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「ありがとう」は、たまにでもいい


ミートパイ


いかにも外国の料理!って感じるものっていくつかあると思う。ケバブとか、サテとか肉料理に珍しいスパイスを振ったものが多いのではないかな。
私の場合、それはミートパイだ。


パイといえば、日本ではいつもデザートである気がする。
煮リンゴを入れてアップルパイ。洋梨をいれてみたり、ベリー類もいい。カスタードパイなんていうのもある。


でも、ミートパイはうまい。本当にうまい。


2年前に作って見たことがある。肉汁が多いために、パイの下面(パイ、肉、パイとなるんだけど、その下に敷いた部分)がべちゃっとなった。


ピザ生地にトマトソースが染み込んでパリッとしないのと同じだと思い、次回は軽く油を塗ってから肉をのせたらいいかもしれないな、とおもった。


ミートパイ。
すごく外国みたいだな。
すごくジャンキーな感じ。それが好きだ。


私はアメリカの不健康そうな料理に憧れを抱いており、いつかアメリカに旅行に行って円盤みたいなバーガーに噛みつき、バケツみたいなコーラを飲みたいと思う。
きっとおいしいだろうと思う。




弟は犬が好きで、すごく我が道を行くタイプだ。
弟がいなかったら、犬を飼うことにはならなかった。


彼の駆け引きはとても特徴的で、すごく静かで強引。自分の意見をぜったいに押し通すけれど、口論はしない。脅しもなし。

なのに、相手に「こりゃあいうことを聞かないとまずいな」って思わせる。喧嘩腰ではなくて、ただ本当に静かに、何も話さず、それをやってのける。


今回、愛犬が死んでしまったということで、弟は結構慌てた。
泣かなかったけれど、冷たくなった犬を見て何か考えていたようだ。


弟は泣かない。泣いたのを見たのは1回だけだ。うちの両親が離婚をすることになった時。


厳密にいえば、離婚がなかなか成立しなくて母さんと父が弁護士を交えて話し合った時、子供も同席しなければならなかったときがあった。


想像すればわかると思うけど、そんなシチュエーションはきつい。弟は中1だったはずだ。学ランを着て、泣いていた。


次の日が期末テストで、弟は全然点数が取れず追試験と補習を言い渡された。しかし、追試と補習さえやれば、勉強なんか全然しなくても進級ができる、と味をしめた弟は、その一切、勉強をしなくなった。


うちの弟を見ていると、すごく楽に生きてきただろうと思う。
楽に生きている人なんていないという意見もあるだろうけれど、多分、うちの弟は楽に生きている。


弟は、壁に当たらない。
だから壁も乗り越えない。
人ができないことをできるようになるために、少々時間がかかり、しかし苦労はしない。


苦労は買ってでもしろ、というのならうちの弟はストリートで安く売り叩くんだろう。そして、それで稼いだ金でしばらく遊んで、金が尽きた頃にようやく重い腰をあげるようなタイプ。


するとだいたい、壁はない。先人によって壊されている。
挑戦しているのは自分だけではないのだ。

だから、その後を楽々通る。そういう生き方をどうかと思ったこともあったけど、いまはいいな、と思う。彼らしい。飄々としていて、潔い。
いろいろ上手いな、と思う。



美味しかったです、ありがとう

「うまかったよ、手間がかかるだろうにわざわざありがとう」と弟に言われたことがある。それが結構嬉しいものなのだ。
それも結構頻繁に言ってくれる。


だから私も、言うことにしている。最初は意識的にしていたけど、今はもう癖みたいなものだ。相手が誰でも。なじみの喫茶店などでも、チェーンの牛丼屋でも「うまかったです、ありがとうございました」と言う。

すると一緒にいた友人が、


微熱さんってストーカーとかよく引き寄せるんじゃない

と言って心配していた。ありがとう、といいすぎるもんじゃないよ、と。


牛丼屋でお礼を言うと、ストーカーに目をつけられるということ?未だにこれがよくわからないけど、ラーメン屋とかで言うととても喜ばれるし、実際にとてもおいしいわけだから言わない理由はない。


ありがとうと言う人

母さんはきっと、私たちにこういう風に育って欲しかったんだと思う。
ありがとう、と自然と言える人に。
だから悪いことをしても、何も言わなかったんだろう。


弟も姉も(特に姉はすごい勝気な性格で「ごめん」は死んでも言わないけど)小学生の頃から、ありがとう、とよく言った。恥ずかしがる様子はなく、いつもそう言っていた。

私もそれに習ってきたように思う。
だからうちの家族が集まると「ありがとう」の嵐になる。


ありがとう、は大事だ。でも、それに疲れたりするのは良くない。出来るときで言い、たまにでいい。ありがとうと言おうと思う。


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