歳のときに戊辰戦争を経験しました。

奥羽越列藩同盟・総大将楢山佐渡ならやまさどは、新政府軍との戦いで敗戦し盛岡報恩寺ほうおんじに幽閉されました。楢山家と原家は共に南部藩の家老として藩を支えた間柄だったため、原敬は、楢山佐渡の姿をひと目みようと悲痛な面持ちで足を運んだといわれています。

1869年(明治二年)楢山佐渡は、「賊軍」の汚名を着せられ首をはねられ処刑されます。楢山佐渡は「薩長は官軍にあらず私兵なり」という言葉を唱え、原敬の芯念として残り続けたそうです。

原敬は、家老の孫として豊かな家に育っていましたので、明治維新が起きると大きな影響を受けたました。しかし、原敬の両親は、生活が苦しくても屋敷を売り払ってまで原敬を上京させたそうです。

ただ、上京したのはいいのですが、すぐにお金が尽きてしまい、苦学生としての生活がはじまります。そして行きついた先がキリスト教の「カトリック神学校マリン塾」でした。

この時代になぜ、原敬がキリスト教に入信したのかというのは、いまでも謎のようです。一説には、食事代が無料だったとも、明治維新の挫折から立ち直るために宗教を頼ったとも言われています。真相はわかりませんが、入信後、牧師先生の布教活動についていくことを条件にフランス語を教えてもらったそうです。ただ、この頃から「打倒薩長、徳川回復」と論じていました。

その後、司法省学校の入退学を経て、フランス文翻訳係として政論新聞の記者となります。そこから、様々な政治論文を発表して一目おかれる存在になったようですが、1882年(明治十五年)26歳で辞表をだすことになりました。これは、政変のあおりを受けたためと言われています。

政変のあおりというのは、大隈重信の突然の解任です。立憲政体、憲法と政治の体制をめぐる対立で伊藤博文や井上馨がクーデターを起こしたとも言われていますが、大隈重信を擁護する若手官僚も同時に辞任しました。すると大隈重信は、原敬が働いている報知新聞社を買収したのです。

そして、大隈重信は、報知新聞社へ一緒に辞任した若手官僚を送り込み自派の機関紙にするように画策します。そのあおりで原敬は冷遇をうけると「政論の違う人間と働く必要はない」と、さっさと見切りをつけて辞表をだしたそうです。

「捨てる神あれば拾う神あり」新聞社を退職すると、大隈重信と対立している井上馨が声をかけてきました。原敬の文名、政論評価は、この頃からかなり高かったらしく、そこから、外務省御用掛を命じられ実に15年間の役人生活を勤めます。

1883年(明治十六年)には清国、天津領事にフランス語のできる外交官として任命されたると、翌年には甲申事変こうしんじへんが勃発したので、その後処理をした伊藤博文を支えたそうです。この功績が認められると、外務書記官としてパリ公使館勤務を命じられ、念願のフランスに旅立ちました。

しかし、フランスで充実した日々を送っていた原敬に、またもやあの男が立ちふさがります。1889年(明治二十二年)大隈重信が外務大臣になると、嫌がらせのように日本に呼び戻されたのです。

日本に帰国すると井上馨が大臣をしていた農商務省に転じました。しかし、農商務省は薩長が実権を握っていたので、一日中新聞を読むほど、ほとんど仕事がなかったといいます。

現代のサラリーマンのように安定した生活を人質に飼い慣らされた状況に追いやられてしまった原敬ですが、そんな窓際生活を救ったのが、カミソリ大臣と呼ばれた陸奥宗光むつむねみつです。

陸奥宗光は1892年(明治二十五年)第二次伊藤内閣が発足した時に、外務大臣に任命されました。素質を見抜いていた陸奥は、原敬を局長として迎え入れると最難題といわれていた「日英通商航海条約」の改正に成功しました。

その後、陸奥は日清戦争後の三国干渉問題で心労のため病に倒れてしまいましたが、原敬は後任の西園寺外務大臣のときにも事務次官として活躍しました。

1896年(明治二十九年)に第二次松方内閣が発足すると、大隈重信が外務大臣に就任したため、原敬は当然のように辞表を提出したそうです。そして、大阪毎日新聞社の社長に就任して様々なアイデアで改革を進めました。当時、発刊部数No1の大阪朝日新聞を打倒とする目標を掲げ部数を伸ばしていったそうです。

1900年(明治三十三年)になると伊藤博文と西園寺公望さいおんじきんもちに新政党、「立憲政友会」の立上げに声をかけられると大阪毎日新聞社を退職しました。

原敬44歳。ここから、伝説と呼ばれる政治家人生がスタートするのでした。


26)人は死ねども刀は残る_白虎隊の脇差②

ファミリーヒストリーを通じて、日本の近代史を学んでいくと色んな出来事が全てつながっているんだなとつくづく思う。いままでは、その時代、その時期、その出来事ごとについて学んできました。

「明治維新」「戊辰戦争」「西南戦争」「日清戦争」「日露戦争」「満州事変」「日中戦争」「ノモンハン戦争」「太平洋戦争」

特に、GHQからの敗戦教育を受けた我々団塊ジュニア世代は、『日本は悪い国、真珠湾攻撃で「太平洋戦争」を開戦した。大空襲、無残な戦い、広島・長崎の原爆。ひもじい生活、二度と戦争しない。武器はつくらない。』と脳みそに刷り込まれてきたので、おそらく、満州国の存在自体も知らない人の方が多いと思います。

もちろん、自分たちの子孫や未来人には、現在と同じように平和な時代を維持し戦争をしないで欲しいと心から願っています。そのためには、ただただ、悲観的な教育を受けるのではなく、事実と背景をしっかりと学ぶ必要があるのだろうな。

幕末の志士たちが命がけで理想を描いた現代の日本は、果たして人々が平等に暮らせる未来になっているのでしょうか。戦時中、自らの命を犠牲にしながらも愛する家族を守った英霊たちの願いを我々は叶えることができているのでしょうか。

1853年(嘉永六年)ペリー来航からはじまり1945年(昭和二十年)の敗戦まで続いた100年戦争は、そんな願いが込められた戦いだったと思っています。


原敬はらたかしの理想と政治
1900年(明治三十三年)伊藤博文と西園寺公望さいおんじきんもちに誘われて、大臣になることを条件に「立憲政友会りっけんせいゆうかい」入りした原敬は、1921年(大正十年)に東京駅で暗殺されるまでの21年間を政治家として過ごしました。

新聞社時代に培った政論と政治手腕をいかんなく発揮し、政党政治(多数党)、現在の自民党の基礎をつくり上げた人と言われています。

政治の話は、正直難しすぎてなかなか理解することができないですが、自分の心に残った要点をまとめてみると、明治政府は、伊藤博文、山形有朋、井上馨、あとは大山巌という薩長派閥が権力を握り「富国強兵」資本主義経済を目指しました。文明開化の音がするーーですね。

しかし、この絶対権力を握る元勲げんくんたちが、年老いていくと政治の中枢に空白がうまれる。それをうめるには、政党政治が必要であると考えた原敬は、議席数の過半数以上を占めるまで「立憲政友会」の勢力を拡大させて、やがて総裁として全権を握りました。

この、「政党政治」という言葉が、最初しっくりこないというか、よくわからなかったのですが、大河ドラマ「晴天を衝け」を見て想像すると、政治や経済、軍隊の中心を薩長の元勲たちが担いますが、1日でも早く欧米列強国に追い付くためには、薩長の人材だけでは人手が足りません。渋沢栄一など徳川派の優秀な人材も政府官僚にスカウトして新しい国づくりを進める必要がありました。

すると、各省庁や各都道府県、自治体、もっというと朝鮮や満州には様々な思想をもった人たちが集まり派閥をつくります。元勲げんくんたちが生きているうちは、トップダウンで物事を進めることができますが、いなくなったらそうはいきません。現に、日露戦争は、伊藤博文、山県有朋、井上馨、松方正義、大山巌の5人と一部主要閣僚によって政略・戦略を決定していたそうです。

では、どのようにして、原敬が政党勢力を拡大していったかといいますと、その手法は、「金の欲しい者には金をやり、酒を欲しがるものには酒を飲ませて党勢を拡大し、金の配給の仕方は、一万円といえば一万五千円、一万五千円といえば、二万円を渡していた」と言われています。

「人間は、金か利権を与えなければ、そう動くものではない」と皮肉を語っていたそうです。しかし、「金だけでは動かぬ」ということにも理解しており、細心の気を張り、人の心に寄り添い、困っている党員に対しての面倒見がよかったとも言われています。

原敬が暗殺されなければ、もしかしたら、日本が辿る結末が違うものになったのではないかと思うほど、先見の逸話がいくつもあります。1908年(明治四十一年)に原敬は、6ヶ月間にわたり欧米を訪問する長期外遊に出ました。アメリカに1ヶ月間滞在すると、アメリカの底力を知り、対米協調路線を一貫して主張したそうです。

1915年(大正四年)大隈重信が中国総統の袁世凱えんせいがいに「対華二十一カ条」を要求すると、原敬はただちに反対しました。また、日英同盟を理由に第一次世界対戦に参戦した戦争理由「三国干渉の報復」についても、「たかが青島ひとつをとる戦争ではないか、あまりに軽率すぎる」と非難しました。その真意は、中国が最も頼りにしているのはアメリカであり、米中の動向を考えていない大隈内閣を遺憾であると表明していたそうです。

他にも「日米戦争説に口実を与えないようにする必要がある。日本軍人がアメリカを仮想敵視するのは危険である」「将来アメリカは、世界を牛耳るに至る、支那問題はアメリカとの関係に注目して処理せよ」と戦後の見通しをたてていたようです。

また、「シベリア出兵」についても原敬は強力な反対論者となり、「これを端緒として大戦に至る覚悟がなければ一兵卒も出すことは不可である」「万が一ドイツとロシアが同盟を結び日本と対戦する場合、英仏は頼りにならないが、米からは軍資を得ることはできるでしょう」と対米協調路線を一貫して唱えていました。

結果、アメリカも「シベリア出兵」に同意したため、原敬も、「日米協調の端緒となるのであれば――」と賛成しましたが、シベリア大量出兵には依然反対することを表明していました。しかし結局は、7万人もの兵力を投入しロシアから反感を買ってしまいます。更には、ロシアパルチザンに日本民間人含む122名が殺害される尼港事件にこうじけんが勃発。その補償として、日本軍は北樺太を不法に占拠しました。

以前にも記したことがありますが、この「シベリア出兵」は、多くの人命、多額のお金、ロシア人からの不満、アメリカからの信頼を失った、日本外交史上、もっとも失敗した外交といわれています。

1921年(大正十年)ワシントン会議、軍縮会議の参加に対しても、賛成の意志を伝えて、アメリカ政府とアメリカ世論に平和を訴え歓迎されていました。しかし、その矢先に中岡艮一なかおかこんいちに暗殺されてしまうのです。左胸を短刀で全体重をのせられて――。

現役の内閣総理大臣が暗殺されたはじめての事象です。1921年(大正十年)11月4日死亡。享年65歳。

逮捕された中岡は、死刑の求刑に対し無期懲役の判決を受けることになります。この裁判は異例の速さで進められました。また調書などもほとんど残されていない謎の多い裁判で、その後も中岡に対し特別な処遇がなされて、3度もの減刑が行われ1934年(昭和九年)に釈放されたそうです。

福岡藩の玄洋社や、大陸浪人・頭山満などと関係があったという説や、ワシントン軍縮会議の反対派とつながっていた説。中岡が上司との政治談義をしているなか中で「腹を切る」と「原を斬る」を勘違いした説など、かなり無理やりな説含めて様々な陰謀論がありますが、大正時代の国民の政治に対する熱狂、いきすぎた大正一揆が原敬の暗殺を招きました。原敬の死が太平洋戦争敗戦の道に進んだ一つの要因だというのが、今回のファミリーヒストリーを通じて学んだ自分の感想です。

最後に、「立憲政友会」総裁であった原敬は、1917年(大正六年)盛岡市の恩報寺おんほうじで開かれた「戊辰の役五十年忌」に参加し祭文を起草し朗読しました。難しい言葉をつかっているので、自分なりに解釈した文面を以下記載します。

「昔も今も朝廷に弓を引くものなどいない。戊辰戦争は政権が変わっただけなのに、勝てば官軍負ければ賊軍という言葉が流行した。しかし、その真相は、先人たちの恩恵により天皇が徳に優れ聡明なことは天下の事実で、不当の死を遂げた先人は成仏できる。自分はたまたまこの郷出身だが、この祭典に参加できることを光栄に思うということを、先人の霊に心を込めて打ち明ける」

明治維新、戊辰戦争で苦渋を味わい、「賊軍」と呼ばれた東北出身の原敬が、薩長派閥域外で初の首相となったのは翌年の1918年(大正七年)の事です。原敬は、華族の爵位拝受を固辞し続けたため「平民宰相へいみんさいしょう」と呼ばれていました。


27)人は死ねども刀は残る_白虎隊の脇差③

戊辰戦争で悲劇の結末をむかえた白虎隊の「脇差」を昨年亡くなった父の従兄弟・佐藤徹さんが持っていたのはなぜでしょうか。それは、原敬さんの一番弟子と呼ばれていた、元広島市長・佐藤信安さんの養子として自分のお祖母ちゃんのお兄さん、ひろむさんが佐藤家に籍を入れたからだと思います。

・白虎隊の遺族から第19代首相・原敬さんへ
・第19代首相・原敬さんから第13代広島市長・佐藤信安さんへ
・第13代広島市長・佐藤信安さんから豊島家のDNAを紡ぐ博子さん夫妻へ
・佐藤(岡村)弘さんから息子・佐藤徹さんへ

人の命は潰えてしまいますが、刀というカタチに残るモノは遺品として現代にも受け継がれてきました。徳川幕府時代から会津志士たちが守り続けた「もののふ」の意志までもが託されているような気もしますが、その真意は語られず刀だけが未来に引き継がれました。


