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アンコ椿は恋の花 (5)

海で溺れたことを祐介は父母には言わなかった。
というより、言えなかった。
りんに責任が及ぶとも考えられたし、元はと言えば、祐介の衝動的な行動が原因なのだから。
それに…塚谷ふじの唇の感触が祐介によみがえる。
気が遠くなるその先に、ふじのクルスが光って導いてくれたのだ。
「生きよ」と。

父が、夕飯の時に、
「あした、釣りに出掛けよう。梅原先生にも声をかけてな」と祐介を誘った。
「うん、いいね。道具はあるの?父さん」
「兄(伯父)さんのがあるはずだ。兄さんは多趣味だから、釣り道具にも凝っているんだよ。好きに使っていいと許しももらっているから、あとで物置に見に行こう」「うん」

「あたしもあした出かけます」と、母の民子が夫に言った。
「へぇ、何かあるのかい?」
「舟屋の奥さんから、ここの婦人会で椿油の催しがあるとかで、誘われてんですよ」
「そりゃ、おもしろそうだね。行っておいで」
「なんでも、椿油で天ぷらをすると美味しいんですって」
「びんつけ油だろ?食べても大丈夫なのかい?」
「それがあなた、結構いただけるのよ。それを教えていただくの」
母の嬉しそうな表情を見て、みなそれぞれに島の休日を楽しんでいるとみえ、祐介も安堵したのだった。
ラジオでは、台風が近づいているようなことを言っていたので、それが心配だったが…

暁が東の空を染める時、祐介は父、春信と磯釣りの支度を整えていた。
りんの母親が、握り飯の包みを持たせてくれた。梅原先生の分も入っていた。
「行こうか」「はい」
めいめい竿袋を肩にかけて、ブリキの魚箱を父が持った。
アメリカ製のテグスや釣り針、祐介が初めて見る「リール」という糸巻き装置まであった。
それはスウェーデン製の「アンバサダー(大使)」の別名がある逸品だそうだ。
「これはな、兄さんがマッカーサー元帥の側近から譲ってもらったらしいぜ」と、祐介は父から聞かされている。
伯父は、進駐軍の将官相手に巧みな英語で取引し、いわゆる「画商」として知られていた。
戦後、公職追放となった山階芳麿侯爵(昭和天皇の従兄、のちの山階鳥類研究所所長)の財産の一部を売却されるにあたって、伯父が手配して売りさばいたとも聞いている。
あの白洲次郎とも交流があるとも聞いている。

波浮の港街に出てくると、漁師町ゆえに、朝が早いと見えて活気があった。
そう言えば、この町で、祐介ぐらいの男子に、日中に会うことがなかった。
治次とその子分の二人にしか、ついぞ会っていないのだが、それはこの時間の街の様子で、祐介にもある程度分かった。
つまり椿油工房や漁師の家に生まれた彼らは、朝に夕に親の手伝いをし、昼間は寝ているらしいのである。
十六、七で学校になど行っている子はいない。そんな余裕はないのである。
小学生ぐらいの子が港で遊んでいるのには祐介も出くわしたことがあった。
女の子にとっては、もっと切実で、「アンコ姿」で、椿の実の収穫や水汲みをしながら、十六、七で嫁に行く子も少なくないと聞く。
昨日、りんたちとそんな話をしたばかりだった。

