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【小説(後編)】帰れない 忘れられない帰り道


直原と別れて、また、一人ぼっちになっちゃった。急に寂しくなる。
僕が作った秘密基地はここから川上へ行き、3つ目の橋の下にある。
土手の下の道を信号3つ過ぎれば、土手に上がる階段があるはず。階段の横には自転車用のスロープもあったはずだ。
 
あと信号3つ。あと信号3つ。
 
僕は自分に言い聞かせるようにずっと口の中でもごもごと言いながら自転車を走らせた。
家と家の間の小さい道から急にライトが光る。
 
うわあ
 
そんなとこから光が出てくるなんて、全く思ってなかったから、僕は慌てて急ブレーキをかけた。
でも、ちょっと間に合わない。
自転車はバランスを崩し、僕は自転車から落ちた。
やっぱりこの自転車は、僕には少々大きすぎるみたいだ。
 
「大丈夫かい?」僕の頭の上から声がした。お巡りさんだった。
 
わっ!ヤベ!
 
「君、こんな時間に、どこ行くの?」
「塾の帰りです。家に帰るとこ。」
「そうか、大変だね。家の住所は?送っていってあげるよ。」
「いや、大丈夫です。もうすぐそこだから。」
「すぐそこなら、なおさらだよ。おまわりさんの仕事だ。遠慮しなくていいよ。」
「いや…」
「何か、おかしいなあ。ひょっとして、この自転車、盗んだヤツじゃない?」
「えっ、そんな…僕のです。」
「いや、怪しいぞお。防犯番号をチェックさせてもらうからね。」
 
僕は、自転車をおまわりさんにぶつけるように渡し、土手の上に駆け上がった。
 
「こら、待て!待ちなさい!」お巡りさんが叫んだ。
 
僕は、土手の道を急いで川上の方へ走った。
お巡りさんは土手の上までまだ来ていない。
大分走った後、川岸の方の背の高い雑草の茂みの中に隠れた。
 
少しすると、お巡りさんが走ってくる足音が聞こえた。
息を凝らす。
お巡りさんから無線で話しかける声が聞こえた。すると、お巡りさんの足音が遠ざかっていった。
 
僕は茂みの中を潜り抜け、川岸の平坦な土の上を歩いた。
茂みの側を通り、見つからないように、慎重に。
 
やっと、着いた。
 
3本目の橋の下。
コンクリートブロックの斜めの坂を上がると、橋の鉄骨の下に大人が寝てられるぐらいの隙間がある。
僕の秘密基地だ。
僕だけの秘密の部屋。拾ってきたベニヤ板の壁も残っていた。
 
良かった。
 
僕はコンクリートブロックを駆け上がり、ベニヤの壁の中に入ろうとした。
 
おかしい?
 
明かりがついてる。ラジオの音もかすかに聞こえる。
 
ヘンだな?
 
「誰だ?」中から声が聞こえた。
「そっちこそ誰だ?僕の作った秘密基地を勝手に使っているのは?」僕は言い返した。
「何い?お前が作っただとお?お前は誰だ?」ベニヤ板と橋の鉄骨に上手く張り付けているブルーシートの隙間からおじいさんが顔を出した。
 
うわあ…ビックリした。でも、怯んじゃいけない。ここは僕の基地だから。
 
「僕は上田亮介だ。」
「亮介か?俺は洋輔だ。」
「へっ?」
「まあいい。中に入れ。外は寒い。」
「お邪魔します。」あれ?僕の基地なのに…
 
兎に角、僕は中に入った。
 

ブルーシートがかかっている橋の鉄骨があるところは、僕でも、かがんで低くならないと中には入れなかった。
でも、中に入ると鉄骨があるところ以外は、意外に天井が高くて、このおじいさんでも胡坐をかいて座ってられるほどだった。
 
