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ねぇちゃんが自社から卒業した話

10月31日はハロウィンではなくねぇちゃんがヴァレイという会社を卒業した日になった。
そもそも今まで姉と会社をやってきて「仲良いね」なんて言われたり「家族で大変でしょ」なんて言われたりするけど声を大にして言いたいのは「めっちゃ感謝しとるぞーー!!」なのですが、自分が「姉と共に同じ会社を経営する」という結構稀な経験をしているのでここでシェアして備忘録にしたいと思う。

https://x.com/I_hideki22/status/1719453119422271865?s=20


そもそも、ねぇちゃんとの関係

僕たちは縫製工場を経営する母の元に生まれ、僕が小学校1年生、姉が5年の時に母が離婚し母子家庭になった。
当時縫製業界は転落の一途をたどっているところでどんどんと工場が潰れていって、母の工場も決して楽ではなく苦しい日々が続いていた。

程なくして母は同じく母子家庭の母の妹との同居を決め、僕たちは一軒家で母2人、子供4人の家族になった。

その当時は母たちは早朝に出ていって、子供達だけで学校の準備をして学校から帰ってくると子供達だけで洗濯物を取り込んだり、お風呂の準備をしたりしていた。

母が帰ってくるのは晩御飯を作る時だけで、料理が好きな母は「晩ごはんだけは手作りにする」と決めていたらしく温かい母の手料理には渾身の愛情が詰まっていたのだと思う。

そして晩御飯を作ると母たちはそれを見届けまた仕事へ向かった、洗い物を自分たちでやって自分たちでお風呂に入って寝る準備をして寝る。
そして眠りについた後22時過ぎに母が帰ってくるのだった。
そこから母たちはまたアルバイトの仕事に向かったり、息抜きに飲みにいったりするのだった。

だから生活のほとんどは子供達でやっていたようなもので、その中で末っ子の僕と1番上の僕の姉は「生きる」ということをまさに共にしている存在だった。

成長した僕とねぇちゃん

僕が高校の時、そんな生活は変わらずに続いていたけれど自分たちもアルバイトをしていたり「生きる力」がそれなりについてきたからむしろ自由の中で生きていた。

僕はその頃からダンスを始め芸能界を志していた。
高校をサボって駅前で音楽をかけてダンスに明け暮れる日々だった。
そんなある日「私もやりたい」と姉が言い出して、嫌々ながらも兄弟一緒に駅に向かってダンスをし始めた。(一緒に住んでいた従兄弟の兄も一緒だったので3人で)
それからというもの同じダンスチームを結成して夜な夜な遊んだりしていた。

仕事でも姉から紹介された飲食店で僕が働いて、姉が飲みにくるようなことも結構あったし、夜中に二人で先の尖った革靴とピンヒールで壊れた車を押して帰ったこともあった。

高校を卒業して姉は縫製を本格的に始めていたので昼は職人で、夜は飲食店で働くような姉と
夜な夜なダンスをして昼間は芸能を目指す弟だった。

よくよく考えるとこの時点でかなり「仲がいい」のだろうと思う。


ヴァレイにねぇちゃんが入社した

僕がオーストラリアから帰国してヴァレイという会社を起こした時、姉はフリーランスで縫製職人をしていた。
もちろん僕に縫製の知識は全くなかったけれどよく考えると母や姉が近くにいたから「困ったら聞けばいいや」という安心感があったのは間違いない。
意外と知られていないのだければヴァレイは始めはイベントや撮影などの仕事をしていた。
その合間に縫製の仕事を受けて姉に縫ってもらったり、母に縫ってもらったりして売上を上げていた。
そんななか僕が「縫製工場」をやろうと思うと言い出した、そしてわかりもしないのに人を二人雇い入れてミシンの手配を始めていた。
そして姉に「ヴァレイを手伝ってほしい」とお願いした。

