「人生が楽しい」って言ってもいい場所
それがnoteなきがする。
noteという場所が、リアルも含めてほかと圧倒的に違うのは、何だろう。そう考えた時に
「人生が楽しい」という話をしても、だれも嫌がらない
ということだった。
友達と付き合うとき、あまりにも自分が幸せであるという話はできないものだ。ちょっと卑下しないといけないようなシーンも、正直ある。
「素敵な旦那さんで幸せでしょう。」
うん!めっちゃ幸せ。この人を選んで、選ばれて本当に良かったと思う。夫と出会えたことだけは本当に「私の人生の中で起きてよかった」と思えることだよ。
そういいたい。でも、口から出るのはだいたいいつもこんな感じ。
「まあ、うん。夫婦だからね。いろいろあるよ。いいことばかりではないよ、喧嘩もするしさ。合わないなーって思ったりすることもあるけど、それをやりくりしていかないとね。」
腹の中では、いやいやそんなことないでしょ、と思いながらもそういっている。相手がそういってほしいと言っているわけでもないのに。なんとなく、そういっておいた方が穏便に済むような気がして。
「イラストとか書けてすごいね、グッズも売ってるんだって?」
うん!最初は自信なかったんだけど、応援してくれる人がたくさんいて。今は自信をもって「これはいい絵だな」って思えるものだけを商品化して楽しんでいるよ。ライフワークになりそう!
本当はそういいたいのに。
一歩引くみたいなことばかり言うのが癖になってしまった私は、頭に思い浮かんだことの30%くらいをちょっと濁った水で薄めて出してしまう傾向がある。それは
幸せ過ぎると嫌われてしまう
という気持ちが働いてしまうからかもしれない。幸せは見せつけられたくないものだ。特に自分が落ち込んでいるときは。調子がよくないときは、人の幸せほど痛いものはない。
でも、noteは違う。
私が幸せである、楽しみたい、挑戦したい、という気持ちをいくら言っても、それを嫌がる人はいない。むしろ、追いかけてくれる。
もっと教えて、と言ってくれる。だから、私ももっと書きたくなる。いい循環だな、と思う。
noteに重きを置きすぎてはだめだよ、結局は知らない人たちなんだから。いつ裏切られるかわからない。仲のいい人だってやめていくかもしれないよ。ある日いやなコメントがくるかもしれないよ。
noteを始めたばかりのころは、こんな風に自分に言い聞かせていた。予防線を張っていたんだと思う。
今思えば、そんなことは全く心配しなくてよかった。今、私の毎日はnoteを中心に送られているといってもいいけれど、別にそれを怖いとか危険だとか思わない。
期待しちゃダメ、なんて思わない。思いっきり期待する。noteで何ができるか、何を楽しめるか考えるのがとてもいい。わくわくする。
今朝、畑を見た。去年の秋に蒔いたハーブの種が芽を出してきている。このハーブは、今までは自分の家族のために育ててきた。この5年間くらい、ずっとそうしてきたのだ。
今年、いよいよ、そうじゃない。
人のために育てている。
またみんなに喜んでもらうために。そういう計画をしています。
芽といっしょに、わくわくが育ちますように。
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