中は、LEDのライトが灯り、明るい。部屋の真ん中にこたつがあった。
 
「入口のところで靴脱いで、こたつに入れ。あったかいぞ。」とおじいさんが言った。
「うん。」と僕は答えて、靴を脱いで、こたつに入った。あったかい…どうして?電気もないのに?
「不思議だろう?何であったかいんだって?」おじいさんが意地悪そうな目で笑いながら、僕に言った。
「うん、そう。不思議。何で?」
「亮介は、湯たんぽって知ってるか?」
「湯たんぽ?知らない。」
「大きな入れ物に熱湯を入れて、この中に入れているんだよ。ライトで照らして中見てごらん。」
「うん。」
中にはラグビーボールみたいな形のものが入ってた。何か、毛布のような布の袋に入っているようだ。
「あったろう?」
「あった。」
「触ってごらん?」
「えっ?熱くないの?」
「もう熱くないだろう。あったかく感じるぐらい。」
「そう。」それでも僕は、ちょっと恐々、何とか手を伸ばして触った。寒い道を自転車で走ってきた手は痺れるぐらいに悴んでいた。
「あったかい。」
「そりゃあよかった。暫くそこに潜り込んで、手を温めておけ。で、この部屋はお前が作ったって?」
「そう。小4の時に僕が作ったんだ。」
「今は、何年生だ?」
「6年。」
「2年前か…なるほど。俺がここに住むようになってから、もうすぐ1年になる。つまり、お前が作って1年後ぐらいからは俺の住処なのだ。」
「でも、作ったのは僕だよ。」
「日本にはな、専住権というものがあってな。住んだもん勝ちなんだよ。わっはっはっはっは!」
「ええーー、そんなのズルいよ。おじいさんだけが住んでもいいって事?」
「そうなるな。まあいい。お前、家はどこだ?」
「この川の反対側の団地。」
「ああ、都営住宅か。何でこんな時間にここへ来た?親に叱られたか?」
「ううん。逆。かあちゃんにこれ以上負担掛けたくないからさ。」
「かあちゃんに負担?小学生が生意気言うな。何だか、事情がありそうだな。この洋輔おじさんに話してみないか?」
「おじさん?おじいさんじゃないの?」
「バカもん!俺は確かに禿げているがな。年はまだ58歳だ。50代でおじいさん扱いされたらたまったもんじゃない。洋輔おじさんと呼べ。」
「分かった。」
「じゃあ、話せ。」
僕は塾のテストの点の事、特別補講の案内の事を話した。補講の授業料は、今のウチの家計では到底賄えない事も。そしたら、父ちゃんが事故で死んだ事、それからウチが貧乏になっちゃった事も話す事になってしまっていた。
「僕は、何故だかかあちゃんには嘘がつけないんだよ。だから、テストと補講の案内を見せたくなくって、今日は帰らないと決めたのさ。それで、昔自分で作ったこの秘密基地で寝ようと思って。」
「なるほど、そうか。分かった。ところで亮介、腹減ってないか?」
「減った。」
「じゃあ、ちょっと待ってろ。」そう言い、洋輔おじさんはブルーシートをめくって外に出ていった。
 

