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”めがね”をかけて”服”を着る

Youtubeで偶然出会った『miwa「サヨナラ feat.MC.waka」 at 横浜アリーナ』を聞くことが最近一番テンション上がるため、ことあるごとに聞いているので、もう私の中でオードリー若林はアーティストとしていなくてはならない存在になっています。「再び返り咲き若林」「天に召しますパトラッシュ」が最高(☝ ՞ਊ ՞)☝

さて今日は、「立場」をキーワードに今週を振り返ります。人それぞれ異なる”めがね”をかけているのでものの見方、考え方が違うということはこれまでも何度か言及してきたが、会社などの組織ではさらに「立場」という”服”を着なければいけなのでより混沌を極める場面が多くなる気がしています。今日はそのことについて考えてみようと思います。

伝説の一戦

先日、こんなことがあった。

会社からオフィシャルに発信する内容に対して、法務と広報で意見の相違が発生。「会社からの発信は誰でも分かりやすいように内容を簡潔にしろ。広報の私でも理解が難しい内容で見た人が全員理解できるのか」という広報部と「内容に関しては外部組織の指導を受けながら検討、作成している。勝手に編集して外部に発信されては困る。」という法務部。

パッキャオ対メイウェザーのような激しい攻防が繰り広げられ(もちろん殴り合いはしていないし、上裸でグローブを付けていたわけでもない)、結果としては、お互いにやりとりをする中で何度か内容を修正し、発信された。ボクシングで言うところの「ユナニマスドロー」といったところだろうか。(最近知ったこの言葉を使いたいがためのボクシング例でした。)

日頃から対外的な業務が多く、会社のイメージを考えて様々な発信を行うことが役割である広報部という立場と、日頃から法や規則に基づき、一つのミスが会社の信用に大きく作用するような業務を行うのが役割である法務部。

譲る?譲らない?

では、このようなそれぞれ異なる立場同士で議論になったときにはどうすれば良いのだろうか。

議論が平行線を辿りそうなのでその場を納めるべく譲るのか、立場上この意見は変えることが出来ないから譲らないのか、名前が羽生だから”ゆずる”のか。(今日は調子が良い)

私的見解では、「譲るらない」である。

まずこれは決して誤字ではない。譲るし譲らないというのが見解だったので合わせて「譲るらない」としてみた。なぜそう考えるのか。ここで「立場」という組織において皆が着ている”服”がポイントになる。

「立場」という”服”

組織において「立場」という”服”を着せてそれぞれに役割を持たせているのには必ず理由がある。それは組織力向上に他ならないと思う。

「切磋琢磨」という言葉ある。現在は「仲間同士で戒め合う、また励まし合ったり競い合ったりして学問や道徳心を磨くこと」というような意味あいで使われているが、そもそもこの言葉一文字一文字の意味を見てみると、「切」は骨や象牙を切ることで、「磋」はそれらを研ぐこと、「琢」は玉や 石 を打ち叩くことで、「磨」は磨くことを意味している。このことから私は「切磋琢磨」という言葉は、切る・研ぐ・叩く・磨くという様々な工程があることで上質なものができあがると理解している。

このような考え方に立ってみると、組織における「立場」の存在にはなるほど納得がいく。広報・法務・営業・内務など様々な「立場」が存在することによってより高みを目指していくのが組織なのだと。

であるならば、「譲るらない」ことが必要だと思う。譲ることは、その「立場」を捨てることになり、譲らないことは、他の「立場」を潰すことになるからだ。切るし、研ぐし、叩くし、磨くから切磋琢磨になり、良いものが出来るのである。広報があって、法務がいて、営業がいて、内務がいるから会社として成長し、利益を得られるのだ。

ドローではなくWin-WinでもなくWin-Win-Win

上記のボクシングの例は「ユナニマスドロー」という言葉を使いたい思いもあってドローという締め方をしてしまっているが、広報と法務とのやりとりによって生まれたIRの内容は当初よりも確実に分かりやすい内容になっていたので、決して「ドロー」ではなく、両者そろって勝者、「Win-Win」なのだ。会社としても良い発信が出来て「Win-Win-Win」ですかね。

東京オリンピック2020でも、走り高跳びの競技で二人の選手が最後の最後まで同じ記録で、両者とも金メダルという話もありました。ああいう世界線が好きです。

そもそもルーツの異なる人たちがそれぞれ”めがね”をかけて、会社という組織の中で役割を与えられて”服”を着ているのだから、意見の相違、衝突は不可避だろう。むしろ健全な組織の証だ。

その規模は、パッキャオ対メイウェザー級の世界戦の場合もあれば、雨に打たれた団地の一室で起こる兄弟喧嘩みたいな場合もある。

大事なのは着ている”服”ではなく、着ている”人”なのだと思う。