右とか左とかそんなに大事ですか?

いまの日本で政治的な(つまりは反政権的な)話題がタブーとされるのもわからぬでもない。意見が食い違ったときに、ほぼ100%音信不通となる。わかっていながら、身近なところにふんわり切り込んだときに、相手が私を評して言った言葉を並べてみる。

【ネトサヨ 左翼 赤 重信房子(日本赤軍リーダー) テロリスト etc】

私は自分の思想を何かジャンル分けしようとは思っていない。そんなのどっちでもいい。ただ曲がったことが嫌いで、弱いものイジメが嫌いで、誰かの犠牲の上に成り立つ誰かのシアワセは嘘っぱちだと思っている。たまに、正義感を持て余して空回りする。その程度。私にそういうレッテル貼りをした方々の発言を検証してみよう。

<ケース1>
「日本のリベラルは、ヘイト批判が、それ自体ヘイト発言となっている滑稽さを自覚できない人達です。リベラルの核心である’寛容’の精神的構えが決定的に欠けています。リベラルも一枚岩ではありませんが、ただ一点、安倍政権打倒で繋がっています。なぜか?戦後の歴代首相で彼だけがこれだけ長く、確信をもって改憲を訴えてきたからです。安倍首相の傷になることは、なんでも取り上げ、集中的に攻撃する。これがテレビメディアの現況であり、洗脳のドラマとなっています。全体主義とかファシズムに向かっているのは、日本や世界全体ではなく、中国であり、北朝鮮であり、ロシアなのです。(中略)いずれにせよ、山本太郎は、私が嫌いな国会議員の一人です。」(元国立大学教授)

※長すぎるので一部省略しています

私の反論を述べる。

ヘイトを「言論の自由」「表現の自由」と肯定するとは、日本の人権意識の低さを象徴している。憲法が保障する自由には、たとえ私人間であっても「公共の福祉に反しない限り」と人権の調整がなされるべき。ぶつかりあう人権と人権をみたときに、それを制限することによって生じる利益と、制限しないことによって生じる利益を比較考量する必要がある。一方的に、一定の人種、カテゴリーに属する人を侮蔑することを放置するのは’寛容’とは言えまい。

リベラルが主義主張の差によって一枚岩になれないときも確かにある。がしかし、'政権バンザイ'で繋がっている人達は、芦部信喜も知らずに、日本国憲法はいじましいの一言で一枚岩になれるらしい。憲法に縛られる権力者が提唱する滑稽な改憲に異論を唱えないのは、戦場で死ぬのは自分ではないという自信からくるのだろうか。

報道の自由度ランキングは今年も世界で67位。テレビで'操り人形コメンテーター'がもてはやされ、芸能人の不倫や薬物使用が執拗に叩かれ、’日本人すばらしい’という内容の番組が高視聴率をとり、’復興五輪'の名のもとに未曾有の災害などなかったかのように振る舞う国を評するにあたって、確かに'洗脳'に匹敵するといえよう。

アメリカ追従 仮想敵国の脅威を煽り、戦闘機を爆買いする一方で、年金破綻は国民の自助努力に任せると。これでもまだ日本は先進国だというのか。

’政権バンザイ’の人にとって山本太郎議員の指摘がそうとう手痛いところをついているということもよくわかった。

これは、私の主戦場の記録の1つにすぎない。

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