洋輔おじさんはすぐに戻ってきた。手にはコンビニの弁当を2つ持っていた。
 
「唐揚げ弁当と、親子丼だ。どっちが食べたい?」
「唐揚げ!」
「よし、分かった。じゃあ、ここでちょっと温っためような。」と、おじさんは弁当をこたつの中に入れた。
「えっ?」
「この弁当はな、昨日コンビニへ行ってもらってきたんだが、冷たいままでな。腐っちゃいけないから、外の天然の冷蔵庫で冷やしてたんだよ。だから、今食べると冷たい。だから、こたつの中で少し温めるんだ。」
「昨日のなんて、食べて大丈夫なの?賞味期限、切れてるでしょう?」
「バカもん!賞味期限なんてものはな、多少期限が切れても大丈夫なものだ。大体、賞味期限の意味を知ってるのか?」
「えっ?知らない。でも、その期限を過ぎると腐るとか、っていう意味なんじゃないの?」
「夏ならまだしも、こんなに寒い冬で、そう簡単に食べ物は腐る訳ないだろう。いいか、賞味期限ていうのはな、美味しく食べられる期限という意味なんだ。どうぞ、ご賞味ください、とかって、テレビのコマーシャルで言ってたりするだろう?」
「知らないけど、じゃあ、昨日のコンビニの弁当でも食べても大丈夫なの?ウチのかあちゃんは、食べちゃダメって言ってるけど…かあちゃん、コンビニの弁当を作る工場で働いてるんだ。」
「そうなのか?でもな、母ちゃんに言ってやれ。冬なら、昨日の弁当も食べても大丈夫だと、洋輔おじさんが言ってたって。」
「分かった。で、弁当は、いつ食べられるの?」
「30分は待たないとな。」
「ええーーー?時間かかりすぎ…ここに電子レンジ置いたら?」
「ここには電気が通ってないから無理だ。」
「どっかから、電気を盗めばいいじゃん。」
「バカもん!俺はな、こんなとこに住んではいるが、決して浮浪者ではないぞ。仕事もあるし、本当の家もある。マンションだけどな。後、貯金もあるし、必要なものは全部買ってる。ただ、弁当はもらってるし、水は、向こうの河川公園の公衆便所でもらっているがな。だから、盗みなんかは絶対にしないんだ。分かったか?」
「じゃあさあ、仕事もあって、家もあるのに、何でこんなところに住んでいるの?」
「それはなあ、最初は家に帰りたくなかったんだ。ある理由でな。でも、途中からは、昔々太古の世界で、この日本にもいた恐竜の生活にあこがれも出て来てな。自由に暮らしたいなって、思い始めて…」
「ええーーーー!恐竜!僕、恐竜、大好きなんだよ。小3までは恐竜博士って呼ばれたぐらい。恐竜が好きすぎて、それで理科が得意になったんだ。だから、今でも理科だけはテストもいいんだ。」
「そうか。恐竜が好きかあ。そりゃあ、頼もしいな。おじさんの布団のところにな、恐竜の難しい本がいっぱいあるぞ。後で、見せてあげるよ。」
「うん。で、おじさんは、どうして家に帰りたくなくなったの?」
「おっ?気になるか?」
「うん。僕も今日は家に帰りたくない日だから…」
「そうか…」と言い、おじさんは、黙ってしまった。
 

「お茶を飲もう。亮介、悪いが、入口のところにあるやかんに水を半分ぐらい入れて来てくれないか?」
「いいよ。水はどこにあるの?」
「ブルーシートを出てすぐ左にポリタンクがある。」
「分かった。」
 
僕はやかんに水を汲み、中に戻った。
洋輔おじさんは、入口に置いてあったカセットコンロをこたつの上に置いていた。
やかんをコンロの上に乗せると、おじさんが火を点けた。
コンロの火で、部屋は一層明るくなり、温かさも増した。
 
「俺はな、こう見えて、実は大学の教授なんだよ。古生物学のな。」
「そうなんだ。頭いいんだね。」
「頭がいい?それはどうかは分からんが、恐竜キチガイである事は間違いないんだ。」
「えっ?おじさんは恐竜博士なの?」
「そう。根っからの、筋金入りの恐竜博士なんだ。」
「スゴイなあ。尊敬しちゃうよ。」
「尊敬だなんて…単なる恐竜バカだ。恐竜の話が出ると、日本は元より外国でも、直ぐに出かけてしまう。それで、何か月も家に帰らない。」
「そうなんだあ。大変だね。」
「大変?大変だったのは、俺の奥さんだよ。ウチの奥さんはね、美佐子と言って、僕の大学の同級生だった人なんだ。」
「ウチのとうちゃんとかあちゃんとおんなじじゃん。ウチは高校だけどね…」
「そうか。おんなじか。何か、嬉しいね。でもな、その美佐子は丁度1年前に死んでしまったんだ。」
「あれ、それもウチとおんなじ。ウチはとうちゃんが死んだ。」
「さっきも言ってたな。亮介は悲しいだろう?」
「うん。スゴク。」
「お母さんも悲しんでばかりなんじゃないか?」
「ううん。かあちゃんは強いんだ。とうちゃんが残した借金を返すために、朝も昼も、晩もずっと働いてる。悲しんでるヒマなんてないよ。」
「…そうか、そうなのか…強いなあ、亮介のかあちゃんは…」
「うん、強い。だから、僕も負けられないんだ。」
「そうか。じゃあ、おじさんは弱いなあ。美佐子が死んで、納骨も済ませた日にマンションに帰ると、暗くて寒いんだ。」
「誰もいないから?」
「そう、最初はなそれは仕方がない事だと自分に言い聞かせたんだが、一日過ぎ、二日過ぎ、一週間が過ぎると、どうにも耐えられなくなってな。誰もいない暗くて寒いあの部屋に帰るのが…それで、夜中ほっつき歩いて、ここを見つけたわけだ。」
「それで今、ここに住んでるんだ。」
「そう。」
「じゃあ、おじさん、帰った方がいいよ。」
「えっ?」
「家で美佐子さん、寂しがってるよ、きっと。だから、帰った方がいい。」
「…そうか。帰った方がいいのか…」
「きっとね。」
 
