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オトナ未満(5)

中房(なかぶさ)温泉の駐車場でみんなと別れて、あたしと西村さんの無線班と真理子先生、副部長の長谷川さん、地学の秋山先生、科学部の二年生柏木信也さん、一年生の市原君と杉本君は燕岳(つばくろだけ)登山に向かった。
もう一人の無線班の佐野さんは安曇野散策コースに参加し、山と地上で連絡を取り合えるように別れることにした。
「なんかあっても、なおぼんたちがいたら安心ね」と、真理子先生が喜んでくれた。
「あたし、こんな高い山に登るのは初めてです。心配やなぁ」
「大丈夫や。小学生でも登ってるんやで。ほら」
西村さんの指さす方向には、夏休みを利用した子供たちのグループがわいわいと登山口に集まっている。
秋山先生が、
「燕岳は、北アルプスに属する山です。途中までは植生がありますが、植生限界を過ぎると岩肌も荒々しくなり、合戦(かっせん)尾根を伝って山頂に向かいます」
と、説明をされた。秋山先生は登山が趣味で、燕岳から穂高までの通称「表銀座(おもてぎんざ)」を何度もトライされているそうだ。
「途中に合戦小屋という休憩所があるから、そこで小休止します。じゃあ、出発しましょう」
秋山先生を先頭に、しんがりは長谷川副部長と山本真理子先生という八人のパーティだ。
あたしの重いRJX-601(50MHz帯ポータブルトランシーバ)は 西村さんが受け持ってくれた。
「おれ、借りてええかな。RJX、欲しかったんや」
「どうぞ、どうぞ。自由にお使いください」
あたしは、手ぶらで登りたかったんで、渡りに船とばかりに西村さんにトランシーバを預けた。
合戦小屋までが遠かった。
まだ植生があるのでうっそうとしている。
途中にベンチをつくってあって、座ることができた。
普通の登山と違って、やはり2000メートルを超える高山地帯らしく、息が苦しい。
合戦小屋に着くと、さっきの小学生のグループがやってきた。
「こんにちは!」元気に彼らがあいさつしてくれた。
「こんにちは」あたしたちも、思わず笑顔で返す。
山登りは挨拶がルールだ。
「どっから来たの?」
「名古屋。お姉ちゃんたちは?」
「大阪よ」
すぐ打ち解けられるのも、登山のだいご味なのかもしれない。

「なんか雲行きがあやしくないですか?」
あたしは空を見上げて真理子先生に言った。
「そうね。山の天気は変わりやすいから」
あたしはやっぱり、お腹がしくしく痛くなって.きていた。


西村さんは秋山先生について、先々行ってしまったようだ。
長谷川さんがゆっくり、あたしたちに合わせて歩いてくれる。
燕山荘(つばくろさんそう)付近で雨がぱらついてきた。
有明山(ありあけやま)が雲の中から山頂だけを見せている。
雲の下には安曇野が広がっているはずなのだが…
合戦尾根は岩場で、運動靴では滑りやすかった。
燕岳まではすぐだったが、その花崗岩からなる奇岩があちこちに出くわし、風化した花崗岩の砂で、足元も滑りやすくなっていた。
雨が激しくなってきた。
お腹も痛い。
「下りましょう」
秋山先生が休憩しているあたしたちに声をかけた。
立ち上がると、ごぼっという感じで体内から何かが出たような
「やばっ」
生理が始まったのだ。
燕山荘のトイレを借りようと、真理子先生に告げて足早に向かった。

「うわぁ、どうしよう。漏れちゃってる」
ナプキンが山歩きのためによれて、用をなしていない。
パンツどころかズボンにまで沁みていた。
新しいナプキンに取り替えるが、いかんせん量が多かった。
泣きそうになって、あたしはトイレから出た。
幸い、人は少なかった。
「なおぼん、だいじょうぶ?」
長谷川さんが声をかけてくれた。
よりにもよって、こんなときに長谷川さんかよ…彼になんか相談できないじゃないか…あたしは泣きたかった。
「あの、山本先生は?」かろうじて、そう聞くのが関の山だった。
「先に下りたかな。行こう。あ、ちょっと待って」
そういうと長谷川さんは自分のヤッケを脱いであたしの腰に巻いてくれたのだ。
なんで、こんなことをしてくれるんだろう?
あたしは高山病でぼうっとしていたので、あまり深く考えられなかった。
長谷川さんは、あたしを抱きかかえるようにして、一緒に歩いてくれた。
じきに山本真理子先生を認めた。
「山本先生!」
長谷川さんが、先生を呼んだ。
長谷川さんが山本先生になにやら耳打ちしている。
真理子先生が「ありがと、長谷川君は先に行っていいよ。あたしがついてるから」
と聞こえたようだった。
「さ、なおぼん、行こうか」
「うん」
あたしは、なんだか泣けてきた。
「なおぼん、しんどい?朝から、しんどかったんでしょ」
「うん」
「がまんしてたん?」
「おなかが痛くって…」
真理子先生はさりげなく、長谷川さんが被せてくれたヤッケをめくってお尻を見た。
「だいぶ、ひどいみたいやね。歩ける?」
「歩けます」
「ゆっくりでいいよ」
あたしは合戦小屋まで来て、だいぶ楽になってきたことがわかった。
息が苦しくない。
やはり空気が薄かったのだ。
そこに生理である。
泣きっ面にハチとはこのことだ。
そして、長谷川さんがしてくれたことが、霧が晴れるように理解できた。
「なんということ…」
あたしのズボンのお尻は血で染まっていたのだ。
それを見えないように、長谷川さんは自分のヤッケを脱いで隠してくれたんだ。
「先生…あたし」
「ええの、ええの」
ベンチで背中を抱いてくれた真理子先生。
「長谷川先輩のヤッケ汚しちゃった」
「洗えばええのよ、そんなの。あいつ、なかなかええとこあるやん。彼氏にどう?」
「もう、先生ったら」
あたしは、ふくれた。
「さ、いこか」
「はい」

下の道から長谷川さんが、戻ってきて、
「なおぼん、西村に無線で佐野と連絡取らせた。中房温泉からタクシーで先に宿に行こう」
「長谷川さん、ありがとう。あの…ヤッケ汚しちゃって」
「かまへん、かまへん。おれの妹が同じ状況になったことがあったんや。気にすんな」
そういうと、あたしを起こしてくれた。

下りは登りより、数倍早かった。
これが同じ道とは思えないくらいだった。

五泊六日のFSは滞りなく終わったが、あたしは夢を見ていたような気持ちだった。
気がつけば、長谷川さんの笑顔があたしの頭を占領していた。
「長谷川周(はせがわめぐる)…」
その名を口にすると、頬に血がのぼるのがわかった。

(つづく)

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