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【208日目】長元信の没年

ご隠居からのメール:【長元信の没年】

>>『続日野町史』には、長元信が1556年38歳で亡くなったことになってい
>>る。すなわち、1563年の白鹿城の戦には参戦していないこととなる。

ーーそれはおかしい。長元信は1557年(弘治三年) 備後国人衆十八人の傘連判(毛利家文書)に連署している。1556年(弘治二年)に亡くなったのが事実なら、傘連判に連署できない。1555年(弘治元年)の「厳島の戦」に参戦し、傘連判に連署し1557年(弘治三年)、白鹿城の戦にも参戦したというのが事実に近い。亡くなったのはおそらくその後だろう、

『続日野町史』は、元信が尼子を見限り、毛利側についた以後のことは正確な情報をつかんでいないと思う。備後翁山城と金持村の神官との連絡網は1556年(弘治二年)頃断たれた、したがって、亡くなったも同然とみなされたのではないかと思う。

  • 弘治元年(1555) 厳島の戦、陶氏敗北

  • 弘治三年(1557) 備後国人衆十八人の傘連判(毛利家文書)

  • 永禄五年(1562) 白鹿城落城、

  •   ?     長元信逝去


返信:【Re_長元信の没年】

『続日野町史』を読み続けると、面白いことがわかってきた。安芸、備後の一級歴史書『藝藩通志』には以下のように書いてあるそうだ。

「長谷部元秀は、船岡山の戦(1511年)で功をもって、備前国児島庄を賜う。元秀二子あり。大内蔵左衛門信澄、加賀守元信と云う。延暦寺文章に信澄後に加賀守元信改むといへるは違へり。厳島大明神元亀四年(1573年)の棟札に長元信と記せり。是を信澄とする時は下に見えたる天文弘治の事蹟に合はす。かくて元信といへるは今系図にのせず。しかれども信澄の下に「妾腹不続家」と註せるを以て按ふるに、元信は信澄の弟にして嫡腹なりしが、嗣子なきに依りて終に系図に脱せるものならんか」

藝藩通志

すなわち、船岡山の戦で活躍した、長谷部元秀には、子供が二人いて、その名が、信澄と元信ということになる。延暦寺文書にある、信澄が元信と名前を変えたというのは違うと書いてある。なぜなら、1573年(天正元年)、厳島神社に棟札が記録されているから。ただ、元信には子供がなく、系図が終わってしまう。そのため、信澄の子供が長谷部の家を継いでいったとなっている。


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