当時の姉は「いやだ」と言っていた、理由としては「自由がなくなる」というものだった。

その気持ちは痛いほどわかった、僕たち姉弟は放牧されながら育ったようなものだったから、自分たちで稼いで自分のやりたいことに責任を持って生きていくのが当たり前だったし、それが心地よかった。
それを誰かが作った箱の中に入って進んでいくことは不自由極まりなかった。
それでも姉は僕が雇い入れた2人のメンバーを不憫に思ったに違いない。
「こんな弟に雇われるのはかわいそうだ」そんな気持ちだったかもしれないがそれでも最終的に首を縦に振ってくれて、姉が会社にジョインした。

実は外では「姉と会社をやってます」なんて言っているけれど、姉は社員としては3人目のメンバーなのである。
1人目のメンバーが姉の今の旦那で、のちに誕生するヴァレイソーイングジャムの代表をしている鎌田である。



ヴァレイにおいてねぇちゃんの存在

姉がヴァレイに入ってからは凄まじかった、
経営の「け」の字も知らない僕が無茶苦茶な運転をするものだからヴァレイはとんでもない乱気流の中を飛んでいた。
いつ落ちてもおかしくない飛行機の中で姉は本当に粘り強く会社を支えてくれていた。

正直いうと死ぬほど喧嘩した。
お互いに飲みにいったら仕事の話をしないでおこうと決めるくらいに喧嘩した。
自分が人に気持ちに疎いところをしっかり指摘してくれて
「もっと人の気持ちを考えなさい」と言ってくれた。
姉弟は本当に周りが引くくらいに喧嘩した。
それでも1つだけどうしても思い出せない、というかお互いにしなかったことがある。

それは「相手をけなす言葉を使った」という記憶である。

今の意思決定が良くないとか、この方がいいとかそういう話は死ぬほどやった。
だけど「だからねぇちゃんはダメだ」とか「だからひできはだめだ」とか相手を否定するような言葉だけは過去一度も使ったことがないし、僕も言われたことがない。

一緒に生きてきた中で、苦しい時代を一緒に過ごしてきて縫製業のしんどさを1番見てきて、頑張っている母の姿を一緒に見てきて、
二人とも「なんとかしたい」という気持ちがあった、だからそのために熱くなることはあってもその人間性は認めているのだと思う。

実はこの部分が後のヴァレイの成長に大きく影響していると思う。
「相手のことを認めた上で、正直に自分の意見をぶつけ合えるビジネスパートナーを見つけること」
これがどれだけ難しいことか、会社経営をしたことがある人はわかるだろう。

僕は会社を起こしたその時からそんなパートナーに恵まれていた、だから素直に間違えていることは「ごめん、やっぱりそっちやわ」と言えたし、何より姉自身が大きく変わっていった。

自由を求める姉が「資格なんかなんの技術の足しにもならない」と豪語していた姉が、効率よくメンバーを育てられるように、技術を伝えられるように1級技能士の資格を取得し、さらに教育ができるようにとマニュアル化を進めていった。

「背中で学ぶ」というべき技術がどんどんと見える化されていった。
「あの子には無理ちゃうか?」そう言っていた姉は「誰でもやれるようになる」と言うようになった。

僕はインタビューでよく話していたのだけれど
「実はヴァレイの入社理由のほとんどは自分のメディアを見たってことなんですけど、ヴァレイをやめない理由は姉がいるからなんですよね」
これは正直な話で、姉がいるからヴァレイをやめたくないという人がたくさんいた。

ヴァレイにとって僕が脳みそだとすると、姉は心臓だと思っている。

ねぇちゃんが辞める経緯

世界がコロナ禍にある時、医療用ガウンの生産でなんとか食い繋いでいた。
そんな中生まれたのが「ヴァレイソーイングジャム」である。
元々2017年に「日本の縫製業を次世代につなぐ」というビジョンを立てた時、メンバーの鎌田(後のソーイングジャムの代表)と姉が「子供達にミシンを教えたい」と言ってきてくれた。
そこからコロナ禍になるまでコツコツとほぼボランティアで子供にミシンを教えてきていた。

コロナ禍で何かやらなければいけないね、と話していた時に「ミシンをオンラインでできるように教材を開発したい」というアイデアが出た。
そこからは早かった、元々マニュアルを作ることに慣れていた姉を筆頭に子供達が0からミシンができるように教材開発を進めていった。
そして始まったのがヴァレイソーイングジャムである。
現在は全国15教室あり200人以上の子供たちがミシンを習っている。