やかんの湯が沸いた。
 
「そろそろ、お弁当食べない?」
「そうだな。その前に茶を入れよう。お前も飲むだろう?」
「飲む。」
 
洋輔おじさんは、急須を出し、ティーバッグを中に入れて、湯を注いだ。
 

僕は熱いお茶を飲むのが好きだ。ウチは確かに貧乏だけど、お茶だけはいつもたくさんあるからだ。
とうちゃんの妹、美由紀おばさんが結婚して、静岡に住んでいるんだ。おばさんは新茶の頃とかに、お茶をたくさん送ってくれる。煎茶や緑茶、玄米茶やほうじ茶まで送ってくれる。
だから、僕は学校から帰ってきてすぐに、ポットのお湯を急須に注いてお茶を飲む。一度にたくさん飲む事もあるぐらい。
だから、洋輔おじさんがお茶を入れてくれたのも、正直嬉しかった。ちょっと喉も乾いてたしね。
僕の前にお茶がなみなみと注がれたマグカップがある。熱そうな湯気。
「よし、飲め。」と洋輔おじさんは言い、こたつの中から弁当を取り出した。
僕は湯気に息を吹きかけてから、マグカップに口をつけた。少しすすると、やっぱり熱い。ヤベ、火傷しそうだ。慌てて、もう一度フーフーと息を吹きかけた。
「お前は、唐揚げ弁当だったよな。」
「そう。」
「一つお願いがあるんだが?」
「何?」
「その中の小さいカップに入っているヒジキだけ、俺にくれないか?」
僕は、弁当を見た。あっ!かあちゃんが作ってる弁当じゃん!
「ヒジキ欲しいの?」
「そう。ここのヒジキが大好物でな。コンビニの弁当のヒジキなのに、大豆が入ってる。ウチの美佐子が作るヒジキ、そっくりなんだ。俺はこのヒジキが食べたくてな。いつも、弁当をもらいに行く時に、どうか弁当が余ってますようにって、心の中でお願いするぐらいなんだ。どんぶりものとかにはヒジキが入ってないんでね。」
「そうなんだ。いいよ、ヒジキ、あげるよ。」僕は小さいカップに入ったヒジキを自分の弁当から取り出して、おじさんの前に置いた。
「悪いな。ありがとう。」そう言って、おじさんはまずヒジキを食べた。
僕も唐揚げを頬ばった。
「おじさん、そのヒジキ、ウチのかあちゃんが作ってるんだ。」
唐揚げで口の中をいっぱいにしながら、僕は言った。
「えっ?」
「僕のかあちゃん、そこのコンビニの弁当工場で働いてるんだよ。かあちゃんはヒジキ、作ってるって言ってたもん。後、時々、ビニール袋一杯にヒジキを持って帰ってくる事もある。」
「そうなのか…これを…亮介のお母さんが…そうかあ…いやあびっくりだなあ…何か、急に泣けてくるなあ…」と言って、おじさんは言葉を詰まらせた。涙より先に鼻水がたらーって。
「おじさん、鼻水出てるよ。」
「ああ、分かっておる。拭くから、余計な心配するな。」おじさんは、何だか薄汚れたタオルで顔を拭いた。
涙が出てるのも一緒に拭いて、僕にバレないようにしようとしてる。
「亮介。お母さんにおじさんからの伝言を伝えてくれるかな?」
「何?」
「美味しいヒジキをありがとう。特に大豆の火の通り方、味の染み方が抜群ですってな。」
「わかった。伝えるよ。」
 
 
「亮ちゃん!亮ちゃん!どこにいるの?」
遠くで僕を呼ぶ声が聞こえた。かあちゃんだ!
 
