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【271日目】:尼子氏発祥の地

ご隠居からのメール:【尼子氏発祥の地】

尼子氏発祥の地とされる尼子郷は近江国おうみこく犬上郡いぬかみぐん甲良荘こうらしょうのなかにあった。甲良荘は1345年(康永四年)四月二日佐々木(京極)道誉が、戦功の賞として、足利尊氏から与えられたものである。

明徳二年、出雲などの守護だけでなく、全国六十六か国を領して六分一殿と呼ばれていた山名満幸は将軍・足利義満にさからって、「明徳の乱」を起こしたが、敗走し、出雲守護職を免じられた。翌明徳三年、山名満幸にかわって出雲・隠岐の守護に任じられたのは、佐々木導誉の子孫・京極高詮である。

ところが、出雲で勢力を培っていた山名満幸が挙兵し、塩冶氏も守護京極氏に叛旗をひるがえした。京極氏の出雲支配は、山名氏や塩冶氏の反抗によって不安定だったが、やがて守護代の尼子氏が下剋上でのしあがってきた。

応仁の大乱に際しては、近江の名族佐々木氏は、江北の京極持清が東軍に、江南の六角高頼が西軍にそれぞれ属して、江州の完全制覇をねらって激闘した。京極持清は、六角の支城高瀬城を攻略している。
 
松田氏や米原氏の名前も見られるが、長谷部氏の名前は「出雲尼子一族」には載っていない。尼子一族とはみなされていなかったのだろう。京極氏とは婚姻関係を結んでいたともいわれているので、なんともいえないが、備後の守護は山名氏だったから、おそらく他の備後国人たちとともに山名氏側に属し、佐々木京極氏の流れである尼子氏にさからっていたのではないだろうか。


返信:【Re_尼子氏発祥の地】

息子の友人が滋賀県に住んでいたので今年の夏遊びに行く予定だったが、コロナ禍のため断念した。福井で海に入りたかったのだが残念だ。

家系図に記載されている事を読み解くと、後醍醐天皇が隠岐を脱出したとき、1333年(元弘三年)の「船上山の戦」のときに長谷部左衛門尉信豊が討ち死にしている。ということは、この頃、塩冶氏とは味方同士となった。

その後、佐々木弾正や和田淡路守に娘を嫁がせている記録があるので、山名氏というよりも、佐々木氏の流れに近しい。更に時代が進み、京極氏、小嶋氏の正室として娘を嫁がせている。ここまで名家に血筋を認められている家なのに記録が少ないね。

山名氏に嫁いでいるのは、三浦氏と名乗っている時代、三浦義明の叔母さんにあたる人くらいだから平安時代のこと。相当古いご縁になる。


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