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【翻訳紹介】「剥製(iškamša)」

【翻訳】
「剥製(iškamša)」
詩 アウシュラ・カジリューナイテ(AUŠRA KAZILIŪNAITĖ)
訳 木村 文
詩の原文と翻訳:

詩人による朗読の様子

この詩は一見無害に見える存在(=剥製)に蝕まれてから回復するまでの孤独なプロセスを辿ったものである。
剥製は、最初に見つけたときには印象にすら残らないものであることをはじめの連では描写している。

ある日ゴミ置き場のあたりで取り残された鳥の剥製に気づいた/気がついてそして忘れた、けれど向こうは私を忘れることはなく、それどころか追いかけてきた––

「剥製(iškamša)」

しかし、行を追うにつれて、「私」は剥製が気になっていく。何かを話すことも、接触を図ることもない。剥製は無言のストーカーであり、トラウマでもある。他者からは、「無害」であり、気になっている本人以外には気づかれることさえない。けれど、いつの間にか「私」の意識の中にまで入り込み、「私」を追い詰めていく。

それからは夢の中でも剥製を見かけるようになって、そのせいで夢の中ですら休めなくなった/ほとんど何も考えなくなって、ほとんど何も食べなくなって、ほとんど存在しなくなった

「剥製(iškamša)」

具体的な暴力に晒されていないゆえに、「私」の苦しみは気づいてもらうことも、理解してもらうこともできない。自分ですら気づいていないのだから、詩の中で「私」は苦しみを訴えることもない。その代わり、休む・考える・食べる・存在する、といった生きる根本が欠けていく様子の痛々しさを読者は感じる。

近づいて、掴んで、できる限りの力で壁に投げつけた。けれど、そこは壁ではなく鏡だと気づいた

「剥製(iškamša)」

この詩の結末は、ある種のハッピーエンドである。しかし、読者が受け取る感情は救済の喜びではない。自分に入り込んできた剥製への怒り、傍観者だった周りへの怒り、何でもないものに支配されてしまった自分への怒り、そういった諦めに似た怒りであろう。

Lyrikline.orgでは詩人本人による詩の朗読を聞くことができる。詩人の声を通してこの詩を聴いていただきたい。

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