「亮ちゃん!亮ちゃん!出てきてえ!お願い!警察の人も一緒なの。みんなであなたを捜してる。だから、出てきて、亮ちゃん。」
「上田亮介君、上田君!どこにいるんだい?」
 
 
「お前、捜されてるな。」
「そうみたい。」
「出ていけ。かあちゃんの元に帰りな。」
「イヤだよ。今日はここに泊まるんだ。」
「それは俺が困る。」
「何で?」
「警察も一緒だと言ってたろう?ここが見つかるのが困る。ここが見つかったら、明日から住むところがなくなってしまう。それにな、お前と俺がここにいて、見つかってしまったら、最悪俺は誘拐犯人と間違われてしまう可能性だってある。だから、今日は諦めて、もう帰ってくれ。」
「そうかあ。じゃあ、おじさんも約束してくれる?」
「約束?」
「そう。今、僕がかあちゃんと帰ったら、おじさんも自分の家に帰るって。」
「…すぐには無理だが、少しずつ準備して、できるだけ早く家に帰るようにするよ。それでいいか?」
「できるだけ早く?じゃあ、それでいいよ。じゃあ、僕は帰るね。」
「ああ、そうしてくれ。」
僕はブルーシートの前で靴を履いた。
おじさんが入口まで来た。
「じゃあね。」僕はおじさんに別れを告げて、外に駆けだした。
「亮介!」おじさんが大きな声で僕を呼んだ。
「何?」
「亮介、亮介…ありがとう。ありがとうな…」
「ありがとうは僕の方だよ、洋輔おじさん。お弁当、ありがとう。またね。」
「おう、またな。」
 
僕はコンクリートブロックの坂を駆け下り、橋の左側の土手を上がっていった。
土手を上がる途中、おじさんがいる秘密基地の辺りを見たんだけど、橋の鉄骨に隠れて、灯りはもちろん、ベニヤ板もよく見えなかった。
やっぱ、あそこはやっぱり秘密基地にはうってつけだな…
そう思いながら、僕は土手を上がり、橋の上まで駆けていった。



橋の鉄の柵を飛び越えて、僕は橋の舗道に立った。
橋の向こう岸近くにかあちゃんとお巡りさんがいた。
 
「かあちゃーん!」僕は大声で叫んだ。
かあちゃんはすぐに僕の方へ振り向いた。「亮ちゃん!」
 
僕はかあちゃんの方へ走った。かあちゃんも走ってきた。
「亮ちゃん!どうしたの?何があったの?いつもなら、塾終わったら真っ直ぐ帰ってきてたでしょう?何で?」
「僕、今日、帰りたくなかったんだよ。かあちゃんに塾の事で、色々言わなきゃならなくて…でも、言いたくなくて、だから…」今まではどうもなかったんだけど、急に涙が出てきた。「かあちゃん、ごめんなさい…」涙が止まらないんだ。どんどん溢れてくる。
「いいのよ、亮ちゃん。無事で良かったわ。さあ、帰りましょう。」
お巡りさんが後ろから言った。
「上田亮介君。」
僕は泣きながら答えた。「はい。」
「さっきは、疑って悪かったね。防犯番号を調べたらね、これは君の自転車だった。ごめんね。本当に悪かった。」
「でもね、お巡りさんが調べてくれなかったら、おかあさん、亮ちゃんがどこにいるかなんて、分からなかったのよ。あなたにこうして会えたのも、このお巡りさんのお陰なの。亮ちゃんからもお礼、言って。」
「ありがとうございました。」
「いいんだよ、お礼なんて。本当に見つかってよかった。じゃあ、この自転車を返すよ。僕はこれで。」
とお巡りさんは、自分の自転車が停まっているところまで走って行った。
 
