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一般名詞としての哲学ーー廣松渉『新哲学入門』

廣松渉『新哲学入門』(岩波新書、1988)の感想です。

一般名詞としての哲学

新鮮だったのが、『新哲学入門』は固有名詞がほとんど出てこない哲学書、いわば「一般名詞としての哲学」の本だったことです。
普段読み慣れている思想の本は、カントのあれがこうとか、ハイデガーのこの概念がこう、とか、とにかく固有名がたくさん出てきます。國分功一朗の『中動態の世界』にしても、東浩紀の『訂正可能性の哲学』にしても、帯にはアーレントやらルソーやら、言及される哲学者の名前が列挙されるのが常です。読み手はそれら固有名にくっついているイメージをとっかかりにして読みはじめるし、書き手もそれをフックとして、「じつはアーレントが言っていたのはこういうことなんだ」と展開のダイナミクスをつくっていきます。
しかし『新哲学入門』では、帯にも本文にも哲学者が出てきません。ひたすら「意識とはなんでしょうか」とか「存在するとはどういうことでしょうか」という概念のみを相手にしています。固有名の代わりに「こういうことをいう論者がいます」とか「一般的にはこう考えられています」という言い方がされています。付け加えれば、「日本の」とか「戦後の」という社会背景にもほとんど触れていません。乗り越える相手としての「近代」が唯一です。これも珍しく感じました。

固有名にまみれた思想に慣れた私にとっては新鮮な体験でも、世の中の哲学のイメージってこっちが本流かもしれないと思いました。哲学者の研究ではなく、ベタに「哲学する」というスタイル。著者もあとがきで「哲学的省察の現場へ読者をストレートに案内することを図りました」と述べています。廣松はもともとマルクスの再解釈で評価された人なので、じつはバリバリ固有名的な哲学者です。そこをあえて、読者がイメージするとおりの一般名詞的な哲学をやってみせたということでしょう。

個人よりも関係に重きをおく

内容についても触れておくと、本書では「認識」「存在」「実践」の3つの章に分けて、「近代的な哲学の枠組みを更新する」という試みがなされています。
切り口は章ごとに異なりますが、一貫しているのは「個よりもその間の関係に重きを置く」という点です。たとえば下記のような記述にわかりやすく表れています。

刃物は切断能力をそなえているという言い方をしますけれど、本当には、刃物それ自身が切断能力をそなえているわけではありません。刃物と他の物とのかくかくの関係態においてしかじかの現象が現出するという関係規定性を、刃物なる項がもともとそれ自身に内属させているかのように扱っているだけです。

『新哲学入門』p204、表現を一部省略

私たち近代人は、モノには能力や機能が宿っていて、人は意識を持っていたりすると信じています。しかし廣松からするとそれは錯覚です。
廣松によれば、能力や意識といった「現象」は、システム全体があってはじめて作動します。さきほどの刃物の例なら、刃物を使う人や、刃物で切られる食材、さらには刃物を製造した工場や金属を入手する鉱山がなければ、切断能力が作動することがありません。個人やモノはそうした複雑で巨大な関係の網目の、ひとつの「結節点」にすぎません。
しかし私たちは、そんなデカいシステムに考えを及ぼすことができないので、意識や能力といった「何か」が、人やモノにもともと内蔵されていると錯覚します。それが近代的な主体であったり、モノの認識です。

『新哲学入門』はこういう感じで、私たちが個別のモノや人の側に置いていた権利みたいなものを、システムや共同体のほうに移していく、みたいな話で出来ています。ただ、現在の状況からすると、システムが個人を規定する、というのは当たり前すぎて、逆に意識できなくなっているくらいの話のようにも思います。
本書は1988年に書かれた本ですが、少し前の83年には浅田彰の『構造と力』が出版されています。同書は大きなブームを生んだので、『新哲学入門』の著者も編集者も当然その流れを踏まえたうえで、乗っかるなり反発するなり無視するなりの態度を取ったと思います。思想をわかりやすく紹介する、という意味で、想定される読者層も被っていたはずです。にしては、いかんせん『新哲学入門』は基礎的な部分で話が終わっていないかと思います。
『構造と力』では、近代資本主義というシステムから個人はいかに逃走できるかがテーマでした。さらに2020年代の現在は、個人がいかにシステムにうまく乗っかれるかの世界へと変わったようにも思います。バズろうと必死こくユーザー(=個人)と、広告収入で儲かる巨大なプラットフォーム(=システム)の結託です。

なので、現在の私たちがこの本から受けとるべきなのは、著者の表面的なメッセージよりも、固有名の文脈に頼らない「一般名詞としての哲学」というスタイルと、そこにどうやって強度を持たせるか、という問いではないでしょうか。
個人的には、固有名的な哲学と一般名詞的な哲学はどっちも必要というか、廣松の言葉でいえば「二股的構造」をとれたら面白いと思います。一方がもう一方の条件であるような、相補的な思考です。

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