「祐介、こっちだ」
父が、二股になった道を梅原医院のほうに導いてくれた。
「あの、大きな芭蕉の木がある建物が先生の診療所だよ」
父は、おとといの浜焼きの宴のときに、今日の釣りの話を先生と取り付けていたらしい。
石段を登って、錆びた鉄扉を押し開けると、「梅原医院」と書かれた板の看板が玄関の上に横に打ち付けてあった。
何度か外れた形跡があり、斜めに歪んでいた。
「おはようございます。梅原先生!」
父が、呼ばわると、奥から先生が、よれよれの紬の姿で出てこられた。
「いやぁ、昨日、ちょっと飲んだんで、今起きたとこだ。しばらく、上がって待っててくだされ」
なんてことを言いながら、待合の長いすのある部屋に通された。
壁には予防接種の張り紙だの、手洗い励行の張り紙だのが見える。
祐介と父は荷物を下ろし、とりあえず、その長いすに腰かけた。
「めしは食ったか?」と先生。
「はあ、食べてきました」父が答える。
「家内が、まだ寝ておるので、わしはちょっとめしを掻っ込むので、ちょいと待っとって」
「どうぞ、ごゆっくり」
そのとき、東から朝日が診療所内に差し込んできた。ご来光だ。
祐介は神々しい、朝日を顔に浴びながら、今日の釣果を期待した。
「先生の分のおむすびもお持ちしましたんで」「そりゃかたじけない」
釣りの用意は昨晩されていたようで、先生は、すぐに支度ができた。
「では、行きますかい。穴場にご招待いたそう」
にんまりと笑みを浮かべて、梅原先生は着流しの膝からげと草履といういでたちで現れたのである。
まるで水墨画の中に出てくる釣り人のようだった。

波浮湾の西側に沿って道がある。途中、よろず屋で先生は、餌の小エビの塊りを買い求められた。
島の南岸は、崖や荒磯が続く絶好の釣り場なのだそうだ。
そこへ至る道中、梅原先生が「ここは、文人墨客がたくさん訪れたんだよ」と祐介に教えてくれた。
与謝野鉄幹・晶子夫妻、川端康成、林芙美子そして『波浮の港』の作詞をした野口雨情らの句碑や歌碑のことを祐介に話したのだった。
「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る…」と歌ってくれもし、「この島にはウミウはおらんのだけど、雨情先生は想像で詩を書いたらしくって、そんな歌い出しなんだな、これが」と、 独り言のようにつぶやいた。
名門の誉れ高い開成高校生である祐介は、当然、彼らの本も読んでいたので、とても先生の話に興味を持った次第である。
「先生、川端康成の『伊豆の踊子』を春に読んだんですが、あの踊子はここ大島から伊豆半島に来たんですよね」
「祐介君は、読書家じゃの。そう書いてあったな。あの子は、生まれは神津島だったはずじゃ」
「神津島?」祐介には塚谷ふじのことが頭をよぎった。しかし、『伊豆の踊子』の踊子「薫」は、甲府から大島に越してきたと書いてあっただけで、神津島生まれとは書いていなかったと祐介は記憶していたが…
「たしか、そうじゃったと思うが。わしも耄碌(もうろく)が進んで勘違いしておるかもしれん、また帰ったら祐介君が確かめてみてくれ」
「あ、はい」
そんな話をしているうちに、太平洋が眼前に開けた丘に出た。
「そのへんから海岸に降りることができるはずじゃ」と先生。
達者な足取りで、磯の岩の間に消えていった。
祐介と父は置いて行かれないように、先生に続いて、おっかなびっくりついていく。
五メートルは落差がある崖だったが、下には荒磯(ありそ)が波に洗われている。
引き潮のころあいなのか、乾いた貝類が露になって乾いている。
父と先生が「このあたりを試そう」と、適当な台座のような岩に荷物を下ろす。
祐介も竿の袋を腕から抜いて、竿を振り出す。祐介は鮒釣りはしたことがあっても、海釣りは初めての経験だった。