「じゃあ、帰りましょう。」
「うん。」
「亮ちゃん、あなた、お腹空いてない?」
お弁当を食べたとは言えない。行ったら、洋輔おじさんとの約束が守れなくなる。それに、あのお弁当は全部食べ切ってない。だから、まだ、お腹は空いてるんだ。
「空いた。」
「あっちの土手沿いにね、おでんの屋台が出てたの。おでん、買って帰ろうか?」
「ええ、いいの?」
「いいわよ、どうせ、あなた、塾辞める気でしょう?塾辞めるなら、おでんぐらい平気よ。ちょっとはぜいたくしましょう。」
「うわあ、スゲエ。じゃあ、かあちゃん、早く行こう。かあちゃん、乗って。」
僕は後ろにかあちゃんを乗せて、自転車をこぎだした。
 
走っている時、屋台でおでんを買う時、そして、そこから家まで帰る時に、僕は今晩遭った事を全部、かあちゃんに話した。
 
塾の小テストの事。冬休みの補講の事。吉村と鶴井と広田におでんを見せつけられて、その上、貧乏人扱いされて悔しかった事。4人のスーツ姿のお兄さんに大事なスニーカーに痰を吐かれた事。それを見ていた左藤工務店のおじさんに助けてもらって、痰を吐かれた靴の弁償として2万円を取ってもらった事。直原に会った事。直原のお父さんが大変な事。そして、洋輔おじさんの事。洋輔おじさんがおかあさんが作るヒジキが美味しいと言ってた事。大豆が美味しいんだって。
 
結局、全部、かあちゃんにしゃべった。
だって、かあちゃんには絶対に嘘つけないんだもん。
それに、かあちゃんには、絶対に聞いて欲しかったんだもん。
 
おでんをたらふく食べて、風呂に入って、布団に入った。
布団は冷たかったけど、直ぐに寝ちゃった。
 

朝起きたら、かあちゃんは弁当工場から帰ってきていた。
朝ご飯を食べている時、かあちゃんが僕に言った。
 
「今日、おかあさん、青果店の仕事を休んで、塾に行って、斎藤先生と話してくるわ。もう辞める事にするってね、亮ちゃんもそれでいいでしょう?」
「うん。塾なんて行かなくていいや。」
「それから、市役所行って、昨日貰ったお金を返してくる。その後に左藤工務店にも連絡する。あっ、そうそう、亮ちゃん、学校から帰ったら、あの橋の下のおじさんのところに行ってくれない?」
「いいけど、何で?」
「工場からヒジキをいっぱい持って帰ってきたから、持って行って欲しいのよ。」
「そりゃあ、おじさん、喜ぶね。分かった、行くよ。」
「お母さんが今日作りましたって、言うのよ。それと昨日のお礼もね。ちゃんと、ありがとうございましたって。」
「分かってるよ。」
 
それで、僕は学校に行ったんだ。
 
かあちゃんは、午前中に塾に行き、斎藤先生と面会した。
その後、市役所に行って、細川さんを見つけ出し、他の3人の分のお金まで全部返した。
いったん家に帰って、お昼を食べてから左藤工務店をネットで探し出し、電話をかけた。
昨日、僕を助けてくれたのが、社長の左藤二郎さんだと分かった。かあちゃんは左藤さんにお礼を言った。
電話で話してて、左藤さんは上田建設を知ってて、とうちゃんと仕事をしたことがある事が分かったようだ。
左藤さんは、ウチのとうちゃんの事を仕事のできる人でした。残念な事故で、惜しい人を失くしました。と、言ってくれたみたい。一度、ウチに線香をあげに来させて欲しい、と言ったので、かあちゃんがぜひお願いしますって、応えたんだそう。
 