■養父・佐藤信安

自分の父であるご隠居さまは、晩年の佐藤信安さんと面会をしたことがあるらしく、そのときに昔話を聞かせてもらったそうです。佐藤信安さんは、1874年(明治七年)島根県松江市生まれなので戦国時代の尼子氏や出雲松田氏と故郷が同じです。「ご先祖さまは、尼子の落人」という云い伝えのある我が長谷部家の人間としては何かの繋がりがあるのではないかと思ってみたりもします。

佐藤信安さんの経歴をみると、ご自身で弁護士事務所を開業し、1907年(明治四十年)に検事となり全国各地の裁判所で勤務されています。その後、1913年(大正二年)に熊本県警察部長、翌年の1914年(大正三年)には山口県警察部長に就任し、さらには、福島県内務部長を務めたと記録がありました。

そして、1922年(大正十一年)突然、広島市長に選任されています。原敬さんの死亡時期1921年(大正十年)と佐藤信安さんの就任時期1922年(大正十一年)を比べると、原敬さんの直接的な関与で広島市長になったわけではなさそうです。

原敬さんとは、福島県内務部長を務めたときに知り合ったか、もしくはもっと前からの知り合いだったのか、断片的な情報しかないので想像することしかできませんが、原敬さんの一番弟子と語ってるくらいですから、若いころからのご縁だと思われます。もし、仮に原敬さんから「白虎隊の脇差」を譲り受けたのであれば、それは、それは、ものすごいことになりますが、確証はありません。

しかし、この当時、簡単に市長にはなれないはずです。しかも広島の市長です。関ケ原の屈辱を果たした長州(毛利)が徳川から取戻した故郷安芸・備後の国・広島は、日清戦争の時に明治天皇が移り住み大本営となるほどの場所です。明治維新後、軍事基地として発展した、日本の武力を示す街の市長にはそう簡単になれないと思います。

では、どうやって、広島市長になったのでしょうか。明治政府は、経済発展と軍事力強化を目指し、中央集権的な強力な国家体制を整備するため、国内の行政は「内務省」という中央省庁が担当しました。もちろん人事なども決めていたそうです。ということは、福島県の内務部長をしている佐藤信安さんは、内務省で官僚の仕事をしていたことになります。

しかも、各首長は支持政党の見返りによって任命されるケースが多かったようです。そう考えると佐藤信安さんは、伊藤博文さんが立上げて原敬さんが政党拡大した「立憲政友会りっけんせいゆうかい」に属していたと推測されます。ただ、それだけの情報ではやや弱いと思い、歴代の広島市長をしらべてみると、佐藤信安さんの3代前、1914年(大正三年)1月から4月までのわずか三ヶ月間ですが、豊島陽蔵さんという方が広島市長をしていました。

そうです。ここにきて豊島家がつながりました。お祖母ちゃんの兄、ひろむさんの奥さんである、博子さんのご実家が、豊島氏。この豊島陽蔵さんは日清・日露戦争で活躍した軍人さんで、司馬遼太郎さんの小説「坂の上の雲」にも登場するような方です。

当時の内閣をしらべてみると1914年(大正三年)1月時点の内閣は、第一次山本権兵衛内閣。そのときの内務大臣は、予想通り、原敬さんでした。そして、1914年(大正三年)4月には、山本内閣が総辞職すると原敬さんの政敵、大隈重信さんの第二次内閣が組閣されます。その影響で、豊島陽蔵さんは広島市長を辞職したのでしょう。興味深いのは、豊島陽蔵さんが、広島市長に就任する前までの約1年間は、広島市長が不在だったのを原敬さんが、内務大臣の任期途中に豊島陽蔵さんを任命しているのです。ここにもきっと何か理由があるはずです。

では、佐藤信安さんが広島市長に就任した1922年(大正十一年)の内閣はどのような人選だったのでしょう。しらべてみると、広島藩出身の加藤友三郎内閣。加藤総理は薩長以外の軍人で初めて首相となった方で、内務大臣は水野錬太郎大臣。加藤首相も水野大臣も原敬さんの知遇を得て、「立憲政友会」の党員となった方でした。


■陸軍中将・豊島陽蔵

はてさて、急に登場してきた豊島陽蔵さん。どのような方かしらべてみることにしました。豊島陽蔵さんは、1852年(嘉永五年)広島で生誕したので原敬さんの4歳年上。15歳で明治維新を経験し1875年(明治八年)23歳で陸軍士官学校に入学しています。1877年(明治十年)に見習士官になっているようなので、出兵したかどうかはわかりませんが、西南戦争を経験していることになります。

その後、砲兵隊に所属し1894年(明治二十七年)42歳の時に砲兵大佐として日清戦争に出征。1904年(明治三十七年)52歳の時に、日露戦争に出征し旅順攻囲戦で全砲兵を指揮しました。有名な二〇三高地にいまるさんこうち攻略戦で二十八糎榴弾砲にじゅうはちせんちりゅうだんほうを用い、二〇三高知の山頂から旅順港に停泊している戦艦にむけて大砲を撃ちました。1914年(大正三年)に予備役よびえき、つまり、一般社会で生活する軍隊在籍者になったので、このタイミングで広島市長に選任されたことになります。

他には、1913年(大正二年)に生まれ故郷、広島県広島市東区に「男﨑おとこざき神社」の石鳥居を寄進したそうです。「男﨑神社」は、八幡宮を分霊していたということなので、戦いの神さまの氏子ということになります。豊島陽蔵さんとの関りは、

たまたま、お祖母ちゃんのお兄さんのお嫁さんが豊島家出身で                        たまたま、原敬さんが内務大臣のときに豊島陽蔵さんが広島市長になり                   たまたま、佐藤信安さんが第13代・広島市長になった                         たまたま、佐藤信安さんが豊島家の未来を案じ弘さん夫妻を夫婦養子にした

ただ、それだけです。「白虎隊」の脇差は、武士の魂として日本人の生き方をカタチにして現代も残っています。「朝敵」とされた無念も、列強国に挑んだ軍神も、10死0生の特攻に臨んだ英霊も、腹を切った軍人や卑劣な暗殺に倒れた公人も、本来大切にしたかった武士の志、日本人の生きざまを貫いたのだと思います。

人生は儚く、どのんな人でも最後は死に至ります。それでも「白虎隊」の脇差は時代をこえて残っていく。あの脇差は、未来人にどんなメッセージを残していくのでしょう。


28)大清帝国の蜃気楼_日清・日露が残すもの①

日清・日露戦争のことをちゃんと学んだのは、それなりに歳を重ねた大人になってから、ビデオ屋で借りてきたNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」をみたときでした。もちろん、学生時代に社会の授業で学んだのでしょうけど、若かりし頃の自分は、偏差値38の高校に通うほどの学力だったので勉強に全く興味がありませんでした。なのでドラマを通じて近代史を知れたことがとても新鮮だったことを覚えています。

「坂の上の雲」は、日露戦争で参謀をつとめた、秋山真之さんの生涯を中心にアジアの小さな国が欧米列強に追いつくために近代国家を目指した奇跡の物語。ドラマのキャスティングがこれまた最高でした。

秋山真之を演じた本木雅弘、正岡子規を演じた香川照之、秋山好古を演じた阿部寛、正岡子規の妹、律を演じた菅野美穂など、名言までもが心に残り、愛媛の方言「だんだん」や「単純明快」「短気は損気」「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」「勝って兜の緒を締めよ」などは、普段、記憶することが苦手な自分でさえも覚えることができました。久石譲さんの楽曲「Stand Alone for Orchestra」も最高です。時代を超える壮大さを連想させてくれました。

日清・日露戦争の詳細については、「坂の上の雲」の小説を読んだり、スペシャルドラマを観るのが一番いいと思いますが、ファミリーヒストリーを調べるうちに、叔父さんの人生に関わりがあるかもしれない、陸軍中将・豊島陽蔵さんが登場してきたので、自分なりの視点、明治の人たちが必死に努力したあの時代の概要をまとめてみようと思います。


大清帝国の繁栄と衰退
日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月までの間、日本国と大清帝国の間で行われた戦争です。ロシアの侵攻を恐れる日本と、従属国を失いたくない大清帝国との間で朝鮮半島をめぐる対立が原因ですが、その背景には、どのようなことがあったのでしょう。

何をどこまで遡れば良いか迷いましたが、とりあえず大清帝国について調べることにしてみました。大清帝国は1616年(元和2年)、徳川家康が逝去した年に満州で建国され、1644年(嘉永二十一年)から1912年(明治四十五年)約270年ものあいだ、中国本土やモンゴル高原一帯を支配した王朝です。

1820年(文政三年)の領土最大期には、現在の「中国全土」「モンゴル」「新疆ウィグル」「チベット」「台湾」なども領地で「朝鮮半島」「ベトナム」「タイ」「ミャンマー」「琉球」などは従属国じゅうぞくこくとして朝貢国ちょうこうこくの待遇、いわば、大清帝国の皇帝が豊かな産物を恵んでもらい貢物みつぎものをする代わりに外敵から国を守るという恩恵を得ていたそうです。

そんな、強大な大清帝国が衰退していくわけですが、その背景には人口の爆発的増加、食料問題、自然災害に直面したと言われています。しかし、最大の理由は、1840年に(天保十一年)に勃発したアヘン戦争です。

アヘン戦争の原因は、イギリスがアメリカ独立戦争の戦費を調達するために、これまた、イギリスの植民地、インドでアヘンを収穫して、大清帝国に輸出して銀貨を稼ぐという政策が発端です。

アヘンは、人口が爆発的に増加し食糧難にみまわれている大清帝国の人民に一気に広がりました。その蔓延の様子は、貧しい人だけでなく役人までもが中毒になるほどで、民度の低下がとまらなかったそうです。そこで、1839年(天保十年)にアヘンを厳しく取り締まりますが、それでもしつこく密輸入するイギリスとアヘン戦争が勃発したという経緯です。

1842年(天保十三年)アヘン戦争に惨敗した大清帝国はイギリスと「南京条約」を締結します。内容は、香港島を譲り、上海含む5港の開港とその他もろもろです。その後、イギリスとの「南京条約」に便乗して、アメリカとフランスも大清帝国と同じ5港の開港や通商、居住を認めさせる不平等条約が締結されました。

イギリスはさらに追い打ちをかけます。1857年(安政四年)にイギリスの商船アロー号の乗組員が逮捕されたことを理由に、第二次アヘン戦争を仕掛けました。同時期にフランスも宣教師が殺害されたとして出兵します。イギリスとフランスの連合軍は、圧勝し、1858年(安政五年)、あらたに「天津条約」及び「北京条約」を結びます。

条約の内容は、北京の駐在、九龍きゅうりゅう地区の割譲、天津ら11港の開港、賠償金の支払い、アヘンの輸入を公認させる等、徹底的に弱いものいじめです。更にはロシアまでもが境界線を拡大させるための「アイグン条約」これまた不平等条約を締結しました。具体的には、樺太やウラジオストクなどの外満州がロシアの領地となります。

イギリス、フランス、アメリカ、ロシアに侵略された大清帝国には、もう、チカラがありません。更には、漢族と満族の内戦も起こり四面楚歌、フルボッコです。

ちょうどこの頃に、日本国の浦賀にペリーが来航してきたのです。1853年(嘉永六年)です。隣の大清帝国でこんなことが起こってるのですから、そりゃあ、外国人を排除する思想「攘夷論」が、日本国中に巻き起こるのも無理はありません。ここから明治の先人たちは、必死に近代国家を目指し、欧米列強に対抗するためにチカラを蓄え怒濤の戦争時代に突入していくのです。


29)大清帝国の蜃気楼_日清・日露が残すもの②

ファミリーヒストリーを調べながらも日本史を学ぶという取組は、なかなか良い勉強方法だなと思っていたけど、まさか、世界史にたどり着くとは思ってもいませんでした。今後の人生でアメリカ独立戦争の経緯やイギリスの植民地政策についても学ぶ機会があるかもしれませんが、いまは、引き続き大清帝国の歴史を整理するとします。

大清帝国は、満州人が、満州(満族)、明(漢族)、モンゴル(蒙族)、チベット(蔵族)、新疆ウィグル(ウィグル族)を制したことで。5族(正確には55族)が共に過ごす多民族国家となりました。

この文章だけで、ふたつのことを思い浮かべてしまう。ひとつは、新疆ウィグル問題。コロナパンデミックが起こると、アメリカとイギリスは、中国の新疆ウィグルに対するジェノサイドを非難しだしました。そして日米英可豪は2022年開催予定の北京オリンピック外交ボイコットを発表しました。

もうひとつは、1932年に建国された日本の傀儡国家、満州国の5族共和政策。このときは、「日本」「満州」「中国」「朝鮮」「モンゴル」の民族共存、五族共和のワンダーランド、王道楽土のスローガンをたて、1938年(昭和十三年)近衞文麿首相は「新東亜新秩序の建設」アジアの多民族で手をとりあう新たな秩序をつくると世界に発信しました。これは、まるで大清帝国の政策を模倣しているようにもみえます。

大清帝国の歴史をしらべることで、いま、世界で起きてることは、歴史でつながっていることがわかってきます。なにが良くて、なにが間違ってるかなんてわからないけど、少なくとも「新疆ウィグル」は大清帝国の一部族でした。美人で有名なウィグル人は皇后にもなっています。

いま現在も歴史は刻まれているのだから、ちゃんと物事の本質を理解して冷静に判断する必用があると思います。再び亡国の危機に瀕するわけにはいかない。令和の名に込められた願いが叶うことを信じて。


■日清戦争の軌跡

大清帝国は、1856年(安政三年)に勃発した第二次アヘン戦争の敗戦でイギリス、フランス、アメリカに領土を侵略されました。すると隣国のロシアや日本も便乗して大清帝国への侵略をはじめます。

1858年(安政五年)ロシアは大清帝国と「アイグン条約」を締結することで樺太やウラジオストック一帯の外満州まで領地を拡げました。当時は、ロシア軍艦をアムール川に入れて銃砲を乱射し『調印しなければ武力で満州人を追い出すぞ』と脅迫したそうです。これでアムール川が大清帝国とロシアの国境となりました。

