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【347日目】:源氏か平氏か

ご隠居からのメール:【源氏か平氏か】

『平家物語』には長谷部信連のぶつらという人物が登場する。後白河法王代第三皇子の以仁王(もちひとおう)に仕えていた。治承4年(1180年)、以仁王は源頼政と平氏追討の計画を図り、源氏一族に平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。以仁王も自ら挙兵を試みるが、事前に平氏に発覚してしまう。このときに以仁王を女装させて近江国(滋賀県)の園城寺(三井寺)に逃がしたのが長谷部信連(33歳)とされている。

この挿話が事実なら信連は源氏のはずだが、系図をみると、桓武平氏の流れで、三浦義明の息子だが、なぜか長谷部姓を名乗っている。たまたま私の姓も長谷部なので、信連の血筋をひく子孫だと思いたいが、問題は信連が源氏か平氏かわからないことだ。物語の筋によれば、源氏、系図によれば平氏、ということで納得せざるを得ない。

そもそも清和源氏の祖である八幡太郎源義家の父は源氏だが、母は平氏だったという。つまり、いわば源氏と平氏の愛の子、混血児だったのだ。坂東武者といえば、源氏も平氏もへだてがないから、坂東武者の子孫だと称してもウソにはなならないだろう。



返信:【Re_源氏か平氏か】

ファミリーヒストリーを辿る我々とすれば、とても気になる問題だけど、なぜ、このようなことになっているのかね。

それは、氏祖の長谷部信連のぶつらの子孫たちの都合によって、変わってきたということになるね。長谷部信連のぶつらが、伯耆日野の地に流されてから、能登大屋庄を賜り御家人となったのが、1186年。壇ノ浦の戦が1185年なので、源氏が勝利した翌年だ。

そのころの、鎌倉は源義経よしつね討伐の時期。以仁王もちひとおうを逃がしたという功績のみで、御家人となったようだが、長谷部信連のぶつらは、その後の活躍で源頼朝よりともに信頼されて、安芸国、宮島の検非違使などに任命されるほどなので、それなりに武功を残しのだろう。

あのころの坂東武者たちは、多くの平氏の血筋の一族が活躍していた。千葉氏、三浦氏、和田氏、北条氏も平氏の血筋だ。厳密にいえば、源氏と平氏の戦というのも、ひとつの指標なだけで、誰が、武士の棟梁として鎌倉を治めるのかという戦いだった。

なので、長谷部信連のぶつらからすると、源氏の血筋だろうが、平氏の血筋だろうか、あまり関係なかったのではないだろうか。では、誰が家系図を改ざんしたのか。改ざんする理由があるとすると、長谷部信連のぶつらが、全国に子種を残した、子孫たちということになるね。

源氏の血筋とした方が都合の良いことがあったと考えた方が自然だよ。わざわざ賊軍となった、平氏の血筋だと主張する意味は、先祖を敬う理由しかない。


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