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3階のマーマレードジャム

これは私がドイツのケルンに住んでいた頃の話です。今から7年ほど前になりますが、読んでくれたら嬉しいです。


ウラは60歳のドイツ人のおばさんだ。私と同じアパート、3階に一人で暮らしている。物静かで内気なのに、一度仲良くなるとなんでも話したがる不思議な性格をしていた。



心を開くのに、人より時間がかかるだけよ。それ以外は、全く正常だわ。



正常だわ、というのが彼女の口癖だった。誰とも口をきかず、ハスキー犬と住む彼女は自宅でライターの仕事をしている。スーパーに行く時も、郵便局へ行く時も、ハスキーは一緒だった。


彼女は、スーパーと郵便局以外は出かけない。いつも同じ服を着て、きっかり同じ時間に寝起きし、毎日同じものを食べて、同じドラマを見る。
それ以外のことはしない。

まったく“正常”な女性だ、と近所の人は彼女を茶化していた。



さて、そんな彼女がどうして私の友達になったのか。きっかけはマーマレードだった。



私は5階に住んでいた。スーパーから帰り、階段を上がっていると、3階のちょうどウラの部屋の前で紙袋の底が破れた。
買った品物は床に散らばり、マーマレードジャムの瓶がそこで割れてしまった。


騒ぎを聞きつけてウラが飛び出してきた。
ちゃんと片付けますから、というとウラは



とんでもない。うちのハスキーが瓶のカケラでも踏んだら大変だわ。ありがた迷惑よ。私がやる。


私は、そのとき、初めてのドイツでの仕事を終えたところだった。ドイツ語がわからず、右往左往する私を同僚が見てため息をつく。それの繰り返しだった。帰り道は自転車を滑らせて転ぶし、スーパーで買い物をすればこのザマだ。いつもよりいいジャムを奮発して買ったのに、それも割れてしまった。私は不覚にも泣き出した。


ウラは慌てる。
別にあなたが掃除をちゃんとしないと疑ってるわけじゃないのよ、わたしは、


間を開けて恥ずかしそうにいう。
私はちょっと神経質なところがあるの。

そして瓶を片付け始めた。

私はどうしたら良いのかわからず、ただ階段に座りその様子を見ていた。



ウラは鼻をふふん、と鳴らした。

奮発したわね。

最初、なんのことかわからなかった。

でも、もっと美味しいのがあるの。入りなさい。

彼女がちら、と私のズボンと靴を見たのを私は見逃さなかった。家を汚されるのが嫌なのだ。
左官をしてるのね。女性には珍しい仕事を選んだわね。


着替えてきます、というと
いいからすぐ入りなさい、と今度は厳しく言われた。


せめて靴を脱いで入った。


彼女の部屋は一人で住むには大きすぎる。ベットルームに2つの居間、それに10畳のキッチン、バルコニーまでついていた。
ここには30年住んでるのよ。自分の好きなものだけを集めて、それに囲まれて暮らしているの。


たしかに、キャビネットやテーブル、椅子や食器、カトラリーや調理器具まで全てこだわり抜かれた様子だった。どれをとっても高そうなもので、私はへまをしないよう、抜き足差し足でキッチンに入り、奥の椅子にちょこんと座った。


まってて。
彼女はお湯を沸かし、棚から瓶を取り出した。小さな白い花が入っている。カモミールだ。
泣いちゃった夜はこれがいちばんいいの。あなた、今日、悪いことが重なったんでしょう。


こぽこぽとティーポットにお湯が入っていく。ふわり、とカモミールティーの香りが鼻先まできた。

カシャン、とトースターから2枚の黒麦パンが飛び出す。パンは楕円形をしていて、ウラはそれを手にちょうど沿うように乗せ、そこにたっぷりバターを塗った。バターは冬のキッチンで室温に戻されていて、熱くなったパンにしっとりと馴染んだ。


ここからがいいところなの、と言わんばかりに私をみて、おもむろに冷蔵庫を開けた。

うわあ、と私は声をあげる。そこにはジャムの大瓶がびっしり並んでいた。


見てもいいわよ。というので近くまで行ってよく見る。そこには、ラズベリー、ブルーベリー、いちご、レモン、りんご、ルバーブ、ありとあらゆる果物のジャムが並んでいた。
その中からオレンジ色に光る瓶を取り出し、これこれ、と呟く。


スプーンにたっぷりとすくい取って、バターのしみたパンの上にポトリ、と乗せた。


あなた、手洗ってきなさい。もうできるわよ


慌ててバスルームへ行く。戻るとウラは席についていた。カモミールティーの横に、トーストが置かれていた。
トーストには、キッチンの濃いオレンジ灯の光がきらきらと当たる。たっぷりとしたジャムがそれを反射して、まさに黄金のトーストだった。