一方、日本は1871年(明治四年)宮古島の漁師が台湾に漂流し殺害されるという事件が発生すると、この事件をきっかけに琉球王国が日本の領地だということを国際的に認めてもらうことに成功します。その方法は、「国民を殺害した台湾に報復することで、琉球の民は日本国民だ」という既成事実をつくることでした。

日本の「台湾出兵」には、諸外国から批判されながらもイギリスが仲介に入り終息します。その内容は、「日本が殺された漂流民のために攻撃したことを大清帝国が認めたから」だと言われています。すなわち、大清帝国が「琉球民」は「日本国民」であることを公に認めたという理屈です。そして、1879年(明治十二年)には廃藩置県のながれから琉球王国は沖縄県に設定されました。

イギリスやフランスも大清帝国に従属している国々を奪いとります。1884年(明治十七年)にベトナムの宗主権そうしゅけん、いわゆる他国が内政や外交を管理する権利をめぐる「清仏戦争」が勃発するとフランスが領土領有目的を達成しました。翌年の1885年(明治十八年)英緬戦争えいめんせんそうで、ビルマ(ミャンマー)はイギリス領になります。大清帝国の従属国だった、タイ王国だけはフランス領とイギリス領に挟まれていたので緩衝国として独立が許されたそうです。

日本の話に戻しましょう。衰退しきった大清帝国を横断して一年中凍らない港を手に入れようと南下してくるロシアを日本は恐れていました。そこで、大清帝国最後の属国、朝鮮を独立させて緩衝国にすることを目論み1884年(明治十七年)にクーデター甲申政変こうしんせいへんを援助します。これは、朝鮮の独立派が親清派の一掃を図り王宮を占拠した革命でしたが、3日間で清軍に制圧され失敗しました。

従属国を失いたくない大清帝国、宗主国から解放されたい朝鮮独立派、ロシアの侵略を防ぎたい日本の思惑が重なり、1894年(明治27年)巡洋戦「浪速」艦長・東郷平八郎がイギリス船を撃沈させて日清戦争が勃発します。

イギリス船には清国兵1100名が乗船しており、船長以下イギリス人乗員は清国兵に脅迫されていたそうです。清国兵は刀剣をぬき、銃を構えている状況となったので、東郷平八郎は「危険」を示す国際信号旗掲げるとしばらく猶予を与えますが、やがて「撃沈します!」と命令をだし砲撃を開始しました。直前に海に飛び込んだイギリス人船長と乗組員は救助され、多くの清軍兵士は死亡しました。この一連の対応は、国際法に則った処置でした。

その5日後、1894年(明治二十七年)8月1日に両国は、宣戦布告しました。日本と朝鮮は盟約を交わし戦争目的を「朝鮮の独立のためのもの」とすると、朝鮮は日本軍の移動や物資の調達などを支援し、出兵もして協力体制を築くことになりました。そして日本軍は勝利を重ねていきます。

朝鮮にいる清軍を制圧する頃、日本国内では広島に明治天皇が移り住み大本営が設置されました。これは、日本の首都が一時的に広島になったという歴史的な事柄です。国会も広島で開催されたので、伊藤博文やら元勲も移り住んだのではないでしょうか。

それでは、何故、広島が臨時首都となったかというと広島には船艦が出航できる港があり、農産物も豊富で最新の缶詰工場もある。統帥権のある天皇陛下に移り住んでいただく事で軍事決定が速やかに行えるということでした。ただ、個人的には、長州藩主、毛利氏が関ヶ原の戦いで追い出された故郷広島に軍事基地を築くことで毛利の威厳を示したのではないかとも思っています。

日清戦争は、日本海軍が黄海・海上を制圧しました。日本陸軍は山県有朋やまがたありとも司令官のもと、平壌、遼東半島にある難攻不落の旅順港、山東半島の威海衛いかいえいを攻略しました。すると首都北京目前まで日本軍が攻め込んできたので清軍は敗北を認めました。

日清戦争は、多くの国が「清国の勝利だろう」と思われていましたが終わってみれば、日本の快勝。それは、近代化した日本軍の方が、武器や艦隊が優れていたからだと言われています。その後の講和条約で「 清国は朝鮮の独立を認める」「遼東半島りょうとうはんとうと台湾・澎湖諸島ほうこしょとうを日本へ渡す」 「賠償金は2億両」「4ヶ所の港を開く」ことを約束しました。

しかし、条約の内容が明らかになると遼東半島を狙っていたロシアがこれに猛反発。 ロシアの意見に同調するフランスとドイツを誘って「遼東半島を清国に返還するように」と日本を脅してきました。これが「三国干渉」です。 日清戦争で精一杯だった日本は、ロシアとの戦いを避けるため遼東半島を清国に返還するという苦渋の決断をします。この遺恨が10年後の日露戦争開戦につながっていくことになります。


30)大清帝国の蜃気楼_日清・日露が残すもの③

現在、中華人民共和国と呼ばれる国の歴史は短く深い。1911年(明治四十四年)に大清帝国・最後の王朝が滅亡して、わずか34年後の1945年(昭和二十年)に日本国が敗戦すると毛沢東率いる共産党軍が中国大陸全土を制しました。中国国内で共産党軍と戦った国民党軍は「三十六計逃げるがごとし」と台湾へ向かうことになりましたが、その戦いは現代でも続いています。

日本の25倍もの面積をもつ大陸に13億人以上の人口、55の民族が共存しながら経済大国No.2にまでのしあがった中国は素直に凄いと思う。中国は、満州国の軍需施設を得ることで絶大なチカラを持つことができたのだから、スローガンも引き継いで王道楽土、「徳」の道を極めてもらいものだが、それは難しそうです。

ふと、自分の人生を振り返ってみると、過去に1度だけ上海へ行ったことがあります。台湾や香港・マカオ、モンゴルにもご縁があって旅をしたこともありますが、ロシアには一度も行ったことがない。日常生活でも中国をはじめ韓国、アジアの情報や文化に触れることはあるけど、ロシアは本当にないです。あるとすれば、ニュースでみるプーチン大統領くらい。

それだけ日本とロシアは、お互いに遮断している関係なのでしょうか。それとも、たまたま自分の人生で縁がないだけなのでしょうか。ロシアは、日露戦争で日本に敗戦し第一次世界大戦でドイツに敗れました。アメリカとの冷戦でソ連は崩壊したわけですから、ロシアにとって日米独はいまだに敵国なんだと思います。だとすると、いったいロシアはどの国と仲がよいのでしょう。


■ロシアとの戦い

日清戦争で勝利した日本は、下関講和条約で「朝鮮の独立」と「台湾、遼東半島の割譲」「賠償金の支払い」などを約束しました。しかし不凍港を手に入れたいロシアが邪魔立てします。ロシアは、ドイツ、フランスを味方に取り入れ日本に対し遼東半島を返還するように求めてくるのです。「三国干渉」ですね。

日清戦争を終えたばかりの日本は、3カ国と武力戦争をしたとしても敗戦は目にみえています。泣く泣く日本は遼東半島を返還することになりましたが国内では臥薪嘗胆がしんしょうたんという言葉が流行りました。「いまは、我慢していつかロシアに仕返ししよう」ということです。

他にもロシアは、大清帝国に対して日本から請求されている賠償金を肩代わりすることを提案すると密約を交わしました。その内容は、日本がロシアもしくは大清帝国に侵攻してきた場合、お互いに防衛しましょうという約束です。大清帝国は、いままで散々、色んな国からいじめられてきたのにこんな優しい提案はありません。喜んで密約を交わすことにしました。

するとロシアは、日本が攻めてきたときの対策として満州にロシア軍を駐留させて役人や軍人の治外法権を認めさせます。更には、東清鉄道建設を決定しロシアのチタという都市から満州哈爾濱はるぴんを経由してウラジオストクまで路線を敷設することまでも認めさせました。

地図をみるとわかるのですが、ロシアがアヘン戦争に便乗して結んだ「アイグン条約」や「北京条約」で獲得したウラジオストクと、ロシアのチタまでは、黒竜江省と吉林省を横断して一直線に線路を引くので、線路より北側はロシアの領土にもみえてきます。

更には、満州哈爾濱はるぴんから遼東半島にある旅順港まで路線を拡大すると、満州がちょうどT字に3分割されるように見えます。自分は、「三国干渉」の最終的な意図は、ここにあったのではないか、つまり、満州をロシアとフランス、ドイツで奪い取ろうと約束したのではないかと想像したりもしています。なぜなら、この東清鉄道のお金はフランスが出資しているからです。さらにこの流れから1894年(明治二十七年)にロシアとフランスは軍事同盟を結びました。

さて、ロシアは、念願の不凍港である旅順港を手に入れることができました。凍らない港に戦艦や巡洋艦、駆逐艦などのロシア軍・太平洋艦隊を入港させました。さあ、いよいよ次に狙うは、朝鮮そして日本です。日本の植民地化が成功すれば、太平洋への海洋進出も夢ではありません。

しかし、大清帝国の国民もいよいよ我慢ができなくなります。1900年(明治三十三年)に外国人たちを追い出す運動「義和団事件ぎわだんじけん」が勃発し北京にある各国の公使館を包囲しました。そのながれで、清国政府も呼応し列国に対し宣戦布告「北清事変ほくしんじへん」が勃発しましたが、日本・ロシア・ドイツ・イギリス・アメリカ・フランスなど8ヵ国が鎮圧しました。多国籍軍は講和条約に基づき、ただちに撤兵することになりました。

ところが、満洲支配の既成事実を欲するロシアだけは、東清鉄道の南路線が義和団に破壊されたことを理由に「鉄道の建設修理事業を保護するため」という理由で撤兵に応じず、逆に部隊の規模を増大させる行動に出ました。着々と南下政策を進めるロシアと戦争をしたくない日本は、切羽詰まってきます。ロシア側との交渉の場を設けて、「朝鮮を日本の支配下に置くことを認めてくれれば満州には手を出さない」という妥協案を提案しましたが、ロシアは認めてくれませんでした。

いよいよ、戦争を覚悟する日本はイギリスと日英同盟を結ぶことになります。ここまでの話しを整理すると、大清帝国の領土をアヘン戦争でイギリスとフランスが侵略して、それに便乗した日本とロシアがそれぞれの列強につき、日英VS露仏の構図となったことがわかります。

そして、いよいよ1904年(明治三十七年)日露戦争が勃発します。日露戦争は、有名な「奉天会戦」や「旅順港攻略戦」バルチック艦隊を撃沈させた「日本海海戦」など、日本は連戦連勝で軍事目的を達成し続けました。更には、ロシア国内で明石大佐が革命派たちを支援し「ロシア革命」を起こしロシア王朝が滅亡したというわけです。

日本は、局地戦で勝利をしていましたが、戦力が枯渇していたということもあり、アメリカの仲裁で講和条約を結びます。その内容は、日本が朝鮮半島の保護権を持つこと、ロシアから南樺太、南満州鉄道の利権、旅順・大連の租借権を得ることなどでしたが、賠償金を得ることはできませんでした。

日清戦争のときの日本軍の死者数は、約1万3千人。戦費とほぼ同額の賠償金を清国から得たうえで利権を獲得しました。しかし、日露戦争の死者数は、約9万人で賠償金がもらえなかったそうです。その結果、納得のいかない日本国民は、日比谷焼き討ち事件などを機に国民熱狂時代に突入していくのです。


31)知られざる亡国_幻の満州国①

幼いころから、「父は満州で生まれた」と聞かされてきたけど正直ピンときませんでした。満州がどんなところかもわからないし、1939年(昭和十四年)がどのような時代だったかも想像がつかないからです。

そのようなことを父に話したら、1970年(昭和四十五年)に日活が制作した「戦争と人間」の存在を教えてくれました。この戦争映画は1928年(昭和三年)の「張作霖爆殺事件」から1939年(昭和十四年)の「ノモンハン事件」までの出来事を全9時間以上、3部作でまとめた超大作です。

Amazonプライムを検索するとでてきたので毎日少しずつ観ることにしました。感想は、日本人の残虐性を誇張した、自分たちが教えられてきた敗戦教育の様子が、ある意味よくわかる映画でした。

それでも満州国の様子が描かれていたので当時の様子を想像することができました。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、あのような街で生活して父が生まれたのだなと思うと、少し感慨深くなります。せっかく、このようなことを知ることができたのだから、このご縁を大切にしようと思い、満州国についてもう少し調べてみることにしました。


■幻の満州国

日本は、1905年(明治三十八年)の日露戦争に勝利したことで関東州(満州)地域の租借権そしゃくけん(領土を借りる権利)と朝鮮半島への優越権、東清鉄道における南満州支線・鉄道付属地の租借権、そして、南樺太を得ることになりました。

「鉄道付属の租借権」というのがポイントのようでして、当時は大連だいれん奉天ほうてん長春ちょうしゅん哈爾濱はるぴん、などの主要駅がある街全体を「鉄道付属地の租借権」という理由で日本の国有企業「南満州鉄道株式会社」が自らの所有地として開発したそうです。そのため「南満州鉄道株式会社」は、鉄道経営だけでなく炭鉱や農地、商事の経営、教育機関や研究所まで所有するようになりました。

1907年(明治四十年)には日本政府の正式な行政・軍事機関として関東都督府かんとうととうふが設置されて、1919年(大正八年)には、満州鉄道の守備隊が、関東軍とよばれる正式な軍隊になりました。

1932年(昭和七年)満州国が成立します。お祖父ちゃんの與一さんと、お祖母ちゃんの貴美子さんは1935年(昭和十年)にお見合い結婚をしているので、この頃に新大陸である満州国に移住したと思われます。

日本政府は、満州に日本人をどんどん移民させることで、事実上日本の領土にしてしまおうと企てていました。20年間で100万戸・500万人を移住させる計画です。

1933年(昭和八年)に、最初の移民団として独身男性500人が小銃・手榴弾を持参して送り込まれたそうです。これは、匪賊ひぞく、もともとは、張作霖ちょうさくりんの息子、張学良ちょうがくりょうが率いた東北軍と呼ばれていた人たち等が出没するためと言われています。

しかし、開拓民に割り当てられた土地は未開拓の土地で冬は零下30度まで下がる極寒地帯も多かったそうです。たしか、父の故郷、岡山県神郷町高瀬の隣村、日南から、多くの住民が満州開拓民として移民したと聞いたことがあります。

