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「決める」という尊い行為について

人というのは本当に「決める」ということが苦手だなぁと思う。
優柔不断とかそういうのもあるしね。

いやいやそんなことはないよ、毎日自分はいろんな選択をして生きているし。

そういう人ももちろんいるだろうけれど、知らず知らずのうちに人は「決定」を避けて通るようになっている。

例えば自分で決めて大きな幸せを掴むより人が決めたことのせいで少しくらい不幸になることを選んでしまう。
自分に関わることの意思決定ももちろん悩んでしまうが、他人が関わることだと特に悩んで決めることができない。

「決める」はリスク

そもそも人はなぜ「決める」ということを避けて通ってしまうのだろうか。
それは「決める」がリスクだからだ。

決めるということをした瞬間にその事柄には自分の名前が入ったラベルが貼られる。
「これは太郎くんが決めたこと」みたいな感じ。

厄介なのはそのラベルは成功した時にはなかなか見られずに、失敗した時に見られてしまうラベルだってこと。
「太郎くんが決めてくれてよかった」とはなりづらくて「太郎くんが決めたせいでこうなった」と責められることが多くなる。
どうして成功した時にそのラベルが見えずらいのか?
それは「成功」をする過程はしんどいものが多く、ほとんどの人の目には「失敗」までいかないながらも「別にやらなくていい成功」に写っている。

社会人を経験している人たちはそれまでの過程においてそれをなんとなく感じていて「決める」ということを避けて通ってしまう。

決めることで自分のラベルがその事柄にへばりついて、批判はされても評価はされないと思っているのだ。


決めるとこの尊さ

だからこそ僕は「決める」ということができる人が大好きだし、尊敬する。
決めることはリスクであり、批判はあれど称賛されるのは一部の人たちから、かなり先に少しされるかな?くらいであったとしてもそれでも「決める」ということがないと物事は進まない。

会議が開かれる。
その会議の中では問題点についての情報共有が行われる。
その時に「決めるギリギリ」の「意見」が出されることが多い。

「ここに課題があります、もっとこの部分をこうするべきだと思います

意見が活発に出る会議はいいもんだ、だけど全員がこうして「べきだと思います」を連発する。
そして最終的にはそのたくさん出る意見から一人の勇者が(役職者である場合が多いが)「そうしましょう」と決めて終了する。

その瞬間その勇者のラベルがその事柄に押されるのである。

とてもたくさんの意見を出す人を当然評価する。
しかし「そうしましょう」という人をより評価する。
もっというと「こうしたい!やりましょう!」と自分で意見を出して自分で決められる人をより評価する。

それは「アイデアに価値はない」という言葉に集約される。


確率を超越する人の価値

「放っておいても60%の確率で成功することは40%失敗するが、放っておけば40%失敗するが人がコントロールすると60%成功する」

もちろん放っておいて60%の確率で成功することを人がコントロールすることで80%の成功確率にすることができるだろう。

何が言いたいかというと「アイデア」(こうすればうまくいくだろう)には価値がない、結果誰かがそれを実行し熱を込めてコントロールすることで成功するのだ。

どれだけ素晴らしいアイデアでも「やろう」と決めて、コントロールされないのであれば失敗する。
逆にどれだけ平凡なアイデアであっても「やろう」と決めて熱を込めて実行されれば成功する可能性は高くなる。

実行にこそ価値がある。
だから「決める」という行為には非常に価値がある。


決めるという行為に成功はない

ある人に「選択したものを成功に導くのが仕事でしょう」と言われて納得した。
成功しそうなことを選ぶのではなく、選んだことを実行することに価値があるのだ。

つまり「決める」ということは始まりでしかなく、その後に初めて価値がある、自分の人生であれ仕事であれ「選ぶ」とか「決める」ということには大きなストレスがかかるけれど、それよりも決めた後にしっかり実行することのほうが大切だ。

全ての決める行為にいちいちこんなに深くは考えていないだろうけれど、それでも人は決めたがらない。
曖昧で、誰かが決めてくれればいいと思って生きている。
それは「正しい答え」があると信じているから。
そんなものは存在しない。
正しく見える答えであっても正しくなるように実行しなければそれはあくまでも見せかけなのだ。

だからさっさと決めてしまおう。
そして実行して、早めに失敗して成長しよう。

やっぱり決めるということは尊いものだ。

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