さ、早く食べましょ。熱い方が美味しいの。お茶も、パンもね。

いただきます、を手を合わせる私を不思議そうに見て、彼女は大胆にパンにかじりつく。


私も遠慮なく、ひとくち。ネーブルオレンジだ。厚い皮に酸味、甘み、苦味のすべてが凝縮されている。とろとろのオレンジの砂糖が黒麦パンのしっかりした組織の中にゆっくり染み込んでいく。美味しくて、もう、無我夢中で食べた。


次の一枚、とウラは立ち上がって、振り返る。あなたはどう。

私は、口に含んだまま、うんうんと頷く。

でも、ききたいことがあるの。

NEKO、と彼女はいう。
これ、なんの意味だか教えてほしいの。

カッツェ。私は即答する。それを答えるだけで次の一枚がもらえるならいくらでも言う。
猫っていう意味だよ。

彼女は、うわあ、と顔をほころばせ、そうだったのお、と頷く。ようやくわかったわ。ありがとう。グーグルじゃなくて、日本人から聞いて知りたかったの。


彼女は次の一枚をラズベリージャムにした。私は迷わずマーマレードをお代わりした。カモミールティーを3杯もおかわりして、元気になった私は、お礼を言い立ち上がる。


またきていいのよ。ウラはいう。
私、こうして一人で住んでいて、誰とも話さないから他の人はなんと言うでしょうね。でも、まったく正常だから。




それからも、ウラと会う日は続いた。
平日は私の仕事の帰りが遅いし、ウラは必ず観るドラマがあったから会えなかったけれど、休日は必ずと言っていいほどお茶に誘われた。その度に、パンの上にたっぷりとその日の気分に合ったジャムを塗り、頬張った。
私たちは色々なことを語り合った。ウラは、昔スウェーデンに住んでいたこと。婚約者がいたこと。婚約がだめになって、ドイツへ戻ったこと。それから誰とも口をきかなくなったことをすらすらと、まるで暗記文を読んでいるように話した。

これでもね、実は結構おしゃべりなのよ。

早朝のハスキーの散歩に付き合った。いっしょに他のドイツ人の悪口を言ったり、北欧に思いを馳せたりした。私たちはいい友達だった。




ウラが自分を正常というように、私もまた、自分は正常と彼女に言い張った。しかし、本当はそうではなかった。


気付いた時には一人では生活ができなくなり、1ヶ月の入院を余儀なくされた。医師からそれを伝えられた日の夕方、私はアパートに荷物を取りに帰った。そこでウラとばったり鉢合わせたのだ。


どこにいくの。私はギクリとしたが、平静を装って答える。

1ヶ月ほど、日本に帰るの。

あら、それはまた急だわね。彼女は何も知らずにいう。

ご両親によろしくね。帰ったらまた、お茶しましょう。


彼女にしてはすんなり別れるので、内心ホッとした。いつもならば、ハスキーを撫でてと言ったり、郵便屋の愚痴を言ったりするのに。



わたしは、精神科の救急病棟に1ヶ月滞在し、ありとあらゆる薬を飲んで、ありとあらゆる医療従事者と話をした。ドイツ語がままならないのでイライラされ、冷たくて硬いパンと安いジャムを毎日食べた。



ぼーっとベッドの上で過ごしていたら1ヶ月なんてあっという間だ。突然、退院許可がでて私のベッドは早々に片付けられた。


帰ると家のドアの前にウラが座り込んでいた。ハスキーも一緒だ。
ウラはよいしょ、と立ち上がると私を睨んだ。しまった、とおもった。


あなた、私に嘘をついたわね。
ほんとは日本になんか帰ってないんでしょう。


ドイツ人のおばさんの勘は鋭い。いや、相手が何人であろうと私の嘘なんか見透かされてたのかもしれない。


恥ずかしくて。本当のことを言ったら、きっとウラが驚くと思ったから。

じゃあ聞くけど、本当はどこにいたの。

それは言えない。

どうしても?

どうしても。


私は、さきほどまで自分がいた場所のことを恥ずかしく思っていた。自分の病気のことを、人にはない症状をもち、それを抑えるために薬を飲まなければならないことを恥じていた。一人になると突然泣き出すことや、嗚咽が止まらないことを何としても隠したかった。自分の持っている何もかもを、誰にも知られてはなるまいと思っていた。

ウラは、下向いて、押しつぶしたような声を出して言った。

それならもう、友達ではないわね。

そう言って、ウラは3階へ降りていった。


日本に帰らなければならなくなったの。
その背中に向かって言った。振り向かないことは知っていたけれど、これだけは言っておかなければならない気がした。



その後も時々、地下室などで姿を見ることがあったがお互い話しかけなかった。
気がつけば私のフライトの日は近づいていた。迷ったが、ウラにはあいさつをせずにアパートを後にした。


あれから、ウラの真似をして、たまにネーブルオレンジのマーマレードを作る。味も風味もかけ離れたものなのに、彼女と過ごした日々を思い出す。

ウラは今ごろ、どうしているだろうか。




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