満州国のスローガンは、「五族協和の王道楽土」日本人、満州人、漢人(中国)、朝鮮人、モンゴル人が協調して暮らせる国として、西洋の武力による統治ではなく、徳による統治(王道)により、アジアの理想郷を目指すという願いが込められていました。

満州国の人口は、1940年(昭和十五年)で4323万人。そのうちの4%が日本人だったそうなので、約160万人ほどが移住したといわれています。言語は、日本語と中国語を合わせた「協和語きょうわご」という「ピジン語」を使用していたそうです。小さい頃「ワタシ中国人アルヨ」と、石ノ森章太郎さんの漫画「サイボーグ009」に登場する火を噴くサイボーグ・006の張々湖ちゃんちゃんこが話している様子を読んだことがありますが、あれは「協和語」だったと今回初めてしりました。

満州国の成長戦略として「満州産業開発五ヵ年計画」というものがありました。これは、日産コンツェルンを丸ごと満州に移転させて重化学工業の一元管理をはじめたそうです。

あとは、やはり「南満州鉄道株式会社」が満州国の成長に大きく寄与します。鉄道・港湾・炭鉱の三大事業を独占し1935年(昭和十年)には、ロシアが設置した東清とうしん鉄道も譲渡されます。さらには、「満州空港」や「大連汽船」などの交通網も整備し移民や軍人、物資などを運びました。

しかし、交通網といっても満州国が「どのくらいの領土なのか」ということがなかなかイメージが湧かないのでGoogle Mapで調べてみました。

南満州鉄道は、日清・日露戦争で激戦地区となった、旅順港のあるの「大連」から、約460キロ離れた場所、現在の北朝鮮の北あたりにある「奉天ほうてん(現:瀋陽しんよう)」につながり、そこから北東300キロほどに、満州国の首都「新京しんきょう(現:長春ちょうしゅん)」につながります。さらにそこから、300キロほど北東に、父の生まれた哈爾濱はるぴんがあるそうです。

当時の特急列車には、日本人がアメリカで学び設計した「あじあ号」などが代表的で、食堂車がついているなかなか立派な機関車もありました。

お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さんが住んでいた、哈爾濱は、もともとロシア人が侵略して開拓した都市だったので、西洋風の建物が多かったらしいです。その後、満蒙開拓移民団が移り住んだ僻地「チャムス」と呼ばれる場所には、東満州の農作物が集まり日本人街が多くあったといいます。

しかし、冷静に考えると、ロシア(ソ連)に隣接している哈爾濱はとても危険な街のような気もします。当時、25歳のお祖母ちゃん、貴美子さんと0歳の父の生活は、一歩外にでると、中国人や朝鮮人、モンゴル人、ロシア人などさまざまな民族が街にあふれていたようです。

街をつくり、国をつくる段階だったので、活気に満ちていたと思いますが、優遇されていた日本人に対する目は厳しかったと言われています。


32)知られざる亡国_幻の満州国②

満州国という存在を少しずつ学んでいくうちに、今度は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがどういう生活をしていたのかということが気になってきました。父と毎日メールのやり取りがはじまってから、不思議なご縁でお祖母ちゃんが書いた手紙とめぐり会いました。

そこには、1940年(昭和十五年)哈爾濱はるぴんから日本に一時帰国した数ヶ月後に、新天地の大同・張家口ちょうかこうで生活をしている様子が書いてありました。

張家口と哈爾濱では、随分場所が違うけど文章の片隅から当時の様子が想像できました。例えば、1940年(昭和十五年)には、既にガソリンはなかったようで、かまどの煙を床下に通す「オンドル」をつかっていたそうです。氷点下30度を越えることもあるとあったそうですから、めちゃくちゃ寒かったんだろうな。他にも近くに市場があって、魚やお刺身、砂糖やマッチなどは不自由していないと書いてありました。日本では1938年(昭和十三年)に国家総動員法が発令されていたから、ある意味、日本よりはマシな生活を送っていたのかもしれません。

それでも満州国や張家口について本やネットを調べても、なかなか生活の様子までわかるものに出会えていません。だから今回は、満州国を演出した人たちから当時の様子を想像してみようと思います。


愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎ
満州国に影響を及ぼした人は色々いますが、まずは、満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎについて紹介しようと思います。溥儀ふぎは、大清帝国のラストエンペラーです。2歳のときに、第12代清朝皇帝として即位し、1912年(明治四十五年)6歳のときに辛亥革命しんがいかくめいで退位することになりました。

1932年(昭和七年)満州国が成立すると2年後の28歳で初代皇帝として即位しますが、11年後の1945年(昭和二十年)に日本が敗北すると満州国も崩壊。ソ連軍に捕まり14年間ものあいだ抑留されてしまいます。釈放後は、満洲族と漢族の民族間調和を目指す周恩来しゅうおんらいの計らいで、満洲族の代表として政協全国委員という、国会議員相当の職に選出され1967年(昭和四十七年)61歳でこの世を去りました。

エピソードとすると、270年続いた大清帝国が滅亡した1912年(明治四十五年)の辛亥革命しんがいかくめい後、溥儀は天津にある日本租界、いわゆる外国人居留地で妻の婉容えんようと一緒に住んでいました。1931年(昭和六年)に満州事変が起こると板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐の命令で溥儀は天津から旅順に連れだされました。

1932年(昭和七年)満州国が成立した五日後、溥儀は自らが満州国の皇帝になることと引き換えに関東軍と密約を交わします。その内容は、「満州国の治安維持・国防は日本に委ねる」「鉄道、港湾、水路、空路の管理を日本に委ねる」「満州国の中央・地方の参議の選任、解任は関東軍の同意を必要とする」というもので満州国が日本の傀儡国家となる約束をしましたわけです。

正室の婉容えんようは夫婦仲を理由にアヘン中毒になったそうです。そのような婉容を関東軍は快く思わず、皇室行事などにはほとんど参加させませんでした。また、第2夫人として側室に文繡ぶんしゅうがいましたが、こちらは溥儀と離婚しています。文繡は溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露するなど、かなり、おてんばさんだったようです。

その後、譚玉齢たんぎょくれいを側室にしますが、わずか5年で亡くなります。正室の婉容は、日本敗戦後、中国八路軍に捕まり、翌年の1946年(昭和二十一年)にアヘン中毒で亡くなってしまいました。溥儀は1962年(昭和三十七年)55歳のときに漢族の李淑賢りしゅくけんと結婚しましたが、溥儀が61歳で亡くなったので二人の結婚生活は5年半で幕を閉じました。

最後に、1945年(昭和二十年)8月15日、日本敗戦の3日後に満洲国の消滅を自ら宣言すると満洲国皇帝を退位しました。日本へ亡命するため8月19日に奉天の飛行場に行くと、ソ連軍に捕まってしまいます。ソ連に収監されている状態で、翌年の極東国際軍事裁判きょくとうこくさいぐんじさいばん、東京裁判の証人として出廷しますが、裁判ではソ連に有利な証言を強要されたことを後の自叙伝で告白しています。


石原莞爾いしはらかんじ板垣征四郎いたがきせいしろう
ふたりとも陸軍一夕会いっせきかいのメンバーで、満州事変を企てた人たちです。石原莞爾は「世界最終戦論」をまとめた人です。「第一次世界大戦後平和に戻ったが、列強はやがて次の戦争をはじめる。いろんな戦争をした後に準決勝でソ連とアメリカが戦うことになるだろうから、その次に東亜連盟とアメリカ合衆国の決戦となる。その決勝戦(最終戦争)に勝った国を中心に世界がまとまることになるので、東洋の「王道」と西洋の「覇道」のどちらが世界統一の原理になるか決定する戦争となる。それまでに日本は、力を蓄え東亜諸民族を団結さる必要がある」と唱え道を示した人です。その後、東条英機との対立に敗れ中央官僚から左遷させられました。

もう一人は、関東軍の高級参謀・板垣征四郎。東京裁判でA級戦犯、「平和に対する罪」で処刑されています。満州事変のきっかけとなった事件とは、満州鉄道を爆破した「柳条湖事件」のことですね。当時は、南満州鉄道に線路一キロに15人体制で関東軍が警備をしていたのですが、柳条湖付近の線路を爆破させ、その理由を「張学良ちょうがくりょう軍が攻撃した北大営を攻撃せよ」と自作自演の命令をだしました。そして、満州地域を制圧していた軍閥・張学良率いる東北軍に宣戦布告して満州地域を制圧していったわけです。ちなみに、張学良のお父さん、張作霖ちょうさくりんは、満州の軍閥トップで柳条湖事件の3年前に関東軍の河本大作の企てで爆殺されています。

板垣征四郎は、その後、出世街道を進みます。満州国に満州拓殖公社まんしゅうたくしょくこうしゃという会社を立ち上げ、日本の移民政策を主導すると、近衛内閣のときには陸軍大臣になります。「満州産業開発五ヵ年計画」を立案し蒙古聯合自治政府もうこれんごうじちせいふや南京国民政府(汪兆銘おうちょうめい政権)の工作をした人でもあり、731部隊の前進部隊である関東軍防疫部や100部隊の設立提案者でもあります。自分のお祖父ちゃんは、蒙古聯合自治政府で蒙彊防疫處もうきょうぼうえきどころに所属していた可能性がありますので、板垣征四郎と顔見知りだったかもしれません。

板垣征四郎は、1948年(昭和二十三年)に絞首刑となりますが、日記には「満州事変ハ成功セリ。其後支那ニ手ヲ出シタノガ誤リ。万死ニ値ス」と書いてあったそうです。石原莞爾にしろ板垣征四郎にしても、アジア人で協力して列強欧米を追い出そうという正義はあり、平和を望むための判断を下してきたのでしょうけど「勝てば官軍負ければ賊軍」。ふたりの思想から多くの人々が不幸の途を辿ったことは確かです。


33)知られざる亡国_幻の満州国③

満州国に関わる人たちを調べていくと、どんどんハマっていってしまいます。満州国を紹介している本があれば、どの本にも掲載されている人ばかりですが、なんというか、当時の日本人が持っていた思想や、戦争の黒い分というか、裏の部分を客観的にみると、どんな背景があったのか想像してしまう。

少なからずとも、現代の我々の社会や生活を支えてくれている企業や文化を残した影響力のある人たちも多いので、時代というものは、自分たちの世代だけでなく、過去から繋がっているのだなとつくずく思います。


弐キ参スケにきさんすけ
満州国で総理大臣や皇帝すら意向を無視することができなかった、絶大な影響力をもった5人の軍人、官人、財人のことを弐キ参スケにきさんすけと称していたそうです。

全員、A級戦犯である「平和に対する罪」の容疑者で逮捕されました。その5人は、関東軍参謀長・東條英機《とうじょうひで》、国務院総務長官・星野直樹《ほしのなお》、満州重工業開発株式会社社長・鮎川義介《あいかわよしスケ》、総務庁次長・岸信介《きしのぶスケ》、満州鉄道総裁・松岡洋右《まつおかようスケ》の5人です。

東条英機は、ご存知の方も多いと思いますが、太平洋戦争の責任を全面に負った人だと思っています。本人は、日中戦争の連合軍の戦い含めて大東亜戦争だと言っていましたが、アメリカからしたら太平洋戦争なわけです。陸軍中央官僚の政治対立に勝利し日本の首相となり、1941年12月8日の真珠湾攻撃から1945年8月15日の敗戦まで日本を導いた人になります。

星野直樹は、日本の大蔵省から満州国建国にともない転身し満州国の財政経済のトップとなった人です。東条内閣の時には内閣書記長官に起用され東条英機の側近として君臨していたようです。ただ、何をした方なのかはよくわかりません。満州国で、明治政府の井上馨のようなポジションだったのではないかと、勝手に想像しています。

鮎川義介は、明治政府の元勲、井上馨の甥で、日産コンツェルンの創始者です。「日産自動車」や「日立製作所」など我々の生活に馴染み深い商品やサービスを提供してくれている会社をつくった人になります。映画「人間と戦争」では、五代産業としてかなりあくどく描かれていましたが、職工として機械、鍛造、板金、組み立て、鋳物を身をもって学んだそうで、日本のモノづくり精神を築いた人と言われてます。

岸信介は、元首相の佐藤栄作のお兄さんで安倍晋三のお祖父さん。星野直樹や鮎川義介、板垣征四郎などと一緒に「満州産業開発五ヵ年計画」を手掛けたひとりです。満州国では官僚として実力を発揮し産業界を牛耳るほどの実力だったと言われています。自分のお祖父ちゃんは満州国で大豆の研究をしながら役人として働いていたと聞いているので、国務院実業部に所属し官僚として岸信介を支えていたかもしれません。

松岡洋右は、国連脱退宣言をした人として有名ですね。しかし、満州鉄道の総裁をしていたとは知りませんでした。国際連盟は、満州国建設の実態調査をするために、日本、満州国、中国にリットン調査団を派遣して妥協案を提案してくれましたが、日本軍の満州国撤退勧告を四十二対一で採決され、全権大使の松岡洋右は長い巻紙を読みだし「さよなら」と言って国連を脱退しました。


李香蘭リー・シャンラン
芸能関係で活躍した人についても紹介しようと思います。有名なのは、李香蘭。この方、中国名ですが、生粋の日本人です。1920年(大正九年)に佐賀県と福岡県出身の両親の間に奉天で生まれました。戸籍名は大鷹淑子おおたかよしこさん。ご両親は、日露戦争後、満州地方に移民され南満州鉄道で中国語を教えていたそうです。瀋陽しんよう銀行の頭取と仲が良くて、義理の娘分となり李香蘭の中国名を得たそうです。

1939年(昭和十九年)に岸信介の後援をうけた、甘粕正彦あまかすまさひこという「甘粕事件」を起こした人が、満州映画理事長に就任すると、中国語と日本語を話せる李香蘭を中国スターとして娯楽映画を製作したそうです。

李香蘭は、日本の敗戦後、中華民国政府から祖国反逆者の罪で軍事裁判にかけられ死刑を宣告されていましたが、日本国籍であるということが証明され国外追放となりました。日本に帰国後は山口淑子と名乗り、ワイドショーなどに出演し活躍をしました。


