見出し画像

【351日目】:大原氏か米原氏か

ご隠居からのメール:【大原氏か米原氏か】

戦国時代に吉野村という地名が高瀬村に改称された理由は、米原氏や松田氏などの尼子の落人が逃げ込んで、尼子再興軍の拠点(隠れ家)とするためではなかったかというのが私の仮説だが、この仮説の弱点は、米原氏の子孫の行方確認がとれていないことである。

しかし、米原氏が大原氏に改姓したと考えれば、仮説の弱点は是正される。大原氏なら現在でも数軒が神郷高瀬地域内で確認できるからだ。

では、米原氏が何らかの理由で大原氏に改姓した痕跡がどこかにあるだろうか。もしかしたら東海道新幹線米原駅にあるかもしれないと、この物語のメールのやりとりで、息子が隠居に指摘した。米原氏は「よねはらし」と読むが、米原駅の読みは、「まいばら」えきだ。

息子の調査によれば、近江の守護佐々木氏の四人の息子がそれぞれ、六角、京極、高島、大原と名乗った。そして、大原氏が米原氏に改姓したのだという。尼子十旗の一人米原義寛は近江の出身ではないか。もしそれが事実だとすれば、わがファミリーヒストリーにとっては大発見だ。息子によるさらなる調査の進展を期待している。


返信:【Re_大原氏か米原氏か】

1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時よしときに対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」。その戦で鎌倉幕府側に味方をした佐々木信綱のぶつなは、近江国の守護となった。

佐々木信綱のぶつなには4人の息子がいたが、生前、家督や所領は、三男に譲ることにしていた。しかし、佐々木信綱のぶつなが亡くなると、他の兄弟たちが訴訟を起こし、近江国内の所領が分け与えられることになった。この息子たちが、後に、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏を名乗るようになる。

その後、出雲国に大原氏が流れてくるタイミングがいつだったのか想像してみると、1391年(明徳二年)「明徳の乱」の武功で京極高詮たかのりが、出雲守護になったときだろうか。それとも、南北朝の動乱で、佐々木氏、山名氏の対立時にすでに派遣されていたかもしれない。

いつ頃、大原氏が出雲国へ流れてきたか、まったくの確証はないが、尼子氏の居城、月山富田城の近くに、大原郡とよばれる地名が存在していたことは確かだ。この地に、住む大原氏が、のちに、立原氏や米原氏などに改名していったのではないかと想像している。

ちなみに、大原郡の国人たちは、1530年(享禄三年)におきた「塩冶興久おきひさの乱」で、尼子経久つねひさではなく、塩冶興久おきひさを支援しており、米原氏は、塩冶興久おきひさに先立ち命を落としている。

父さんが幼少のころに過ごした実家の隣に住む、松田氏のご先祖さまが活躍していたのは、出雲国能義郡安来庄。大原郡とは隣の郡で、たしか、松田氏は大原氏の親戚みたいなものだと説明されていたんだよね。大原氏は、じぶんの、曾祖母になる。


<<<次回の話【より道‐117】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子政久という男

前回のメール【350日目】長谷部氏か松田氏か>>>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?