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ジャン・チャクムル最新インタビュー(3) コンサート生活と教育者としての生活を両立する道を探して


ソーシャルメディアも定期的に利用している音楽家でらっしゃいます。あなたにとってソーシャルメディアは、一ピアニストの視点からどのような利益と、もしあるなら不利益を生むでしょう?

ソーシャルメディアは告知のために必要な程度に利用しています。時折シェアしているYouTubeチャンネルと、よりまとまった形で利用しているTwitterアカウントがあります。Facebookのアカウントはごくまれに利用しています。それ以外のソーシャルメディアのアカウントは持っていません。シェアする際は、エージェントやコンサートのオーガナイザーと連携する形で行っています。ソーシャルメディアはよく切れる両刃の剣です。効果的なコミュニケーションツールになり得るのと同じくらい、人の認知を深刻な形でゆがめることもできるのですから。

ジャズピアノも弾かれますか?クラシックピアノ以外で、ジャズはあなたにどのような感覚を呼び起こしますか?

いいえ、残念ながら。ぜひ弾いてみたいとは思っていましたが。たぶんいつかそのうち・・・

クラシック・ミュージックとジャズ・ミュージックは互いにきわめて浸透性が高いと思います。あるジャズグループの和声的骨組み、その演奏における”スウィング”、重要な音符と重要でない音符の区別、そして装飾における即興はすべて、17世紀バロック音楽の中にも見出せる要素です。この構造的な類似性が、音楽に共通の根があることの印であるか否かは分かりませんが、今日それぞれが背中を向けた状態になっている2つの伝統が、本来は同じメダルの2つの面であることは明らかです。

では、トルコにおいてクラシック音楽は、いまだに「エリート主義者」の関心領域とみなされ続けていると思いますか?

クラシック音楽がエリート主義者の関心領域から抜け出すためには、コンサート文化が根本から変わる必要があると確信しています。20世紀を通しそして今日まで、クラシック音楽は自らを、今日とは異なる時代の模倣が行われる博物館に閉じ込めてしまいました。この状況の成立においては、趣味として音楽をやる音楽家の数が減り続けていること、さらには居なくなったことも影響していると考えています。人が芸術との間に結んだ絆は、博物館に置いてある触ることのできない鑑賞用の見本に覚える感動にも似た関係に変容してしまった状態です。私たちはモーツァルトやバッハ、あるいはダンテやゲーテがいかに唯一無二で崇高な存在であるかを繰り返しますが、ちょうどバルトークが歌劇「青ひげ公の城」の最後の場面で描き出したような形で、私たちは彼らの存在を抑圧下に置いているのです。思い出す必要があるなら、青ひげ公は妻に、宝石の散りばめられた外套と被っていられないほど重い冠を着せ、身動きの取れない状態にしてしまいます。ある意味、妻をこのような形で幽閉してしまうのです。私たちもこれと同じような形で、クラシック音楽を過去の博物館に幽閉し、人間や社会に関する彼らの観察を前にして、聞こえない耳と見えない目をもって無反応なままでいるのです。

パンデミック期間をどのように過ごしましたか?作曲は行いましたか?

パンデミックの間、数多くの作品を新たに知る機会がありました。音楽演奏の歴史について、かなり集中して本を読みました。これ以外には、リチャード3世、ハムレット、そして特にマクベスの解釈や分析を観ました。長いあいだ頭の中で思い描いていたものの、そのための時間を見つけることができなかった2つのアクティビティに時間を割くことができました。その1つ目は、易しいレベルの日本語を覚えるということ、2つ目は高校時代のままになっていた有機化学の知識をアップデートすることです。自分の生活におけるとても大きな変化としては、昨年のうちに魅力にはまってしまったのですが、長距離走に目覚めたことです。ただし現時点では、音楽哲学的観点から重要な分岐点にいる自分にとって、作曲を行うことは考えることさえできません。たぶんある日、何らかの音楽的ドグマに自分が属していると感じられたなら、かまわないのではないでしょうか?

拍手喝采が懐かしいですか?コンサートホールや聴衆が夢に現れますか?

