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【162日目】弥右兵さん

ご隠居からのメール:【弥右兵さん】

日野厳島神社には長谷部家31代当主がおられるとはおそれいったね。長福寺といえば、上下町の新見氏の菩提寺も同じ名前の寺だった。ついでながら、新見市における新見藩関氏の菩提寺は西来寺。いずれにせよ、曹洞宗の寺だから厳島神社とは関係ないが、何らかの因縁があるのかもしれない。

わが家の6代目が友次郎さんで、

初代 馬之助(尼子の落人)
二代 弥右兵  
三代 與左衞門
四代 弥左衛門  
五代 喜代太郎(または喜代三郎)

という認識が、友次郎さんやその妻イシさんにあったということも知らなかった。もしそうだとすると、享保年間に亡くなって、傘のついたふたつの墓のご先祖たち二人が宙外に迷ってしまうが、一応、古墓地の御先祖はすべて初代に含めるとわりきったのかもしれない。

與左衞門さんの先代に弥右兵さんがいたということもいままで気がつかなかった。

>弥右兵さんの墓はなかったので、古墓地にあるのだろうか。それと、與左
>衛門さんの墓も見当たらなかった。

その点もミステリーだ。たしか、娘のスマホには與左衞門さんの墓も写っていたような気がするが、幻想か錯覚だったかな?

弥右兵さんと弥左衛門さんとでは、右と左が違うので、やはり別人だと思うが、実際はどうだったんだろう?。

それから、戸籍では喜代太郎となっている御先祖が墓では喜代三郎となっているのも不思議だと思う。とにかく、今まで気がつかなかった事実がいくつかあきらかになり、新しい謎が生まれてきた。

墓をつくるのは遺族だから、「弥右兵妻」と記載のある墓石が新墓地の最前列センターに位置していたこと、及び、最後にサトさんの墓石に后妻と記載があったことは、サトさんの思想を表現していると思う。

もし與左衞門さんの墓がないとすれば、サトさんの意思や認識を反映しているのではないか。たとえば、「私は、弥左衛門妻ではなく、弥右兵妻です」とか・・・・・・。「弥右兵妻」は前妻のことではないと思う。

新墓地をつくったのは、與左衞門さんや弥左衛門さんではなく、サトさんの意思を受け入れた友次郎さんだったかもしれない。

享保年間に亡くなった、傘のついた墓の御先祖は、名前がないと不便なので、このメールでは夫婦だと仮定して、名前は仮に熊之助とトラ、という夫婦ということにしよう。

返信:【Re_弥右兵さん】

たしかに、上下にある新見氏の菩提寺は長福寺だったね。長谷部氏とのつながりをますます感じるよ。ちなみに、日野厳島神社と長谷部館跡地の石碑の間に母屋があったので31代当主の家だとおもう。そして、神社と跡地の裏山を50メートル程登ると長福寺があった。長谷部信連がつくった寺だがら何かしらの縁があると思われる。

弥右兵さんは、弥左衛門さんの若かりし頃の通称だったんじゃないかね。Webで弥右兵と検索すると、弥右衛門(やえもん)は、日本人の男性名のひとつ。孫を表す「弥」の字を右衛門府の四等官を除いた右衛門と合わせたもので、明治時代以前の男性通称名として多く用いられた。とある。

若かりし頃、弥右兵と名乗っていた頃に結婚した「なか」さんの墓。「なか」さんは友次郎さんを産んだあと早くに亡くなった。毎回ぶち当たるが、弥左衛門さんの時代はとにかく謎が多い。

あと、友次郎さんが六代目だと色々計算が合わないんだよね。「尼子の落人」が高瀬の地に土着したのが「上月城の戦」が起きた1579年(天正七年)。もしくは「関ヶ原の戦」の1600年(慶長五年)頃だと思っていたが、「尼子の落人(馬之助)」は、計算上1750年頃に土着したことになる。

理屈は、弥左衛門さんが1832年(天保三年)生まれ。與左衛門さん、弥右兵さんがそれぞれ30歳の子として計算すると、1770年(明和七年)に弥右兵さんが生まれたことになる。すると、「尼子の落人」と名乗る馬之助は江戸時代中期に高瀬の地を得たことになってしまう。

輿左衛門さんの墓石の件は、友次郎さんの墓石の隣にひとつ読めない墓石があったから、それが輿左衛門さんの墓かもしれない。しかし、その墓は二列目にあり、サトさん、弥左衛門さん、弥右兵妻の後ろに位置する。

弥左衛門さんの後ろに輿左衛門さんの墓を設置しないだろうから、読めない墓石は、友次郎さんの妻・イシさんの墓ではないかと思っている。

亀三おじさんの墓はきれいに管理されていた。亀三おじさんの家に住んでいる方がきれいにしてくれているのだろう。しかし、信谷さんの家が長谷部の家の隣にあるとはしらなかった。しかも、あんな近くに。

自分が幼い頃は、亀三おじさんの家が隣家だと思っていて、周りに家などないと思っていたが、信谷さんの家の方が近かった。しかも、信谷さんの家の隣には井田さんが住んでるんだね。井田さんは何か関係あるんだっけ。

信谷さんは、律儀に長谷部の土地からのびきっている木が車道にかかっていて伐りたいから、ご隠居さんに聞いてくれと言ってきた。「ウチは長谷部の家を相続しておらず、弟さんのモノなんですよね」と伝えたが、「ご隠居さんがイイと言えばイイんじゃ」という感じだったよ。

信谷さんの言葉で、印象に残っているのは、清巳さんが五代目で、善右衛門さんが木彫り職人として長谷部の御嬢さん「ふゆさん」をもらい分家したといっていたこと。

高瀬の家の裏にある小川の上流に良い粘土がでるということ。長谷部の田んぼは荒れていて先日イノシシがでたと言っていたこと。亀三おじさんのことも嬉しそうに話していた。

あと、とにかく忙しいと言っていた。人手が足りなく、農家は本当に大変なんだな。それでも「また寄りなよ」と言ってくれたから、今度はゆっくりお土産を持ってお邪魔するよ(笑)。

子供たちは、明日、浦安に帰ることを心待ちにしている。理由を聞いたら「コロナ禍で1年半も帰っていないからだ」と言っていた。

では、明日に。

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