梅原先生にグレ釣りの仕掛けの作り方を教わり、祐介も磯釣りに挑んだ。
本来グレの季節ではないのだが、産卵期を終えたグレは夏に食いつきがよくなると先生が言うのだった。
「ふかせ」という浮きを使った仕掛けで、岩場はグレの隠れる場所が豊富で、投げ釣りのように海底に沈む仕掛けは根がかりしやすく用いられないという。
「浮きで仕掛けを宙づりにするのさ」と先生が解説してくれた。
「グレは引きが強いから、岩の裂け目に逃げ込まれないようにしないと、仕掛けを切られるぞ」と父も祐介に忠告してくれる。
先生の竿は中通し竿といって、竿の中に道糸が通っていて、手元の横穴から道糸を出して、二本の杭のような横棒に道糸が巻かれている変わったものだった。
つまり「リール」というような洒落たものは一切使わない、古式豊かな道具なのである。
「わしは、機械は苦手じゃ」と言って、巧みに竿を操っている。
エサは小エビで、先生は「アミエビ」と呼んでいた。そして「撒き餌」としてその小エビを杓で海面に撒くのである。
「こうしてグレのやつを呼び寄せるのよ」というわけだ。
それでも一向にグレどころか、何の魚信(あたり)も祐介には感じられなかった。
次第に退屈してくる祐介だった。
釣りなどと言うものに、祐介は向いていないのかもしれなかった。
父や先生もてんでに自分から好きな場所に移動してしまい、祐介の視界から消えてしまっていた。
ふと、祐介は、岩場の陰に小舟がもやってあるのを見つけた。
そこは小さな入り江になっていて、緑色の水をたたえた六畳ぐらいの明るい砂場だった。
そして…祐介は見た。
りんと治次(はるじ)が裸で砂の上で抱きあっているのを。
祐介は固まった。
心臓が割れんばかりに早く打つ。
口はからからに乾き、唾も飲み込めないほどだった。
りんの豊かな胸が、治次の逞しい胸板に押しつぶされて、二人は唇を貪り合っている。
りんが、半眼で治次の頭を両手でつかむように、彼の短く刈った後頭部を掻いている。
そしてなによりも、太いペニスがりんのあの部分をえぐっているのだ。
そう、ふたりはつながっていたのだった。
「ああ、性交をしているんだ…あの二人」十六の祐介にはわかりすぎるくらい衝撃的だった。
二言、三言、言葉を交わしながら、治次はりんのくびすじや、砂のついた乳房を舐めまわしている。
砂が口に入るのもお構いなしだった。
祐介も完全に勃起していた。
彼が隠れている岩の陰から二人までの距離は一間ほどしか離れていない。
それも二人の斜め後ろから眺めているので、りんが足を上げると結合部分が丸見えになる。
祐介は自分の下着の間から、硬く立ち上がった分身を出してしごいた。
治次が激しく腰を入れて、りんを突き上げると、りんがあの聞きなれた声で治次の名を呼ぶのだ。
「はるじぃ!もっと、もっと突いてぇ」
そう聞こえた。
治次の赤黒い男根が、りんの体液で朝日に輝く。
大きく押し広げられたりんの性器は、痛々しそうに見えた。
治次が腰を引こうとすると、りんが逃すまいと治次の逞しい腰を両足で挟む。
両手を上げてりんの体がのけぞり、腋の毛があらわになった。
砂地は二人の激しい行為で、掘り起こされている。
「りん、月の物は?」「ううん、まだ」「じゃ、あぶねえな。外に出すか」「そうして…」
祐介は、そんなやりとりをはっきりと聞くことができた。
祐介もりんと体を重ねているような錯覚をしつつ、自慰行為にふけった。
幸い、潮騒の音が、荒い息や行為の音を打ち消してくれる。
治次の動きが激しくなり、獣のように吠えたかと思うと、すばやく腰を引いて勃起を抜き去った。
うぐっ…
のどの音を残して、治次がりんの腹の上に真っ白なうどんのような太い精液を飛ばしたのである。
ドクン、ドクンと、男根をしゃくりながら…

そしてほどなく、祐介もどろりと岩の上に射精した。

ふたりは砂の上でしばらく寝ているように動かなかった。
しぼんでもまだ大きな治次の性器だった。
祐介は、そっとその場を後にした。
りんへの想いががらがらと崩れていくようだった。
「ぼくと何が違うのだろう?」自問自答しながらも結論は「自分がまだ子供なのだ」ということに落ち着かざるを得なかった。
恋に破れるということは、敗北感にさいなまれることなのだ。
強い男に女は惹かれ、その男の種を宿すのだ。
祐介は釣りどころではなくなってしまった。
(つづく)

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