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■【より道‐43】義を失ったノモンハン戦争

昭和七年(1932年)に「五族協和の王道楽土」という理念のもと成立した満州国は、日本国(朝鮮)、中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府と国境を接する緩衝国として「日・韓・満・蒙・漢」の五民族が協調して暮らせる国を目指す「理想国家」でしたが、実際には、日本の「傀儡国家」だったともいわれています。

そんな満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生したのが「ノモンハン戦争」です。日中戦争のさなか、昭和十四年(1939年)5月から9月にかけて、日本・満州軍とソ連・モンゴル軍が戦いました。それは、日本が日露戦争以降、初めて経験した近代戦争となりました。ちなみに中国やモンゴル、ソ連では係争地となった地名から「ハルハ河戦争」と称しているそうです。

ノモンハン戦争は、互いに宣戦布告をしていないことを理由に国境侵犯で生じた局地戦のひとつとしたことで「ノモハン事件」と称していますが、実際は、第二次日露戦争といっても過言ではありません。この敗戦で日本の戦争に対する「精神主義」が露呈し悲惨な戦いにつながっていきました。


【ノモンハン戦争】
ソ連の傀儡政権となったモンゴルと日本の傀儡国家、満州国の軍事境界線では、小競り合いが盛んに勃発していました。昭和十二年(1937年)に113回、昭和十三年(1938年)には166回もの国境紛争です。その理由は、そもそもソ連は満州国を認めていないということですね。ソ連は大清帝国と以前に話し合った箇所を国境と定めていたので満州国の主張と相違があったそうです。

また、ノモンハンの地域は、辺り一帯、砂漠と草原だったため国境管理はほぼ不可能。しかも、モンゴル遊牧民は、国境などという意識はなく、むかしから当たり前に行っていたように、ハルハ河を渡って家畜に牧草を食べさせる。するとハルハ河を国境と主張する日満軍が「国境侵犯だ!」といって揉るということが繰り返されていたようです。

そして、紛争地の国境防衛にあたっていた第23師団(25,000人ほど)とモンゴル軍で最初の衝突が起こります。第23師団は新設師団で兵士の練度に不安を抱えていたそうです。それだけ、日中戦争に兵隊を割いていたのですね。日中戦争勃発が1937年(昭和十二年)。国家総動員法が1938年(昭和十三年)。ノモンハン戦争が1939年(昭和十四年)ですから、すでにこのときからかなり無理をしていたと思います。

1939年(昭和十四年)5月13日に23師団から「ノモンハン地区で戦闘が発生した」と関東軍参謀の辻政信に電報が入ります。すると、関東軍は、飛行場大隊2個の航空部隊と自動車第1連隊の2個中隊が増援に向かい大規模な衝突に発展したそうです。この背景には、紛争が起こる1ヶ月前、関東軍の作戦参謀の辻政信が陸軍中央に許可なく「満ソ国境紛争処理要綱」を作成し全軍に通達していたそうです。内容は、国境線をしっかり確定させ、もし紛争が起こったら兵力の多寡に関係なく武力を行使して勝てというものです。

挑発にのった日本軍の行動をチャンスと捉えたのが、スターリンです。ドイツ・ヒットラーが隣国ポーランドに侵攻をはじめていたことを脅威に感じていたスターリンは、今後、ヨーロッパに注力するためには、いまのうちに、日本軍と満州軍を叩きのめしておこうと、最新鋭の戦車や銃砲、飛行機や潤沢な補給などをノモンハンに軍事力を集結させました。

一方の関東軍は、40年前の日露戦争時に使用した銃剣や砲弾と火炎瓶。自決用の手榴弾をもって、日本陸軍のお家芸である白兵突撃、肉弾戦で対抗したのです。銃を撃っても戦車には通用しません。戦車に飛び乗り、ツルハシでハッチを開け火炎瓶を操縦席に投げ込む。そのような戦いだったそうです。

4ヶ月ほど戦い9月になるとヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため停戦協定を結びます。ソ連・モンゴルが主張していた国境線までという協定内容です。両軍ともに多くの犠牲者がでましたが、軍事目的はソ連・モンゴル軍が達成させたということです。さらには、日中戦争への兵力を減少させて、列強欧米に日本の実力を広めてしまいました。

ノモンハン戦争で明らかになったのは、火力、銃兵器の差です。日露戦争のときは、イギリスの援助で軍備を増強することが出来ましたが、近代武器の技術や装備では大きく出遅れました。かと言って武器開発、武器配備などにはチカラをいれず、精神力の向上を唱えたのです。

全ては、スターリンの狙い通りでした。ノモンハンで日満軍を追いやるなか、密かにドイツ「独ソ不可侵条約」を結び、最高のタイミングで停戦させて戦力をヨーロッパに向けることに成功したのです。一方、関東軍では、部隊の全滅を避けるために「命令なくして撤退した」として酒井美喜雄大佐、井置栄一中佐、長谷部理叡はせべりえい大佐を命令違反者として自決させました。

長谷部理叡はせべりえいさんは、温厚誠実で部下に尊敬されていたと、どこかの記事でみたことがあります。同じ長谷部信連の末裔でしょうか。血は繋がっていなくとも同じ「氏」を守ってきた人です。そんな人が、責任をとらない軍司令官や参謀に自殺を強要されたと思うと、いたたまれない気持ちになります。

ちなみに、関東軍参謀・辻政信は、長谷部信連が関東御家人として能登大屋荘を賜り、温泉をみつけたという加賀市山中温泉の出身です。ご先祖さま同士で、なにかの因果があったのかもしれません。


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