川島芳子かわしまよしこ
ものすごい数奇な人生を辿った方だなと思う人です。簡単にまとめると本名は、愛新覚羅顯㺭あいしんかくらけんし清国の皇族・王女です。日本人の大陸浪人、川島浪速の養女となると裏の世界で暗躍していきます。

川島芳子は、1932年(昭和七年)満州国建国の目を欧米からそむけるために板垣征四郎が謀略した、上海事件のキッカケをつくったスパイだと言われています。まあ、確かに愛新覚羅一族が皇族に返り咲くことができるのであれば、関東軍に肩入れする動機はありますが、当時、板垣征四郎から日中両軍の衝突の謀略を指示された、日本陸軍・田中少佐とお付き合いしていたというのも理由のひとつのようです。

どのような工作をしたかというと、満州事変が起きると中国各地で抗日運動が盛んになりました。とくに、上海にある三友実業社の従業員は、共産主義の影響が強く抗日義勇軍の拠点とみられていた会社だったそうです。そこに目をつけた田中少佐は、川島芳子を通じて三友実業の従業員たちに金を渡し、日本人僧侶を襲うように依頼。日本人の日蓮僧と信者5名が襲われました。

すると今度は、大陸浪人と呼ばれている光村芳蔵ら青年同志会に川島芳子は金を渡し報復させます。義勇軍は32名。拳銃や日本刀で武装し、三友実業社を放火したそうです。その後は、政治家が登場して日本側は僧侶殺害に関し、謝罪や犯人の逮捕、反日組織の解散などを要求するとともに、約1000人の軍人を派遣。1週間後には軍事衝突に発展したといいます。

他にも川島芳子は、関東軍が熱河省に進出する際には、安国軍あんこくぐんの総司令に就任したり、李香蘭リー・シャンランを妹分のように可愛がったりと、関東軍や満州国のために働きますが、1945年の敗戦後、中国軍に捕まり、反逆罪で死刑になったと言われたいます。しかし、数十年後、川島芳子の娘といわれる人がメディアに登場し生存説が話題になりました。

満州国に関わり演出した人は、もっともっとたくさんいます。満州鉄道の初代総裁・後藤新平やこの時代の首相・田中儀一や幣原喜重郎。満州国の総理大臣・張景恵ちょうけいけい。大陸浪人とよばれる政治活動家や現地で活躍した軍人さんも多数いますので、このあたりにしておきますが、少なくとも現代の自分たちとは全く違う価値観をもっていたということは確かです。そのことを、我々現代を生きる日本人は大切に考える必要があるなと思いました。

まったくもって関係のない話ですが、自分はコンタクトを処方してもらうために、東京大井町にある「アイクリニック大井町」に通っています。通勤途中にある眼科を何気なく利用していたのですが、病院の女性院長さんは、愛新覚羅維あいしんかくらいさんです。ファミリーヒストリーを通じて大清帝国や満州国について学び、皇帝一族について知ったので、こころよいご縁を感じています。


34)隠された歴史_大陸浪人と大東亜共栄圏

たしかに、自分が学んできた敗戦教育のなかで、ときおり「アジア人を開放する戦争だった」とか「大アジア主義」「大東亜共栄圏」という言葉を聞いたことがあります。しかし、聞き流されるというか「日本が悪い事をしたから原爆を落とされた。戦争は悲惨だ」ということを強烈にすり込まれてきたので真に受けて学んだことがありません。

友人の山根さんは、九州地方を中心に活動している方なので、福岡で会うたびに隠された歴史「玄洋社げんようしゃ」や文官で唯一「平和の罪」で裁かれた広田弘毅元首相の話しをしてくれました。それでも正直わからない。調べてみると「右翼団体」という言葉が検索されるほどなので、装甲車やDQNの恐ろしいイメージが先行して膨らんでしまいます。

しかし、今回は、ファミリーヒストリーを通じて近代史を調べるとようやく理解が深まってきました。明治維新から始まり、日本政府や関東軍が武力拡大の大義名分に利用した「大東亜共栄圏」。大陸浪人と呼ばれていた政治運動家たちが、本来掲げていた理想とはなんだったのか自分なりに理解したことをまとめてみます。


■アジア人のアジア領土
板垣退助の影響で自由民権運動に参加した頭山満とうやまみつるは、「大アジア主義」を掲げて日本や朝鮮、満州国で政治運動をした大陸浪人の黒幕と呼ばれる人です。右翼団体の先駆けとも呼ばれているので、なんとなく恐ろしい匂いがプンプンしますが、その歴史をしらべてみると、どうも、明治維新からはじまっているようです。

明治新政府は、欧米列強に肩を並べるために近代国家を目指すべく、様々な政策をうちだしますが冷遇をうける人たちがいました。それは、武士です。

例えば全国の藩が所有していた土地と人民を天皇に返還させた「版籍奉還はんせきほうかん」や「廃藩置県はいはんちけん」。米ではなく土地に税金をかける「地租改正ちそかいせい」さらには「廃刀令はいとうれい」により、武士たちの不満が溜まっていきます。そりゃあそうです。倒幕を果たすために命をかけて戊辰戦争に臨んだのに、身分を奪われ、給料も払ってくれない、最後には武士の魂である刀まで奪われてしまったのですから。

そこで、明治維新の立役者、武士たちのリーダーである西郷隆盛が朝鮮への侵略政策「征韓論せいかんろん」を唱え、武士たちの不満を国外にむけるように画策しました。結果的には、武士たちの不満を抑えきれず明治新政府と対立する「西南戦争」へと発展してしまいます。武士と近代国家の戦いは西郷隆盛の死と、その後の大久保利通の暗殺で幕を閉じたように表面的にはみえています。

しかし不平武士と呼ばれた人たちは、武士道の志をもった日本を取り戻すべく諦めていませんでした。すると国を開いた日本に世界の情報が入ってきます。そこには、欧米列強に侵略させられている大清帝国やインドをはじめとしたアジアの人々。日本も不平等条約を結ばれていますから、ある意味アメリカやイギリスに侵略されていたと言っても過言ではありません。そこで、「アジア諸国が平等に助け合い団結することで、欧米勢力をアジアから追放しよう」という理想を掲げるようになるわけです。

しかし、現実的には欧米列強に肩を並べ国際社会の地位を向上させる方が先決です。正しいかどうかわかりませんが、簡単にいうと、お金や軍備・会社や工場などのインフラなどがまだまだ整っていなかったというところでしょうか。道義的に「アジアの人々と協力しよう」と考える理想主義と「軍事拡大をして欧米列強のように優位にたつべきだ」という現実主義の議論が生まれるわけです。大陸浪人たちは前者の「大アジア主義」を唱えた運動家ということです。

頭山満は、福岡藩を中心に自由民権運動を目的にした「玄洋社げんようしゃ」という活動団体をつくり、朝鮮のクーデター甲申政変こうしんせいへんを企てた金玉均きむおっきゅんに金銭の支援などをしました。また、大清帝国で革命を起こした孫文そんぶんとは旧知の仲。辛亥革命しんがいかくめいが成功したときには、犬養毅とともに苦労を労ったそうです。

更には、アジア諸国の独立支援を中国や朝鮮にとどまらず、インド、フィリピン、ベトナム、エチオピアなどでの活動も広めていき、海外の活動組織名を「黒龍会こくりゅうかい」と名乗りました。白人を追い出す日露戦争には賛成。朝鮮の併合は反対。満州事変も不賛成。日中戦争に対しては、心から憤っていたそうです。

この「大アジア主義」がやがて「大東亜共栄圏」という言葉に変わり、日本政府や関東軍が都合よく満州事変や日中戦争の大義名分に変え、「五族協和ごぞくきょうわ」や「王道楽土おうどうらくど」「八紘一宇はっこういちう」というスローガンを打ち出したことになります。

アジア主義の理想は素晴らしいです。日本人だからこそ生まれた思想だと思いました。「弱きものを助ける」武士道の精神です。それだけ、欧米列強の白人たちはアジア人から命や領土、お金や文化など様々なものを奪い取っていったのでしょう。現代の価値観ではなかなか理解しにくく想像することしかできませんが、アジア人で共に手をとり欧米列強に立ち向かおうと理想を描くのは武士のDNAがそのようにさせたのかもしれません。

でも、そうなると「日清戦争」自体が誤りのような気もします。あの時は、ロシアの南下政策に対抗するための自衛戦争だったわけですから。「大アジア主義」の理想があるのであれば、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシアを大清帝国と一緒に追い出す必要があったと思います。

しかし、欧米列強の武力や知識、資源に追い付かなければならないという現実問題もあり、やがて昭和恐慌という貧しさにも直面しました。石原莞爾や板垣征四郎が「アジア主義」の理想を追い求めるために、現実的に「武力を拡大する」という満州事変を起こしたのであれば、そこには大きな矛盾が生まれます。そして中国を日本の下にみている近衛首相が「大東亜共栄圏」を唱えるのは筋が全く通っていません。

王道楽土の王道(徳)は、「人を思いやり、人道的な義を通し、あらゆることに感謝する。本質を見極めるために知識を学び、忠義を通す。人を信頼し親や兄弟を尊敬する。」

そもそも、明治維新で武士道を衰退させてまでも日本は近代化の道を進んだのに、大和精神を他民族に唱えるのには無理があるなと思いました。それが、終戦の30年後に生まれ敗戦教育をうけながらも、戦争で母を亡くした父とのメールのをきっかけに、キレイごとしか知らない平和な時代に生きている45歳が学んだ、近代史の感想になります。


35)語られない日中戦争_蒙彊と張家口①

そもそも、自分たちは「第二次世界大戦」や「太平洋戦争」という戦争を学んできた。1941年12月8日に「真珠湾攻撃」をしかけて「ミッドウェー海戦」の敗北や「レイテ島の戦い」「インパール作戦」に「東京大空襲」「硫黄島の戦い」「沖縄戦」そして、広島と長崎に原爆を落とされました。

正直、学ぼうと思って学んだことは一度もありません。「火垂るの墓」や「男たちの大和」「永遠のゼロ」「硫黄島の手紙」。まあ、渋いところでいうと「トラトラトラ」の映画は何も考えず自然に手をとって観ていました。

自分が高校生になるくらいまでは、毎年、終戦記念日あたりに戦時中の特別ドラマが放映されていたし現代でもNHKの朝ドラでは、ちょくちょく戦時中の話になるので、そういう断片的な情報をあつめて、自分なりの戦争観になっています。

でも今回、学んでいるのは、太平洋戦争も含めた近代史でした。1853年 (嘉永六年)にペリー来航から1945年(昭和二十年)の終戦までの「100年戦争」について。とくに満州事変、上海事変、日中戦争(支那事変)、ノモンハン戦争(事件)についてはほとんど学んできませんでした。とても不思議だしこの時期の事を学ばなければ、東条英機が連合国との戦争を「大東亜戦争」と称した意味も理解できません。

なかでも、お祖父ちゃんが働いていた「蒙古聯合自治政府もうこれんごうじちせいふ」については、ほとんど記録が残っていないのです。哈爾濱から張家口に移り、お祖母ちゃんは26歳の若さで亡くなっています。ファミリーヒストリーを語るには、この頃のことについてちゃんと知っておきたいです。


一夕会いっせきかい
日本陸軍内では、軍の人事や蒙満地方の今後の方針について若手将校が話し合う会合「一夕会いっせきかい」がもうけられていました。

会員は有名な人でいうと、張作霖爆殺事件ちょうさくりんばくさつじけんを実行した、河本大作こうもとだいさくや、統制派の中心人物で「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と呼ばれた永田鉄山ながたてつざん。「皇道派」の中心人物・小畑敏四郎おばたとしろう。満州事変を謀略した板垣征四郎いたがきせいしろう。太平洋戦争を導いた東条英機とうじょうひでき。「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文やましたともゆき。「世界最終戦論」を発表した石原莞爾いしはらかんじ。日中戦争発端の「盧溝橋事件ろこうきょうじけん」で独断命令を下し、その後インパール作戦を指揮した牟田口廉也むたぐちれんや、中国共産党から国民政府軍や台湾を守った根本博ねもとひろしなど、日本の命運を導いた人たちがあつまり、蒙満問題もうまんもんだいについて話し合いをしていたそうです。

しかし、この「一夕会」のメンバー内で「皇道派」と「統制派」にわかれて対立がおきます。「皇道派」は、天皇の下で国家改造を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向する。「統制派」は、軍中央の一元統制、すなわち日本国民全員が一致団結して国家改造を図る計画。「対支一撃論」を推し進めていました。

徐々に影響力を強める「統制派」に対して「皇道派」は二・二六事件を起こしてしまいチカラを失ってしまいます。すると陸軍中央部は「統制派」が仕切るようになり、蒋介石しょうかいせき率いる国民政府軍に対して「強力な一撃を加えよう」という「支那一撃論」が軍部内で、いや日本国民にも浸透していきました。また、南京なんきんに同じ思想をもつ汪兆銘おうちょうめい政権、日本の傀儡政権をつくり「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」を唱えるようになったのです。


■日中戦争に至るまで
日中戦争が起こるまでの経緯を、もういちど簡単に振り返ってみようと思います。1905年(明治三十八年)日露戦争に勝利した日本は、南満州鉄道の権益を獲得し主要駅のある街を事実上、日本の領土として開発をしました。

1911年(明治四十四年)辛亥革命しんがいかくめいが起こり、大清帝国が滅亡し中華民国が建国されますが、軍閥の覇権争いが発生します。軍閥は、おおきくわけて孫文そんぶんの広東軍、蒋介石しょうかいせきの国民政府軍、毛沢東もうたくとうの共産党軍、張作霖ちょうさくりんの東北軍が影響力をもつようになりました。

1928年(昭和三年)遼東半島から北東にある哈爾濱あたりまでの東北地方を制していたのは、軍閥・張作霖ちょうさくりんでした。張作霖は関東軍と蜜月関係でしたが、やがて、いうことをきかなくなってきます。そこで「一夕会」に属していた河本大作が首謀し張作霖を爆殺します。「張作霖爆殺事件」です。張作霖亡き後は、息子の張学良が東北軍を率いることになります。