そして、僕は学校から帰ってきて、かあちゃんから、ビニール袋一杯に入ったヒジキを持って、あの橋の下に行った。
ブルーシートの前で、「こんにちは。亮介です。」と言ったけど、おじさんは出てこなかった。
仕方ないので、僕はブルーシートをめくり中に入った。
こたつの上にヒジキを置いた。
メモを残さなきゃ…こたつの上に鉛筆があった。紙がない…一番奥のおじさんの寝床の頭のところに色んな本とノートがあった。ノートの一番最後のページは白い。そこにメモを書く事にした。
「昨日はありがとう。ヒジキはかあちゃんが持ってけ、といいました。亮介」と、書いた。
その最後のページを開けたままにして、その上にヒジキのビニール袋を置いた。
 
ブルーシートを出ると、もう暗くなってきていた。
僕は自転車のライトを点け、急いで家に戻った。
 

その次の日、夕方、ウチに斎藤先生が来た。昼間にかあちゃんの携帯に来る事を知らせていたみたい。
何だろう?と思った。
「上田君、君は勉強はキライかい?」
「いや、キライじゃないけど、受験勉強の勉強は、難しいと思った。」
「そうか。でもね、君は勉強ができる子なんだよ。今、ウチの塾に来てる誰よりもね。だから、どうだろう?今日から、僕が週2回、火曜日と金曜日にここに来て、全教科教えるってのは?難しいかい?」
「全教科って、斎藤先生は理科の先生じゃん。」
「そう、専門は理科だけどね。でも、中学受験ぐらいなら全教科教えられるよ。どうだい?」
「僕、斎藤先生は好きだから、いいよ。でも、授業料は高いんじゃない?」
「バカだなあ、そんなの無料に決まってるよ。その代わり、おかあさんに僕の分の夕食まで用意してもらうんだ。晩ごはんが授業料。それでどうだい?」
「いえ、先生、そんな事はいけませんわ。そんなにしてもらっても…第一、それで、亮介が受験して、落ちてしまったら…それに、私立なんかは、受験料も入学金の事も考えると到底、受けさせられませんし…」と、かあちゃんが言った。
「お母さん、大丈夫ですよ。この子は頭が良い子だから、きっと都立、通ります。それに学費は奨学金制度もある。その辺は、僕に任せてもらえませんか?」
「そうですかあ?先生、でも、先生はなんで亮介にそこまで親切にしてくださろうとしてるんですか?」
「それは、亮介君が僕の子供の頃に似てるからですよ。ウチも母子家庭でね。僕の母も一日中、ずっと働いてました。但し、僕の父はアル中のどうしようもない人だったので、そこはお宅と違いますがね。とにかく亮介君を見てると僕の子供の頃を思い出すんです。おまけにね、亮介君の勉強ぶりを見てると、早い時期からきちんと塾で授業を受けてたら、この子は伸びるんだろうなあって、ずっと思ってたので。だから、昨日お母さんがお見えになって、塾を辞めるとおっしゃった時に、正直、惜しいなって、思ってしまって…でも、これがいい判断なのか、どうかって、ちょっと悩みましてね。一日考えて、やっぱりそうしようと思ったので、今、ここにいる訳です。おかあさん、如何でしょう?」
「さあ、私に言われましても…亮ちゃん、どうする?」
「火曜日と金曜日?二日だけ?」
「受験が近づいたら、土日もあるかもしれないな。君が頑張るなら。どうだい?」
「いいよ。じゃあ、僕頑張るよ。」
「よし、じゃあ、二人のスケで頑張ろう。」
「えっ?斎藤先生もスケなの?」
「ああ、斎藤大介だ。じゃあ、今日から、早速授業開始だ。火曜日は、理科と社会。金曜日は算数と国語。それでいくから。いいかい?」
「分かったよ。教科書は塾のヤツを使うの?」
「そうだね。小テストは毎回、僕がオリジナルで作ってくるようにするよ。」
「分かった。」
「じゃあ、亮介と大介で頑張ろう!」
「おーーー!」
「じゃあ、おかあさんは晩ごはん、作るわね。」
「美味しいの、お願いします。」
「分かりました。頑張ります!」
 


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