本当のところ、いいえ。プロの音楽家としてステージに立つことは私たちの仕事の大きな部分を占めますが、自分が音楽をやる目的はステージに立つことではありません。パンデミックの過程で、自宅で独りきりの時、自分の演奏の質の良し悪しさえ気にすることなく、夢中になって例えばバッハの「平均律クラヴィーア曲集」を弾いたことは、本当に、私たちが守るべきアマチュア精神の勝利でした。

いずれかの組織的支援を利用したことがありますか/利用していますか?

2013年からトゥプラシュ(トルコ石油精製株式会社)が財政的支援を行う、ギュヘル&スヘル・ペキネルの「政界の舞台に立つ若き音楽家たち」制度の一員です。これは自分にとって大きなチャンスでした。というのもギュヘル&スヘル・ペキネルの指導とこの組織の支援のおかげで、ヨーロッパで教育を受け続けることができ、自分の音楽人生のターニングポイントで彼女たちの助言者としての力を借りる機会を得ることができたからです。

ヨーロッパ全域にまたがる数多くのコンサートホールでコンサートを開き、コンサートを聴かれましたね。では、建築的かつ音響的に「忘れがたい」ホールはどこでしょう?

あるコンサートホールが自分に残した影響というのは、議論の余地なく他のホールに比べてより大きなものでした。それは、日本の札幌市にあるコンサートホールKitaraです。ここで2度演奏し、1度はコンサートを聴きました。自分がこれまで経験したどんなホールでも、ここまで音がダイナミックかつ鮮明に聴衆に届いた記憶はありません。演奏した2度のコンサートとも、舞台の上で自分が最も自由に感じられ、最もリラックスできたコンサートでした。このホールはサイモン・ラトルによれば、世界一のモダン・コンサートホールなのだそうです。

ルネサンスという人がいればバロックという人も、ロマン派の時代という人もいます。音楽史のなかで最もその時代に生きたかったとあなたが望むのはどの時代で、その理由は何ですか?

正直に言うならば、リストの晩年にヴァイマルにいた彼の弟子の1人であったならと強く望んだものです。リストは、議論の余地なく、本人と知り合いになり、本人の目の前で居合わせたいと最も望む音楽家です。リストに関して私たちの手に引き継がれた原典資料はあまりに膨大なので、まるで彼の健康で生き生きとした姿を目の前にしているような感覚をおぼえずにはいられません。お分かりになったように、その時代に、音楽史の未来に道筋をつけたその議論の中心にいることが、私が事あるごとに空想するものなのです。

トルコでは最近、子ども音楽家を次第に目にするようになりました。これについて、どう考えますか?この需要と供給のバランスは、今後どのように推移するでしょう?ピアニストのあいだで頭脳流出を促すことになるでしょうか?

この状況は、おそらく音楽的な観点からは、西欧との接触が頻繁に行われるようになった結果であり、自分にとってはポジティブな発展です。音楽家たちがトルコからヨーロッパに学びに、演奏をしに行くことを頭脳流出とみなすことが正しいかどうかについては、自分には確信が持てません。音楽家という職業はあまりにもインターナショナルな職業になったため、音楽家の活動している地域が常に居住地であるとは限らないのです。自分が属している世代とそれ以降の世代は、世界の音楽シーンで活動するのと同じくらい、トルコの音楽シーンでも活躍するだろうことは疑いありません。この変化と文化交流は、残念なことに次第に内向きになっていく我が国にとって、極めて重要だと思います。

これから先、音楽的観点からいって、あなたの人生における第一のゴールは何になりますか?

この質問は、最初にいただいた質問と結びつけることができます。現在、自分が解消しようとしている最大のジレンマは、モダンな生活とクラシック音楽がひとつにまとまり得るかどうかということです。このジレンマは実務的であると同時に哲学的でもあります。実務的には、「自分の信念や考えに背くことなく、どうしたらコンサート生活と教育者としての生活を両立することができるか?」という疑問に対する答えを探しているところです。哲学的には、この質問は「クラシック音楽が社会制度にもたらした批判は、どの形式ならステージあるいはレコーディングスタジオで具体化しうるか?」という形で現れます。


(本稿は、2021年5月21日付〈Menekşe Tokyay’ın kaleminden—Yazmak özgürleştirir.〉に掲載されたトルコ語インタビュー全文の日本語訳です)


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