今度は、1931年(昭和六年)に板垣征四郎と石原莞爾が「柳条湖事件」を起こします。方法は、南満州鉄道の線路を自作自演で爆破し「張学良軍の犯行」として、東北軍を攻撃する理由を無理やりつくったのです。「満州事変」の勃発です。この、柳条湖事件の場所は、「奉天ほうてん」から7キロほどの場所ということなので、現代でいうと、北朝鮮の国境から300キロほど北に離れた場所で起きた事件になります。

当時、張学良率いる東北軍は45万人。一方関東軍は1万人だったため、板垣征四郎と石原莞爾は朝鮮軍に増援を頼みます。朝鮮軍の司令官・林銑十郎長官は、それに応じて奉勅命令ほうちょくめいれい(天皇の命令)のないまま独断越境をし関東軍に援軍をおくりました。

それをみた、日本政府は追加予算を承認し事実上、満州事変を認めました。日本軍は、奉天を攻略すると次々と、中国東北地方の主要都市を攻略していきます。途中、欧米の目をそむくために上海事変を起こしますが、1932年(昭和七年)には満州国建国を宣言させることに成功します。

1933年(昭和八年)には、中国熱河省、河北省に軍事侵略をはじめ、ちょうど、黄海湾のまん中あたりが満州国と中国の国境になりました。中国側は北京と天津あたりが国境になります。その後、塘沽協定タンクーきょうていにより中国軍と日本軍は停戦協定を結び満州事変が終息しました。

そして、1937年(昭和十二年)に日中戦争が起きます。お祖父ちゃんが働いていた蒙古聯合自治政府もうこれんごうじちせいふができるのは、1939年(昭和十四年)ですので日中戦争の戦略的地域として領土化したと考えてよさそうです。場所は、ちょうど中華民国と満州国の国境地帯、熱河省の北に位置していますので、日中戦争の緩衝地帯かんしょうちたいとして、モンゴル政府を巻き込んだ傀儡政権かいらいせいけんをつくったのでしょう。

モンゴルは、ソ連に侵略され迫害を受けていたわけですから、たしかに、欧米列強からのアジア人の解放ともみえますが、徐々に中国領土を侵食しているので日本の侵略戦争ともいえるわけです。ここにも「大アジア主義」の理想論と「欧米列強に肩を並べる軍拡主義」である現実論の乖離がみえてきます。


36)語られない日中戦争_蒙彊と張家口②

よくよく学んでいくと、自分の戦争観は、太平洋戦争と日中戦争がごちゃ混ぜになっているということがわかってきました。というか、やはり太平洋戦争の印象しか残っていません。物事の本質を学ぶことをしてこなかった。いや、意図的に隠されてきたのではないでしょうか。

自分なりに過去の「100年戦争」を、もう一度整理してみるとポイントは三点だとおもいます。

一点目:欧米列強国が大清帝国はじめアジア諸国を侵略し植民地にした。
二点目:大清帝国が崩壊し中華民国が建国されたが、東北軍、共産党軍、国民政府軍の覇権争いが発生した。                              三点目:日本国民の熱狂。大アジア主義の理想を掲げ欧米列強国をアジアから追い出そうという風潮となった。そして、日本政府・陸軍がその思想を利用した。

日本は、日露戦争に勝利をしたことで、南満州鉄道の権益を得ることができましたが、世界では大戦が起きてアジア諸国は欧米列強の植民地化が進んでいきました。大清帝国は滅亡し軍閥の覇権争いが激化しましたが、満州地方に勢力をもっていた軍閥・東北軍を日本軍が追いやり、再び大清帝国時代のように満州人による国をつくろうと考えた。それが満州事変というところでしょうか。

その後、1932年(昭和七年)に満州国が建国されて、1933年(昭和八年)に熱河省まで侵略。そして、1937年(昭和十二年)に日中戦争が勃発して1945年(昭和二十年)の終戦まで戦いは続いた。

でも、現代の中華人民共和国は1931年(昭和六年)の「柳条湖事件」(満州事変)から、1945年(昭和二十年)までの期間を日中戦争と定めているので、このあたりからすでに中華人民共和国と日本の歴史観にズレが生じています。「勝てば官軍負ければ賊軍」か。それでも、日本の言い分ぐらい知る権利はあるでしょう。


■欧米列強のアジア侵略

振り返ってみると欧米列強のアジア侵略はすさまじいものがあります。日本もアメリカに恫喝され、不平等条約を結びましたが、明治維新後なんとか近代国家となり欧米列強に骨の髄まで吸い取られずにすみました。しかし、「大アジア主義」を唱えたくなる気持ちもわからないでもないです。

【欧米列強の植民地】
■ イギリスの植民地:インド、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、清国
■フランスの植民地:ベトナム、カンボジア、ラオス、清国
■アメリカの植民地:清国
■ドイツの植民地:清国 
■オランダの植民地:インドネシア
■ポルトガルの植民地:インドネシア
■ソ連の植民地:モンゴル
■スペインの植民地:フィリピン

■中華民国の内乱
大清帝国が滅亡して様々な馬賊や軍閥が群雄割拠していましたが、チカラをもったのは、蒋介石の国民政府軍、張作霖・張学良の東北軍、毛沢東の共産党軍でした。張学良の東北軍は、関東軍の謀略により満州国から追いやられると蒋介石の国民政府軍に加わることになります。

すると共産党の毛沢東は、「抗日民族統一戦線」を結成して、みんなで一緒に日本を追い出すべきだと唱えだします。共産党の敵である国民政府軍と日本軍を戦わせて互いに消耗させる作戦です。そこで、日本に恨みをもっていながらも国民政府軍に加入した張学良に目をつけ話を持ちかけました。張学良は、「中国にとっていいことだ」ということで、共産党軍との戦いを控えるようになりました。

その様子をみた蒋介石は、共産党軍の罠だと怒り狂い張学良軍が駐在している西安へ攻撃督促をしに行くのですが、逆に捕らえられてしまいます。これが「西安事件」です。共産党内では「蒋介石を銃殺するべき」などの話もあったそうですが、一緒に日本に対抗するべく手を組むことを約束させ蒋介石を解放したのでした。このときに、蒋介石は日中戦争へ突き進む覚悟を決めたということになります。


日中戦争勃発
日中戦争は1937年(昭和十二年)の「盧溝橋事件ろこうきょうじけん」がきっかけといわれています。内容は、中華民国の北京近隣にある盧溝橋で日本軍と中国軍の間でおきた衝突事件になります。この事件をきっかけに中国革命軍との全面戦争に発展していきました。

まず、そもそもなんですが、なぜ中華民国に日本軍が駐屯していたのでしょうか。これは、時代をさかのぼりますが、1900年(明治三十三年)に起きた「義和団事件ぎわだんじけん」からの流れです。欧米列強に侵略された清帝国の国民が外国人たちを追い出す運動です。これが義和団事件。さらにそのながれで、清国政府も呼応し列国に対し宣戦布告「北清事変ほくしんじへん」が勃発しましたが、日本・ロシア・ドイツ・イギリス・アメリカ・フランスなど8ヵ国が鎮圧しました。

多国籍軍は講和条約に基づき、ただちに撤兵することになりましたが、この講和条約のなかに、在留外国人を守るために軍隊を駐兵してもよいという条項がありました。これは、日本だけではありません。イギリスやフランス、アメリカなども同じ理由で軍を駐屯していたというわけです。

その日本駐屯軍と中国軍の間でイザコザが起こるわけです。日本軍は盧溝橋で夜間演習をしていました。夜22時頃だそうです。そこに、中国軍側から数発の実弾が撃ち込まれました。このとき点呼をすると、一人の兵士が見当たらず、行方不明となります。軍部全員で一人の行方不明者をさがすのですが、何てことありません。この人は、一人立小便をしていたらしいです。

隊列に戻ると、みんなが行方不明者を探している。当の本人も一緒に行方不明者を探していたらしいです。そんな、コントみたいなことをやっていると、午前三時ごろ、再び中国軍から実弾が撃ち込まれてきました。

そこで、牟田口廉也むたぐりれんや大佐、この人も「一夕会」のメンバーでしたが「皇道派」だったため、軍中央部から左遷させられ中国の地にいました。この牟田口大佐が、「撃ち返せ!」と独断命令をして「盧溝橋事件ろこうきょうじけん」が勃発したのです。

実は、「盧溝橋事件」勃発の真意は未だに解明されていないそうです。スターリンが、中国共産党の劉少奇りゅうしょうきが部下を使って起こした事件ともいわれていますし、抗日大学生が両軍に爆竹を鳴らしたとか、関東軍の謀略だの色んな噂があるようですが、「西安事件」で共産党軍と国民政府軍が日本軍を追い出そうと手を結んでいるわけですから、遅かれ早かれなるようになった事件ということです。

でも、この「盧溝橋事件」が勃発してことで、自分のお祖父ちゃんは、蒙古連合自治政府もうこれんごうじちせいふへ転勤し、まもなくお祖母ちゃんが死んでしまうわけですから我が家の運命が変わった事件ということになります。


37)語られない日中戦争_蒙彊と張家口③

日中戦争が起きた1937年(昭和十二年)頃の日本人は、「中国人蔑視」をしていたようです。自分はというと戦争を全く経験していないのになぜだか知らないですが、中国や韓国・北朝鮮に良い感情をもっていません。何故なのでしょう。DNAがそうさせるのか、それともメディアがそうさせるのか。なんとなくの歴史観がそのように判断させるのか。とにかく、なんとなくですが、あまりよく思っていません。

調べてみると、昔の人も同じような感覚だったようです。「中国人は個人本位の国民で愛国心がない」「不潔の都会、虚偽の人民」。「支那には家ありて国なく、支那人には孝ありて忠なし」と批判している日本人もいたようです。

たしかに、中国には、嘘をつくイメージがあったりもします。過去に食品偽装問題や、今回のコロナ禍でマスクが粗悪品だのワクチンだって効くか効かないかわからないものをつくっている等の風潮もあります。自分は、すくなくとも、スーパーにならんでいる中国産の食材は買わないわけです。日本製は「高くて安心」で中国製は「安くて心配」ブランドイメージなのか、日本人が求めるクオリティの価値観と乖離があるのかわかりませんが、そんな感じです。

しかし、中国は儒教の国です。日本は、中国に憧れ多くの事を中国から学んできました。王道楽土の「徳」を説いたのは孔子の思想ですし、このような感情になるのはなぜなのでしょう。

色々と調べると国民性の違いに、「利己的」と「利他的」の違いを訴えている文章などもありましたので、ようは、今も昔も日本人は武士の精神をもっている人が好きなんでしょうか。

個人的に大清帝国は、多民族国家であるということ。欧米に侵略されたということ、人口が多いこと。阿片による民度の低下、食糧難、貧乏が故のような気もします。「金持ち喧嘩せず」「貧すれば鈍する」ということわざがあるように、多くの国民が「利己的」に物事を考えなければ生きていけなかったのかもしれません。事実、自分のブルジョア中国人の友人はとても思いやりがありやさしいです。

しかし、数十年前の日本人は「王道楽土」「大東亜共栄圏」と理想を掲げながらも価値観を強要して押し付けたわけです。それに多くの人が反発し抗日運動が盛んになりました。しかし2021年の東京オリンピックでは多様性を受け入れようと日本は世界に発信しました。人それぞれ容姿も違えば、文化や先祖、大切にしている考え方もちがうけど認め合いましょう。ということです。

アプローチの手法をかえたのは、時代が経ち法や仕組みが整っているからでしょうか。資本主義が定着して、貧乏人の不満を発散させるため金持たちの防衛手段なのでしょうか。人類の人格が成長したのかもしれません。自分には、よくわかりませんが、個々人が人に迷惑をかけずに好きなことをして、心豊かな人生をおくれるのであれば、それは、それでよいです。自分は、中国産の食材は買わないくせに、美味しい中華料理は食べたいわけです。人間なんてそんなもんです。


■蒙古連合自治政府

蒋介石が共産党軍に捕らえられると、共産党軍は、労働者・農民・中階級・民族資本家などが一致団結して日本帝国主義の侵略に対抗しようというものが提唱されました。それまで、蒋介石の国民政府軍は、共産党軍をなによりも敵視していましたが、矛先を日本に向けてしまうわけです。この方針が決まってからの蒋介石の覚悟、本気度はすさまじいものがありました。

実は、盧溝橋事件は勃発してから4日後には、停戦協定が結ばれました。近衛内閣も「不拡大方針」を閣議決定しています。しかし、これを許さなかったのが、共産党軍の毛沢東です。全面抗戦を呼びかけ、国民政府軍の蒋介石の重い腰をあげさせて日本帝国に武力行使を行うという方針を決めました。

まず中国軍は、北京と天津の電線を切り通信ができないようにして日本軍を襲撃します。挑発にのった日本軍はすぐにやり返し敵陣を占領して、中国側に軍隊を撤退するよう最後通告をするのですが、中国軍は応じません。日本軍は、民間人に被害がでないよう、上空からビラを撒いてから北京に総攻撃を開始します。やられたらやり返す的な、倍返しですね。

すると決定的な事件が起きます。日本はこの頃、中華民国と満州国の国境緩衝地帯として河北省に冀東防共自治政府きとうぼうきょうじちせいふという傀儡政権をつくっていたのですが、この自治政府の中国人保安部隊が天津の在留邦人や軍人を虐殺して中華民国に寝返るという「通州事件つうしゅうじけん」が発生したのです。この事件をきっかけに暴支膺懲ぼうしようちょうと、「暴虐な支那人を懲らしめる」という言葉が、軍部や日本国民のあいだで合言葉になったそうです。

その後、やられたらやり返す的な発想で、天津を制圧した日本軍は、冀東防共自治政府きとうぼうきょうじちせいふのあった河北省に進軍することを考えましたが、多くの中国軍が集結していたために、すぐ隣の察哈爾省ちゃはるしょう、現在の内モンゴル自治区を攻略し蒙古連合自治政府もうこれんごうじちせいふを建国し中国軍との衝突に備えることにしました。

