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【156日目】一歩前進

ご隠居からのメール:【 一歩前進】

矢野荘の情報ありがとう。これで上下町における新見氏の痕跡を確認することができたので、わが家の歴史探索にとっては大きな一歩前進だ。この確認ができただけでも、「尼子の落人後日譚」を執筆する価値があると思う。

「上下町御当地兼題問題集」の関連事項をメモしておくと次の通り。

・1954年(昭和二十九年)年上下町、矢野村、吉野村、清岳村、階見村が合併。
・長福寺(曹洞宗)は小堀三間城の城主である新見氏の菩提寺として小堀に建立された。歴代の住職の墓塔である無縁塔が12基ある。運用和尚と記名のある小米石製の塔もあり、県内でも珍しい貴重な遺品とされている。(長谷部氏の菩提寺は曹洞宗善昌寺)
・上下はかつて「城下」と書き、後に上下村、上下町と改称された。
・南北朝時代、南朝方の竹内氏の居城は有福城にあり、北朝方の長谷部氏は翁山城に拠り、山内氏とともに有福城を攻めた。

上下町御当地兼題問題集

まだ未確認の疑問は、尼子経久つねひさ新見国経しんみくにつねとの出会いは1517年(永正十四年)だとして、新見国経と長(長谷部)元信との出会いは何時か。仲介者は誰かということ。

1557年(弘治三年)には「からかさ連判状」(長(長谷部)元信、新見元致しんみもとちか)には両者ともに尼子氏を裏切り毛利方として、元就、隆元とともに連署している。

これはまだ仮説にすぎないが、1532年(天文元年)尼子経久の三男・興久おきひさは父親に対して謀反を起こした。三千貫の所領しか貰えなかったので、不満を抱いていたのである。父の怒りをかったので、しゅうとの備後の比婆郡ひばぐん甲山城主こうやまじょうしゅ山内やまうち山和守やまわもり直道なおみちのところへ落ちのびたが、結局、自刃に追い込まれた。

その後、山内氏がどのように行動したかよくわからないが、義息・興久の自刃という処分に腹をたて、尼子氏から離反する動機になったのではないか。離反にあたっては、南北朝時代から山内氏と親密な関係にある長氏も誘ったのではないだろうか。

ただし、「からかさ連判状」には山内氏の名前はない。それ以前に尼子氏から滅ばされたのではなかろうか。


返信:【Re_一歩前進】

また面白い展開になってきたね。Wikipediaを調べたら色々でてきたよ。

まず、尼子興久を調べてみると経久が出雲西部に勢力をもっている塩冶えんや氏を配下に取り込むべく興久を塩冶の養子にし、興久は経久の意向に沿って勢力をつけていったが、同時に塩冶氏の権力も維持する必要があり、反尼子勢力との結びつきを強めていったそうだ。更に山内氏の娘と結婚し、備後北部にまで同盟勢力を拡大した。

1530年(享禄三年)に興久が経久に反乱を起こしたのは、単に所領の問題だけではなく、出雲国を二分した尼子氏と塩冶氏の全面対決が背景にあるようだ。そして、興久側に付いたのは、反尼子国人や出雲大社はじめ、山内氏や山名氏まで支援したそうだ。この情報だけみると、長谷部氏は塩冶興久えんやおきひさを支援した可能性がある。

当初は興久側が優勢だったようだが、大内氏が経久側に付いたため敗戦。最後には、山内氏を頼って備後へ逃れたようだ。驚くべきことに1533年(天文二年)に経久が新見氏へ備後遠征に伴う出兵を求めている書状があるそうだ。すなわち、この頃の新見氏は経久側だ。

続いて、山内氏を調べると、当時、備後国守護であった山名氏より備後国と播磨国の所領を安堵されたそうだ。経久と興久の戦いでは、興久を匿い、これに対し経久は興久の引き渡しを要求したそうだが、山内氏は断り、それを悟った興久は自害したとなっている。

すると、山内氏と尼子氏の関係悪化を察知した毛利元就は、山内氏と親睦を深めるようになり、山内氏と毛利氏が講和する。たしかに、この頃に山内氏と共に長谷部氏も毛利氏に寝返ったのかもね。

ただし、毛利氏との関係を脅威と感じた尼子氏は、備後に侵略し山内氏の甲山城を攻略したそうだ。

それでも山内氏は存続し、その後、毛利氏の家臣として最高家柄の寄組として萩へ一緒に移っている。また、土佐藩主、山内容堂やまうちようどうは山内氏の庶流とのことだ。

話は変わるが、長谷部氏の菩提寺ぼだいじである善昌寺ぜんしょうじも上下にあるね。長谷部元信一族による絶大な外護があったと記されてるよ。


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