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【67日目】里帰り出産

ご隠居からのメール:【里帰り出産】

今朝送信したはずだが、送信済アイテムに記録がないので、念のため再送する。

ノモンハン戦争のことを調べると、前線の長谷部理叡大佐や後方の長谷部貴美子さんをはじめ多くの日本人が犠牲になったことがわかる。もともとは蒙古と満州の国境をめぐる紛争だった。国境の決め方があいまいで、火事場泥棒のように、武力でここはオレの土地だと言ったものが領土を獲得したのだ。

辻政信や東条英機は英雄とたたえられていたので、ノモンハン戦争で負けたとは言わない。単なるノモンハン事件と称し、局地的紛争として片付け、参謀や司令は敗戦の責任をとらなかった。敗戦ではないという理由で・・・・・・。

京都の上京区中溝町の跡地は訪れたことがある。たしかに木戸孝允(=桂小五郎)邸の跡地があったよ。京都は空襲をまぬがれたが、建物疎開で家屋敷を政府に取り上げられた人がかなりの数にのぼる。その後、岡村一家は三重県四日市市や津市に移ったらしい。弘さん軍需産業に勤めていたし、一家を支える長男でもあり、兵役はまぬがれた。

昭和三十年頃、オレは大阪に行き、弘さんの西田辺の家に泊めてもらったことがある。その頃は会社を退職し、商業高校の英語の先生をしていた。研究社から『口語英語の研究』を出版していた。映画のシナリオから会話英語を学ぶという本だ。

潔おじさんは三重大学医学部に進学し、寮で暮らしていたと思う。潔さんが医者として自立できるという見通しがたった時点で、弘おじさんは兄弟姉妹からの反対に耳をかさず、佐藤家への養子縁組を決行した。その時期は昭和三十七年頃だ。


返信:【Re_里帰り出産】

今回の手紙は、まだ、大同の頃だよね。やはり、水や油が合わないのだろうな。貴美子さんや坊やが身体を壊して、與一さんも忙しいだろうに。でも、里帰り出産の方向で話が進んでいたんだね。妹の絢子さんも亡くなってしまったので、両親のそばにいたかったのだろう。

昭和三十七年、佐藤信安さんは、88歳だね。ニ年後に90歳で亡くなったようだ。平民宰相原敬の1番弟子で、元広島市長、原さんから、白虎隊の脇差しをもらったと言っていたよね。


本投稿には、昭和十四年〜十五年にご隠居さまの母であり、自分の祖母である長谷部貴美子さんが、満州国哈爾濱、中国大同及び張家口から京都在住の母との手紙のやり取りを現代語に訳した内容を掲載しておりますが、この「note」掲載の本来の目的は、あくまで、子孫たちへファミリーヒストリーを伝えるための記録として利用させていただいております。手紙の内容は、ご本人のプライバシーを考慮して閲覧制限させていただきますことをご了承いただけますと幸いです。
書簡集(※題名は筆者が命名)

● 書簡001_令和三年(2021年)二月:喜久子(享年102歳)永眠の知らせ
⇒塩田雅子(喜久子:娘)からご隠居(貴美子:息子)への手紙
● 書簡002_令和三年(2021年)二月:叔母様(貴美子)の手紙を送ります
⇒塩田雅子からご隠居への手紙
● 書簡003_昭和十四年(1939年)十一月十六日:新天地到着のご報告
⇒長谷部貴美子(ご隠居:母)から岡村はる(ご隠居:祖母)への手紙
● 書簡004_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大同での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡005_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大豆の研究について
⇒長谷部輿一(ご隠居:父)から岡村素(ご隠居:祖父)への手紙
● 書簡006_昭和十五年(1940年)一月六日:新年のごあいさつ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡007_昭和十五年(1940年)二月一日:幸せな新婚生活
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子(貴美子:妹)への手紙
● 書簡008_昭和十五年(1940年)五月二十七日:悲しみの訃報
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡009_昭和十五年(1940年)六月二十日:日本に帰りたい
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡010_昭和十五年(1940年)六月:里帰り出産
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙

● 書簡011_昭和十五年(1940年)七月:もうすぐ帰ります
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡012_昭和十五年(1940年)八月九日:帰郷中止のお知らせ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡013_昭和十五年(1940年)九月一日:張家口での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡014_昭和十四年(1940年)十二月:結婚のお祝い
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子への手紙


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