この出来事は、1937年(昭和十二年)の話ですから、まだ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、満州国の哈爾濱はるぴんで生活をしていた頃になります。3年後の1940(昭和十五年)年9月に蒙古連合自治政府で働くために張家口へ引越すと、お祖母ちゃんと赤ちゃんは2ヶ月後に亡くなってしまいました。お父さんの妹、自分の叔母さんは生後4日。お祖母ちゃんは26歳の若さで天命を全うしたのです。


38)語られない日中戦争_蒙彊と張家口④

日中戦争については、調べれば調べるほど知らないことがでてきます。日本は、敗戦国だから、世界の見解というか、連合国の都合の良い情報しか学べなかったのでしょうか。もしくは、日本の都合の悪い出来事に蓋をしたかったのでしょか。たしかに再び武士道を炎上させて革命が起きたらたまりません。平和が一番です。

アメリカの資本主義では、全員が金持ちになることはできませんが、貧乏人のストレスをうまく吐き出しながら、一人ひとりが「足るを知る」ということに気づきながらも心豊かな人生が送れるならそれが一番いいです。

でも、現代社会のストレスはかなり溜まってきてしまっています。まじめで優しい人から精神を病んでしまうのであれば、行き過ぎた資本主義だけではもたないのかもしれません。もう少し目に見えない精神を大切にする言動や行動が身近に存在する社会になったらそれは素晴らしいことだと思います。

もともとの日本の戦争は、そんな未来との戦争だったのかもしれません。大日本帝国ではなく、小日本帝国を目指して日本らしい文化を大切にすることができたら日本人は、いまよりも自信を持って心を大切にする人生をおくれたかもしれない。徳川家康の遺訓「及ばざるは過ぎたるに勝れり」が正しい生き方なのかな。


■泥沼の日中戦争

盧溝橋事件ろこうきょうじけん」が起きてから1ヶ月。ついに中国と日本は全面戦争に突入します。全面戦争のきっかけは、上海でした。上海の非武装地帯に保安隊の制服を着せた中国正規軍が武器を秘密裏に持ち込み、上海日本人租界区域を包囲し攻撃を始めました。上海には、アメリカやイギリス、フランスなどの租界地もあったので、外国人を含む多くの民間人が被害にあいました。

更には、日本軍に通じる漢人を4000人を殺戮する「漢奸狩りかんかんがり」や日本軍人を30発以上の銃撃を受けたあと、顔をつぶし、胴体に穴をあけるなどして殺害するなどの虐殺行為に、近衛内閣は「もはや隠忍いんにんその限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲ようちょうし、南京政府の反省を促す」と声明を発表したわけです。その後日本は、南昌なんしょう南京なんきん広徳こうとく杭州こうしゅうへの爆撃を開始するなど本格的な戦いになりました。全ては、ソ連と共産党の思惑通りに事が進んだということです。

この一連の流れは、当時のアメリカも「上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と擁護しました。とはいえ、日本は人の土地で無差別に爆撃行為を続けていますので、国際連盟は日本空爆への非難決議をします。

しかし、ここで日本軍に追い風が吹きます。ローマ法王が全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけます。「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出しました。ここにイタリアとの軍事同盟の理由があったんですね。初めて知りました。こんなこと、いままで誰も教えてくれませんでした。

激戦地である上海を日本が攻略したあと、和平工作を開始します。1937年(昭和十二年)11月に蒙古連合自治政府もうこれんごうじちせいふを樹立し、冀東防共自治政府きとうぼうきょうじちせいふがあった場所・華北と上海を「非武装中立地帯」として「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」とドイツ大使を通じて蒋介石に話を通しましたが受理されませんでした。

それでもドイツ大使は粘りに粘って交渉を重ねると、蒋介石は「日本案を受け入れる準備がある」と語ります。和平交渉がまとまりかけたのです。しかし今度は、近衛首相が「賠償金をよこせ」とひっくり返してしまい、日中和平交渉は決裂してしまいました。このときが日本の不幸の結末を避ける最後の機会だったと思います。

その後、日本は、南京を攻撃します。これが、いまでも政治問題になっている「南京事件」です。被害者人数はわかりませんが、日本軍もひどい虐殺をしました。そして、華北、徐州、漢口、広東とどんどん攻略していきます。そして、近衛首相の「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」の声明を発表するわけです。これで、いままで中立を保っていたアメリカやイギリスもついに日本を非難するようになったわけです。そりゃあ、そうなんです。「大アジア主義」の思想を政治の世界で矢面にして「アジアから欧米人を追い出す」と宣言したということになりますので。

アメリカ、イギリス、フランス、ソ連は、蒋介石を軍事支援するために「援蔣えんしょうルート」を使い軍事物資を輸送するようになります。そこから、中国軍は「日本軍が攻めたら逃げ、駐屯したら周りで騒ぎ、撤退したら自らが駐屯する」という作戦を徹底するようになります。なので、当時の日本軍の指揮官も「戦争をしているとは思えない」というような発言をするほどでした。

そんなときに「ノモンハン事件(戦争)」が起こるわけです。ソ連のスターリンがここらで日本に大打撃を与えようと画策したわけです。きっかけは「盧溝橋事件」と全く同じです。どっちが、撃った撃たないの小規模衝突から、悲惨な近代戦争へと発展していきました。

日中戦争は、局地戦でかつヒットアンドアウェーの中国軍と戦っていましたが、ソ連との闘いは最新鋭の戦車やガトリング砲で攻撃されました。対する日本は、40年前の日露戦争時代につかった旧式の銃と火炎瓶で対抗するという、日本のお家芸「精神攻撃」で戦いました。死者数こそ日本軍の方が少なかったそうですが、国境線線を確保し戦争目的を達成させたのはソ連軍でした。

それから、第二次世界大戦に突入するというわけです。日本は、日独伊三国同盟を結び枢軸国すうじつこくとして連合軍と闘うことになります。「真珠湾攻撃」や「ミッドウェー海戦」などは、太平洋戦争。「ビルマ攻略」や「インパール作戦」は日中戦争で「援蔣えんしょうルート」を遮断することが目的の戦いということになります。

こうやって学ぶと、ソ連のスターリンや共産党軍の毛沢東の掌の上で国民政府軍の蒋介石との戦い日本は敗れたのだということがよくわかります。しかし、日中戦争はどう考えても日本に非があります。それは、敗戦したということ。挑発にのって人の領土で暴れまくったということ。大義も理屈が通りません。「大東亜共栄圏」や「共産主義との闘い」が戦争理由なのであれば、国民政府軍と手を結ぶ必要がありました。

もちろん、この戦いをきっかけにアジアの国々が欧米列強から解放されたという事実はあります。しかし現代では、東南アジアの港を中国共産党が資金提供して100年の租借権を得たりしているわけです。まるで、大清帝国時代の思想と、列強欧米や大日本帝国が他国の領土を得たときのように。どうか、同じ過ちが繰り返されませんように。


39)義を失ったノモンハン戦争

1932年(昭和七年)に「五族協和の王道楽土」という理念のもと成立した満州国は、日本国(朝鮮)、中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府と国境を接する緩衝国として「日・韓・満・蒙・漢」の五民族が協調して暮らせる国を目指す「理想国家」でしたが、実際には、日本の「傀儡国家」だったともいわれています。

そんな満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生したのが「ノモンハン戦争」です。日中戦争のさなか、1939年(昭和十四年)5月から9月にかけて、日本・満州軍とソ連・モンゴル軍が戦いました。それは、日本が日露戦争以降、初めて経験した近代戦争となりました。ちなみに中国やモンゴル、ソ連では係争地となった地名から「ハルハ河戦争」と称しているそうです。

ノモンハン戦争は、互いに宣戦布告をしていないことを理由に国境侵犯で生じた局地戦のひとつとしたことで「ノモハン事件」と称していますが、実際は、第二次日露戦争といっても過言ではありません。この敗戦で日本の戦争に対する「精神主義」が露呈し悲惨な戦いにつながっていきました。


■ノモンハン戦争
ソ連の傀儡政権となったモンゴルと日本の傀儡国家、満州国の軍事境界線では、小競り合いが盛んに勃発していました。1937年(昭和十二年)に113回、1938年(昭和十三年)には166回もの国境紛争です。その理由は、そもそもソ連は満州国を認めていないということですね。ソ連は大清帝国と以前に話し合った箇所を国境と定めていたので満州国の主張と相違があったそうです。

また、ノモンハンの地域は、辺り一帯、砂漠と草原だったため国境管理はほぼ不可能。しかも、モンゴル遊牧民は、国境などという意識はなく、むかしから当たり前に行っていたように、ハルハ河を渡って家畜に牧草を食べさせます。するとハルハ河を国境と主張する日満軍が「国境侵犯だ!」といって揉るということが繰り返されていたようです。

そして、紛争地の国境防衛にあたっていた第23師団(25,000人ほど)とモンゴル軍で最初の衝突が起こります。第23師団は新設師団で兵士の練度に不安を抱えていたそうです。それだけ、日中戦争に兵隊を割いていたのですね。日中戦争勃発が1937年(昭和十二年)。国家総動員法が1938年(昭和十三年)。ノモンハン戦争が1939年(昭和十四年)ですから、すでにこのときからかなり無理をしていたと思います。

1939年(昭和十四年)5月13日に23師団から「ノモンハン地区で戦闘が発生した」と関東軍参謀の辻政信に電報が入ります。すると、関東軍は、飛行場大隊2個の航空部隊と自動車第1連隊の2個中隊が増援に向かい大規模な衝突に発展したそうです。この背景には、紛争が起こる1ヶ月前、関東軍の作戦参謀の辻政信が陸軍中央に許可なく「満ソ国境紛争処理要綱」を作成し全軍に通達していたそうです。内容は、国境線をしっかり確定させ、もし紛争が起こったら兵力の多寡に関係なく武力を行使して勝てというものです。

挑発にのった日本軍の行動をチャンスと捉えたのが、スターリンです。ドイツ・ヒットラーが隣国ポーランドに侵攻をはじめていたことを脅威に感じていたスターリンは、今後、ヨーロッパに注力するためには、いまのうちに、日本軍と満州軍を叩きのめしておこうと、最新鋭の戦車や銃砲、飛行機や潤沢な補給などをノモンハンに軍事力を集結させました。

一方の関東軍は、40年前の日露戦争時に使用した銃剣や砲弾と火炎瓶。自決用の手榴弾をもって、日本陸軍のお家芸である白兵突撃、肉弾戦で対抗したのです。銃を撃っても戦車には通用しません。戦車に飛び乗り、ツルハシでハッチを開け火炎瓶を操縦席に投げ込む。そのような戦いだったそうです。

4ヶ月ほど戦い9月になるとヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため停戦協定を結びます。ソ連・モンゴルが主張していた国境線までという協定内容です。両軍ともに多くの犠牲者がでましたが、軍事目的はソ連・モンゴル軍が達成させたということです。さらには、日中戦争への兵力を減少させて、列強欧米に日本の実力を広めてしまいました。

ノモンハン戦争で明らかになったのは、火力、銃兵器の差です。日露戦争のときは、イギリスの援助で軍備を増強することが出来ましたが、近代武器の技術や装備では大きく出遅れました。かと言って武器開発、武器配備などにはチカラをいれず、精神力の向上を唱えたのです。

全ては、スターリンの狙い通りでした。ノモンハンで日満軍を追いやるなか、密かにドイツ「独ソ不可侵条約」を結び、最高のタイミングで停戦させて戦力をヨーロッパに向けることに成功したのです。一方、関東軍では、部隊の全滅を避けるために「命令なくして撤退した」として酒井美喜雄大佐、井置栄一中佐、長谷部理叡はせべりえい大佐を命令違反者として自決させました。

長谷部理叡はせべりえいさんは、温厚誠実で部下に尊敬されていたと、どこかの記事でみたことがあります。同じ長谷部信連の末裔でしょうか。血は繋がっていなくとも同じ「氏」を守ってきた人です。そんな人が、責任をとらない軍司令官や参謀に自殺を強要されたと思うと、いたたまれない気持ちになります。

ちなみに、関東軍参謀・辻政信は、長谷部信連が関東御家人として能登大屋荘を賜り、温泉をみつけたという加賀市山中温泉の出身です。ご先祖さま同士で、なにかの因果があったのかもしれません。


40)満州国に設置された秘密部隊_731部隊と100部隊

日本人でも731部隊の存在は、敬遠したくなるほど恐ろしく、おぞましい研究部隊のイメージがあります。所説ありますが、同じ日本人が人体実験をしていたという事実です。しかも、もしかしたらですが、祖父が731部隊と同じ系列の100部隊に所属していたかもしれない。「知らぬが仏」ということわざもありますが、満州国の哈爾濱に住み、その後、蒙古連合自治政府で働くために張家口で働き、蒙彊家畜防疫處もうきょうかちくぼうえきどころの記事に「長谷部」の名が記載されているのをみつけてしまったので、調べないわけにはいきません。

パンドラの箱を開けるような、憂鬱な気分になる歴史ではありますが、戦争というものがどのようなものなのか。もしかしたら、ファミリーヒストリーにつながる可能性のあることなので、覚悟を決めて記してみようと思います。


■秘密部隊731部隊と100部隊
1930年(昭和五年)欧米出張から帰った石井四郎軍医は、細菌戦を準備する機関を設立するよう、陸軍省の幹部に説いて回っていたそうです。説得が功を奏し1932年(昭和七年)満州国が建国された年に、陸軍軍医学校防疫部に石井四郎ら軍医が属する「防疫研究室」が開設され、密かに人体実験が進められていました。

1936年(昭和十一年)になると、当時の関東軍参謀長・板垣征四郎によって「関東軍防疫部」が提案され、正式な部隊となります。このとき同時に関東軍軍馬防疫廠かんとうぐんぐんばぼうえきどころも編成されたそうです。

防疫というのは、伝染病を予防し、またその侵入を防ぐ機関です。現代では、コロナウイルスが世界の猛威となっていますが、「関東軍防疫部」は、コレラ、ペスト、梅毒、鼻疽びそ炭疽たんそ、チフス、赤痢せきり、流行性出血熱などなどの研究をしていたそうです。

