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■【より道‐36】知られざる亡国_幻の満州国③

満州国に関わる人たちを調べていくと、どんどんハマっていってしまう。満州国を紹介している本があれば、どの本にも掲載されている人ばかりだが、なんというか、当時の日本人が持っていた思想や、戦争の黒い分というか、裏の部分を客観的にみると、どんな背景があったのか想像してしまう。

少なからずとも、現代の我々の社会や生活を支えてくれている企業や文化を残した影響力のある人たちも多いので、時代というものは、自分たちの世代だけでなく、過去から繋がっているのだなとつくずく思う。


弐キ参スケにきさんすけ

満州国で総理大臣や皇帝すら意向を無視することができなかった、絶大な影響力をもった5人の軍人、官人、財人のことを弐キ参スケにきさんすけと称していたそうです。

全員、A級戦犯である「平和に対する罪」の容疑者で逮捕されました。その5人は、関東軍参謀長・東條英機《とうじょうひで》、国務院総務長官・星野直樹《ほしのなお》、満州重工業開発株式会社社長・鮎川義介《あいかわよしスケ》、総務庁次長・岸信介《きしのぶスケ》、満州鉄道総裁・松岡洋右《まつおかようスケ》の5人です。

東条英機は、ご存知の方も多いと思いますが、太平洋戦争の責任を全面に負った人だと思っています。本人は、日中戦争の連合軍の戦い含めて大東亜戦争だと言っていましたが、アメリカからしたら太平洋戦争なわけです。陸軍中央官僚の政治対立に勝利し日本の首相となり、1941年12月8日の真珠湾攻撃から1945年8月15日の敗戦まで日本を導いた人になります。

星野直樹は、日本の大蔵省から満州国建国にともない転身し満州国の財政経済のトップとなった人です。東条内閣の時には内閣書記長官に起用され東条英機の側近として君臨していたようです。ただ、何をした方なのかはよくわかりません。満州国で、明治政府の井上馨のようなポジションだったのではないかと、勝手に想像しています。

鮎川義介は、明治政府の元勲、井上馨の甥で、日産コンツェルンの創始者です。「日産自動車」や「日立製作所」など我々の生活に馴染み深い商品やサービスを提供してくれている会社をつくった人になります。映画「人間と戦争」では、五代産業としてかなりあくどく描かれていましたが、職工として機械、鍛造、板金、組み立て、鋳物を身をもって学んだそうで、日本のモノづくり精神を築いた人と言われてます。

岸信介は、元首相の佐藤栄作のお兄さんで安倍晋三のお祖父さん。星野直樹や鮎川義介、板垣征四郎などと一緒に「満州産業開発五ヵ年計画」を手掛けたひとりです。満州国では官僚として実力を発揮し産業界を牛耳るほどの実力だったと言われています。自分のお祖父ちゃんは満州国で大豆の研究をしながら役人として働いていたと聞いているので、国務院実業部に所属し官僚として岸信介を支えていたかもしれません。

松岡洋右は、国連脱退宣言をした人として有名ですね。しかし、満州鉄道の総裁をしていたとは知りませんでした。国際連盟は、満州国建設の実態調査をするために、日本、満州国、中国にリットン調査団を派遣して妥協案を提案してくれましたが、日本軍の満州国撤退勧告を四十二対一で採決され、全権大使の松岡洋右は長い巻紙を読みだし「さよなら」と言って国連を脱退しました。


李香蘭リー・シャンラン

芸能関係で活躍した人についても紹介しようと思います。有名なのは、李香蘭。この方、中国名ですが、生粋の日本人です。1920年に佐賀県と福岡県出身の両親の間に奉天で生まれました。戸籍名は大鷹淑子おおたかよしこさん。ご両親は、日露戦争後、満州地方に移民され南満州鉄道で中国語を教えていたそうです。瀋陽しんよう銀行の頭取と仲が良くて、義理の娘分となり李香蘭の中国名を得たそうです。

1939年(昭和十九年)に岸信介の後援をうけた、甘粕正彦あまかすまさひこという「甘粕事件」を起こした人が、満州映画理事長に就任すると、中国語と日本語を話せる李香蘭を中国スターとして娯楽映画を製作したそうです。

李香蘭は、日本の敗戦後、中華民国政府から祖国反逆者の罪で軍事裁判にかけられ死刑を宣告されていましたが、日本国籍であるということが証明され国外追放となりました。日本に帰国後は山口淑子と名乗り、ワイドショーなどに出演し活躍をしました。


川島芳子かわしまよしこ

ものすごい数奇な人生を辿った方だなと思う人です。簡単にまとめると本名は、愛新覚羅顯㺭あいしんかくらけんし清国の皇族・王女です。日本人の大陸浪人、川島浪速の養女となると裏の世界で暗躍していきます。

川島芳子は、1932年(昭和七年)満州国建国の目を欧米からそむけるために板垣征四郎が謀略した、上海事件のキッカケをつくったスパイだと言われています。まあ、確かに愛新覚羅一族が皇族に返り咲くことができるのであれば、関東軍に肩入れする動機はありますが、当時、板垣征四郎から日中両軍の衝突の謀略を指示された、日本陸軍・田中少佐とお付き合いしていたというのも理由のひとつのようです。

どのような工作をしたかというと、満州事変が起きると中国各地で抗日運動が盛んになりました。とくに、上海にある三友実業社の従業員は、共産主義の影響が強く抗日義勇軍の拠点とみられていた会社だったそうです。そこに目をつけた田中少佐は、川島芳子を通じて三友実業の従業員たちに金を渡し、日本人僧侶を襲うように依頼。日本人の日蓮僧と信者5名が襲われました。

すると今度は、大陸浪人と呼ばれている光村芳蔵ら青年同志会に川島芳子は金を渡し報復させます。義勇軍は32名。拳銃や日本刀で武装し、三友実業社を放火したそうです。その後は、政治家が登場して日本側は僧侶殺害に関し、謝罪や犯人の逮捕、反日組織の解散などを要求するとともに、約1000人の軍人を派遣。1週間後には軍事衝突に発展したといいます。

他にも川島芳子は、関東軍が熱河省に進出する際には、安国軍の総司令に就任したり、李香蘭リー・シャンランを妹分のように可愛がったりと、関東軍や満州国のために働きますが、1945年の敗戦後、中国軍に捕まり、反逆罪で死刑になったと言われたいます。しかし、数十年後、川島芳子の娘といわれる人がメディアに登場し生存説が話題になりました。


満州国に関わり演出した人は、もっともっとたくさんいます。満州鉄道の初代総裁・後藤新平やこの時代の首相・田中儀一や幣原喜重郎。満州国の総理大臣・張景恵ちょうけいけい。大陸浪人とよばれる政治活動家や現地で活躍した軍人さんも多数いますので、このあたりにしておきますが、少なくとも現代の自分たちとは全く違う価値観をもっていたということは確かです。そのことを、我々現代を生きる日本人は大切に考える必要があるなと思いました。


まったくもって関係のない話ですが、自分はコンタクトを処方してもらうために、東京大井町にある「アイクリニック大井町」に通っています。通勤途中にある眼科を何気なく利用していたのですが、病院の女性院長さんは、愛新覚羅維あいしんかくらいさんです。ファミリーヒストリーを通じて大清帝国や満州国について学び、皇帝一族について知ったので、こころよいご縁を感じています。


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