ヴァレイが投資家をいれて資金調達をして拡大を進めていく中で子供達にミシンを教えるという事業だけが少し方向性が違うということで、会社を分けることになった。
そして義理の兄で当時執行役員で、ファウンダーの一人である鎌田が社長として会社が分かれた。
その時から「姉はいつかソーイングジャムに移籍するだろうな」と思っていた。

だって姉もファウンダーの一人であったし、未来ある子供達にミシンを教えるということが何よりも楽しそうに見えた。

そこから姉と話をし、実は1年以上前から少しずつ休みを増やしてソーイングジャムに移籍する手筈を整えていたのだ。

ねぇちゃんに対して思うこと

姉は本当によくやってくれた。
当時4人だった会社は7年たって今売上もメンバーの数も10倍になった。
この10倍を作ってくれたのは紛れもなく姉の存在が大きい。
僕だけだとここまでやってくることは不可能だった。

実は1年ちょっと前姉と話をした時に「もう、十分頑張ったからさ、自分の人生を生きてほしい」そう伝えた。
僕のわがままで会社に巻き込んで、僕のわがままな経営方針に対応してくれて、
人生の本当に貴重な若い7年間という時間を注ぎ込んで誰よりも働いて、誰よりも泣いて一緒に駆け抜けてきた。
これ以上何が必要だろう。
「自由に働いてください」
これが僕ができる姉への恩返しだし、深く深く感謝している。

この会社は誰がなんと言おうと姉の功績があって存在しているし、
ヴァレイという会社の歴史を語る上で絶対に必要な大きなピースである。

感謝しかない。
ありがとう。

姉が抜けたヴァレイは大丈夫か?

ここまでの記事を見ていると「おいおい、いい話っぽいけど大丈夫か?」と思われた方もいるかもしれない。
が、安心してください。大丈夫です。

ちょうどヴァレイでは属人化を外して誰でも技術を学びながら、成長していく組織を目指して前に進んでいる。
会社の中で毎年技能士試験を受ける人が複数いて、TES(繊維製品品質管理士)もたくさんのメンバーが受験している。
姉が抜けるということを前提に「次は自分たちが」と意気込んでみんな日々技術を磨いている。
その文化を作ったのも姉なのでこれも感謝だな。
また、姉も毎週1日は会社に来てメンバーの技術向上に向けたカリキュラムの作成や技術的なアドバイスを行う「技術顧問」として残ることになっている。

僕たちは全員が1人の姉のような稀有な才能がなかったとしても努力し、しっかり技術で会話ができる集団になっていくのだ。


姉弟で会社をやることについて

最後に兄弟や家族で会社をやることについて書きたいと思う。
今は「アトツギ」という文脈で語られることが多い家族経営。
その中でも母も姉妹で会社をやってきているし、僕も姉というパートナーがいて会社をやってきた。

結論から言うと「最高」である。

親子だと気を遣ったり明確な権力の差がある中で、兄弟にはそれが少ない
そして幼少期に「母の背中」であるとか「楽しかった思い出」であるとか強烈な原体験を共にできることもまた大きなポイントだ。

「あの時の方がしんどかったよな」と笑えること。
これがどれだけ心の支えになっただろうか。

「あの人たちをなんとかしたい」の「あの人」が共通で、
どれだけ心がつながったと感じただろうか。

「俺は技術はやらんよ、任せるで」と背中を任せ、
どれだけ経営に集中することができただろうか。

これだけのパートナーは見つけたくても見つけることは至難である。
それを僕は生まれた時から横にいて、そして今も横にいる。

なんてラッキーなのだろうかと思っている。
ねぇちゃんが移籍することになって、素直に今望むのはヴァレイとしての前川ではなく弟として「姉の幸せ」だけである。

そして会社の代表としては属人化が進む縫製業において技術の標準化、見える化を進め姉が安心できる会社にしていくことが僕の使命である。

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