「関東軍防疫部」では、細菌の研究だけではなく、1937年(昭和十二年)から始まった日中戦争や1939年(昭和十四年)のノモンハン戦争では、最前線での給水活動・衛生指導を実施し、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたそうです。

「関東軍防疫部」は、哈爾濱はるぴん市街の南東約15kmの平房へいほうに、本格的な設備を備えた施設を建設して、1938年(昭和十三年)から1939年(昭和十四年)にかけて移転しました。平房の本部は1941年(昭和十六年)に「満州第七三一部隊」と改称されました。また、「関東軍防疫給水部」とは別に、新京に「関東軍獣防疫廠」、通称「満州第一〇〇部隊」があり、ここでは軍馬や家畜に対する研究を担当し人体実験も行っていたといわれてます。


■人体実験と細菌研究
七三一部隊の主要施設では、高電圧電流が流れる有刺鉄線を張り巡らした土塀で囲まれ、外部から完全に遮断されていたそうです。中心になる建物は「ロ」の字型をしており、その内側に「マルタ」と呼ばれた被験者を閉じこめておく特設の監獄が設けられていました。

「マルタ」にされたのは、スパイや共産主義などの思想犯の疑いをかけられて捕まった、中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などが汽車で哈爾濱はるぴん駅へ護送され、擬装された列車やトラックで監獄へと送り込まれたそうです。こうして人体実験で殺害された人々の数は3,000人以上にのぼるといわれています。

七三一部隊での実験の結果は、逐一、軍医学校防疫研究室に送られていました。教授たちを集めて研究発表会を行ったり研究論文集を編集したりする一方、教授たちを通じて若手の優秀な研究者を七三一部隊に送っていたそうです。具体的にどのような人体実験をしていたかというと、「手術の練習台にする」「病気に感染させる」「病床実験をする」「極限状態における人体の変化を知る」などの事柄が報告会で発表されたそうです。

細菌戦の実績とすると、日中戦争やノモンハン戦争で、ペスト菌を持つネズミの血を吸わせた「ペストノミ」をまいたと言われています。


■人の道を外れた理由
同じ日本人が、なぜ、そのようなことができたのでしょう。そのことについても考える必要があります。まずは、これが「戦争」というものなのだと思います。

① 勝利のためには、どんな事をしても許される
「国益のため、天皇陛下のために戦い勝利する」ということが至上目的となり、そのためにはどんなことをしても許されたのだと思います。細菌兵器や前線で役に立つ治療法の研究開発は勝利のために正当化されていました。

②戦争が倫理的判断力を失わせる
中国や朝鮮への軍事的支配により、スパイや革命家、その協力者と疑われた中国人や朝鮮人の人々の拷問や虐待、殺害が日常的になっていたのでしょう。人体実験や生体解剖することに対する倫理的な判断力が失われていたと思われます。

➂民族差別や人種差別、思想差別に対する恐怖と憎悪
当時の日本人は、中国人や朝鮮人・モンゴル人は劣等な民族であり、同じ人間として扱わなくてもかまわないという「民族差別」が日本社会全体に蔓延していました。また、共産主義者に対する恐怖と憎悪の眼差しも向けられていたと言われています。

④どのみち殺される者の利用
スパイや革命家、あるいはその協力者という疑いをかけられて捕らえられた人々は、拷問を受けて、正式な裁判もないままに処刑されていました。すなわち「どのみち殺される」存在とされていたのです。そこで「どうせ死ぬのなら、お国のために役立って死ね」という論理によって人体実験などが正当化されていました。

⑤ 密室・秘密部隊
しかし、さすがに関係者は、人体実験や生体解剖に用いて殺すことは人道的にはかなり問題があると考えていたようです。少なくとも、そのことが国際社会に知れると、日本にとって非常にまずいことになる、だからこそ、それらの事実は「秘中の秘」とされ、関係者は固く口止めされ、敗戦時には徹底的に証拠隠滅されたのです。

■敗戦後の秘密部隊
1945年8月9日、ソ連が太平洋戦争に参戦して満州国へ攻め込んできました。この日から秘密部隊は、細菌兵器の開発や使用、および被験者虐殺の証拠を隠滅することに全力を傾けます。

七三一部隊ではまず、生き残っていた「マルタ」を全員殺害し、遺体を焼却して捨てました。実験を記録した書類やフィルムなども焼却されました。主要な施設は工兵隊によって爆破され、とくに「ロ」号棟や特設監獄は念入りに破壊されました。また、部隊員やその家族は、ソ連軍に捕らえられないよう、特別列車でいち早く帰国しました。そのおかげで、ソ連軍や中国軍の捕虜になった七三一部隊の幹部や部隊員はわずかしかいませんでした。

日本を占領したGHQは、ただちに石井機関の調査を始めました。しかし、それは戦犯告発のための調査ではなく、細菌兵器研究の成果についての調査でした。1942年(昭和十七年)に細菌兵器の研究開発に着手したばかりの米国にとって、石井機関の研究成果は国防上非常に重要なものとみなされたのです。当初、関係者たちは、固く口を閉じていたそうですが、「細菌兵器の研究成果を全面的に米国に提供すれば、戦犯には問わない」という取引が、米本国政府の承認の下に確定しました。

それにより、秘密部隊の中枢を担った軍医や、七三一部隊に派遣され「マルタ」を虐殺していた研究者たちの多くは、戦後まったく罪を問われることなく、大学などの研究機関や企業の要職に着きました。そして、全面的に協力した医学界も、その過去を隠蔽することに成功したというのが731部隊、100部隊の都市伝説となっています。

犯罪には、「動機」「機会」「自己正当化」という三つの因果が重なったときに人は犯罪を犯してしまうといわれています。「動機」は戦争。「機会」は秘密部隊。「自己正当化」は、命令に背いたら殺される。マルタはどうせ殺される。中国人や朝鮮人、モンゴル人は民族的に劣っている。というところでしょうか。本当であれば、相当苦しい仕事だったと思います。

「戦争」は、サバイバルゲームのようなものではない。もっと、もっとドロドロしています。国を存続させるために、領土や民族の未来をつなぐために、ありとあらゆる手を使って戦ったご先祖様たちがいるということです。

自分たちが見ているきれいごとの戦争映画では当時の様子をちゃんと伝えきれていないと思います。世界の秩序を守るためには戦争は悪なわけです。


41)ポツダム宣言と終戦の詔書

1945年8月15日。天皇陛下が「ポツダム宣言」を受諾し、大東亜戦争の無条件降伏を告げる「終戦の詔書しょうしょ」を朗読した「玉音放送」が放送されました。父の記憶によると、終戦時には岡山県新見市神郷町高瀬の実家にいたらしいです。

ファミリーヒストリーを基準に考えると、終戦時に祖父と祖母が過ごした「満州国」や「蒙古連合自治政府」がどのようになったか調べてみようと思いますが、まずは、「ポツダム宣言」と「終戦の詔書」がどのようなものだったのか、理解を深めたいと思います。

■ポツダム宣言
ポツダム宣言は、1945年(昭和二十年)7月にベルリンのポツダムで米・英・ソの首脳が、ドイツ降伏後のヨーロッパ政策が話し合われ、日本に対する宣言も協定されました。正しくは「米・英・中三国宣言」というそうでして、ソ連は、1945年8月9日の対日参戦後、宣言に賛同しました。

内容は、全部で13項目あります。

1.我々、アメリカ合衆国大統領、中華民国政府主席と英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表して協議した結果、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。

2.アメリカ、イギリス、そして中国の軍隊は、何度も増強を受けて巨大になっており、日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。この軍事力は、日本が抵抗をやめるまで戦争を遂行すると連合国は決意している。

3.世界中の自由な人民に指示されたこの軍事力行使は、ドイツ・ナチス軍に適用され完全に破壊したように、日本に対しても極めて明快な例として示されている。これは、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。

4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。

5.我々の条件は以下の通り。これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。

6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させたものを永久に除去する。無責任な軍国主義が世界からなくなるまでは、平和、安全、正義の新秩序も現れ得ないからである。

7.日本の戦争遂行能力が失われたことが証明できるまでは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は連合国軍がこれを占領するものとする。基本的目的の達成を担保するためである。

8.カイロ宣言の条項は履行されるべきものとし、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られるものとする。

9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。

10.我々の意志は日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障がいは排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。

11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。

12.日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。

13.我々は日本政府に対し日本軍の無条件降伏の宣言を要求する。またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。

結局は、アメリカとイギリス中心に世界が回っているということですね。アメリカ、イギリスが戦争を仕掛けて、日本は、武士道、正義感から「東アジアから列強欧米を追い出す」という大義を抱くも統制が効かなくなり、連合国に殲滅され日本が悪者にされた。そんな印象です。

7月26日に「ポツダム宣言」が発せられると、日本国内でもちろん大議論になります。当初、日本政府は黙殺、すなわち、無視する方針でしたが、8月6日の広島、8月9日の長崎への原爆投下、ソ連対日参戦などで追い詰められ、8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定し連合国側に通告。9月2日に降伏文書に調印しました。

ちなみに、ソ連が北海道の北方四島を不法占拠したのは、8月28日から9月5日までの間ですので、まあ、ひどい話なわけです。

8月15日正午、昭和天皇は、「終戦の詔書」を読み上げ、「玉音放送」が放送されました。現代語訳は以下の通りです。

■終戦の詔書:現代語訳
私は深く世界の大勢と日本の現状に鑑み、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。

私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連の4カ国に対しそのポツダム宣言を受諾することを通告させた。そもそも帝国臣民の安全を確保し世界の国々と共に栄え、喜びを共にすることは、天皇家の祖先から残された規範であり、私も深く心にとめ、そう努めてきた。

先に、米・英2カ国に宣戦を布告した理由もまた、帝国の自存と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。

しかしながら、戦闘状態はすでに4年を経て、わが陸海将兵の勇敢な戦闘や、官僚・公務員たちの励精、一億民衆の奉公は、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もわれわれにとって不利に働いている。

それだけでなく、敵は新たに残虐な原子爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害ははかり知れない。それでもなお交戦を継続すれば、ついにわが民族の滅亡を招くだけでなく、それから引き続いて人類文明をも破壊することになってしまうだろう。そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子ともいえる多くの国民を守り、皇祖皇宗の神霊に謝罪することができようか。これが私が政府に宣言に応じるようにさせた理由である。

私は帝国とともに終始、東亜の解放に協力してきた友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。帝国臣民であり、戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると内臓が引き裂かれる思いがする。さらに戦場で負傷し、戦禍に遭い、家や仕事を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。

思うに、今後、帝国の受けるであろう苦難は尋常ではない。あなたたち臣民の本心も私はよく知っている。しかし、私はこれからの運命について堪え難いことを堪え、忍び難いことを忍んで将来の万世のために太平の世を切り開こうと願っている。私は、ここにこうして国体を護持して、忠良なあなた方臣民の偽りのない心を信じ、常にあなた方臣民と共にある。

もし激情にかられてむやみに事をこじらせ、あるいは同胞同士が排斥し合って国家を混乱に陥らせて国家の方針を誤って世界から信用を失うようなことを私はもっとも戒めたい。国を挙げて一つの家族のように、子孫ともどもかたく神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操をかたく持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように期すべきだ。あなた方臣民は私のそのような意を体してほしい。

日本は、「万世一系」の皇統を何千年も続いている世界で最も古くから続いている王朝です。鎌倉時代から江戸末期まで武士が政権を握り、実態としても、明治、大正、昭和初期までも武士が統べていたわけですが、最後の最後に、天皇陛下が日本の進むべき将来を国民に示したわけです。


42)道しるべ

近代史は、隠されている事が多いのでだいぶボリュームが多くなってしまいました。ファミリーヒストリーには、まだまだ続きがありますが、今回は、このあたりで終いにしましょう。

自分のルーツを辿りご先祖さまを知るということは、「自分が何故生まれてきたのか」という問いに答えることができると思います。

少なくとも我々には、武士の血がながれています。ご先祖さまは、なんとか「氏」を守り「家」を繋いできてくれました。何千年ものあいだ続いたことで自分の命があるわけですから、ひとつの自信になりますね。

「自分が何のために生まれてきたのか」ということは、よくわかりません。

鎌倉時代に活躍したご先祖さまは、命懸けで朝廷に忠義を尽くしたことで権力を得ることができました。

戦国時代を生き抜いたご先祖さまは、なんとか「家」を残すために、一族総出で戦いましたが、やむなく敗れてしまい落人となりました。

帰農したご先祖さまは、お家再興を夢みながら、見渡す限りの山々や土地、武士の家訓を守り続けました。

近代史を生きたご先祖さまは、国と国が戦うという日本史上、一番苦しく困難な時代を過ごしました。全ては、日本民族、我々子孫のためです。

いまを生きてる自分は、平和です。

何百年も続いた相続争もご隠居さまが断ちきってくれました。いまでは、慎ましくも家庭を築きながらなんとか人生を足掻いてます。

では、生きていくうえで、何を目指したらいいのでしょう。

「我に七難八苦を与えたまえ」とご先祖さまは唱えましたが、困難や苦しみを知るとその分、人に優しくなれるということだと思います。

「義を明らかにして利を計らず」とご先祖さまは唱えましたが、大局をみて正義、人義を通せばお金はあとからついてくるということだと思います。

「及ばざるは過ぎたるに勝れり」と東照大権現さまは遺訓を残しましたが、何事も足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れているということです。

「怒りは敵と思え」これも東照大権現さまの遺訓ですが、数々の敗戦は挑発にのってしまったからです。怒りをコントロールできるようになったら、いいですね。

自分は、ご先祖さまたちのように、立派な人間ではないし、偏差値38の高校を卒業した落ちこぼれのロクデナシです。それでも、良縁に恵まれて心豊かな人生をおくっています。

これは、ご先祖さまたちが善い行いをして「徳」を積んでくれたからだと思います。本当にありがたいことです。だから、自分も子孫のために「徳」を積みたいと思います。

ただ、たまに、ロクデナシがでちゃって迷惑かけるかもしれないけど、そんな先祖でも、いなければ自分の命がなかったと割りきって、七難八苦を乗りこえてください。

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