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【短編小説】ファンファーレ

数年前、僕は海辺の町に住んでいた事がある。
 
ベランダの下に小さな砂浜は広がり、波の音が絶えず聞こえるような部屋に一人で住んでいた。
 
その頃僕は家で仕事をしていたので、一日中PCの前にいた。僕は朝型なので朝早くから仕事を始め、夕方になる前に仕事を終える暮らしぶりだった。
 
海の色が秋の始まりを教えてきた夕方の事。
誰もいない砂浜に大した調子っぱずれのファンファーレが鳴り響いた。
基本的に一度低く、しかも音を外しがちで、よく聞かないと原曲を思い出せないほどの酷い音だった。
 
僕はベランダに出て、砂浜を見た。
 
そこには中学の制服を着た小さな男の子がいた。中学生にしてはホントに小さくて、まだ小学生と言って、バスに乗っても通用しそうな感じだった。
 
彼は小さく細い体で長いトランペットを掲げ、海に向かって大きな音を出していた。
酷い音程、聞くに堪えないような音。
ノイズと言っては失礼だが、音楽とみなすのは難しいと言える不快な音だった。
しかし、彼は真剣だった。目は空の一点を見つめ、何度も何度もつっかえたところから忠実に練習を続けていた。
 
誰かが苦情を言い出すのではないかと思ったりした。
そんな事にはならなかった。
僕ももちろん、クレームを言ったりしなかった。
彼は、きっかり1時間練習すると、乗ってきた自転車で帰っていった。
 
それは平日、雨の日以外は毎日続いた。
毎日、練習を続ければ、ちょっとは上達しそうなものだ。
しかし、そうはならなかった。
彼の奏でるファンファーレは、いつも一度以上低く始まり、同じところでつっかえた。
あまりに同じなので、吹き出しそうになりながらも、僕はベランダで彼を見続けていた。
 
秋の長雨。
今週はずっと雨が降ってて、砂浜にトランペットが鳴り響かなかった。
夕方に聞こえてくるあの音が聞こえないのが、少々寂しく思えた。
 
雨が上がった、9月の最終週の夕方。
砂浜に、勇ましいファンファーレが鳴り響いた。
澄みきったきれいな音で、テンポもリズムも心地よく力強さを感じる完璧な独奏だ。
 
僕は慌ててベランダへ出た。
砂浜にはいつもの少年がトランペットを持って、佇んでいた。
遠目ながら、彼が満足感を噛み締めている様子が見て取れた。
そんな彼を見ながら、何故か僕も満足感に浸っていた。
 
「アンコール!アンコール!」
どこからともなく、そんな声が聞こえてきた。
僕のマンションの住人の殆どがベランダへ出ており、叫んでいるようだった。。それだけではなく、うちのマンションの周りを見ると、隣のマンションや一軒家からも人が出ていた。
みんな拍手をしながら叫んだ。
 
「アンコール!アンコール!」
 
砂浜の少年は僕たちの方を見て、ぎこちなくお辞儀をした。
そして、海に向き直り、トランペットを高く掲げた。
 
彼は再び勇壮なファンファーレを鳴らした!
 
最後の音に重なるように、大歓声と拍手の嵐が起きた!
 
吹き終わると、彼はまたこちらに向き直り、お辞儀をした。
みんな拍手をし、大歓声で讃えた。
 
彼は自転車で帰っていった。
みんなも家に入っていった。
僕も家に入った。
今夜のビールは格別美味いだろうと思った。

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