帰宅が楽であるとき、感情は時にその容易さに追いつけない

前置き

人の移動手段は、かつて自分の足だけだったが、船を漕ぎ、馬に跨り、自転車を漕ぎ、自動車に乗り、空を飛び、鉄道を敷き、今や新幹線のぞみ号に乗れば東京〜名古屋間を片道1時間40分で移動することさえできる。

なるほど便利になったものだ。ここ数ヶ月、月1ペースで利用しているが、これに勝る移動手段はない。
東京駅の新幹線ホームから平均5分間隔で発車する新幹線のぞみ号は、いくら短くても新大阪まで行く。つまり、名古屋に行くためには1本たりとも「見逃す」必要がないのだ。
そして大型連休でなければその指定席を取ることは容易い。夜であれば、乗車の30分前にチケットを取ってもよい。

そう、スマートEXならね。

これだけのメリットがある新幹線にどんなデメリットがあるか、と問いかけた時、一体何が出てくるのだろう。

もちろん特急券が必要なので、価格は高い。在来線のざっくり2倍はかかる。

あとは、のぞみの場合自由席は1-3号車にしかない。つまり、座席を指定せずに乗ることができるのは5席/列×52列*=260人だけということだ。連休ではこの260席を巡って静かなフルーツバスケットが行われ、脱落者は目的地まで立ち乗りの刑に処される。

*1号車の列数が12列くらいだった気がするのでこの計算である。

ではそれ以外では?と考えると、おそらく以下のような指摘があるだろう。

【主張】
移動時間が短すぎて、移動を楽しむことができない。

「じゃあ在来線に乗れ、俺は移動よりも移動した先の方が楽しみなんだよ」と言いたいところだがぐっと飲み込んで、たしかにこの主張は的を射ている。
走行中、新幹線は防音柵で囲まれた線路を走る。つまり車窓の下半分は常に変化しない。
そして高速走行をするために山を打ち抜きトンネルを掘り、川をぶち越え橋梁を建てる。ローカル線あるあるなぐねぐね線路では断じてない。

なるほど楽しめないだろうが、まあ基本そういうのが好きな人はそういう路線に乗ればいいのであって、新幹線を非難する口実にはならない。そして私も非難する意図は一切ない。

だが、ここ2ヶ月で、似たような感覚で実感したことがある。今回はそれをどうしても伝えたくてこのnoteを書いた。
Twitterで消化しないのは、「なんかクサいこと言ってるな」と思われたくなかったからである。ちなみにこれは持論で他のライターをどうこう言う意図はないのだが、noteはクサいことを書いても許される場所だと思っている。

本題

私は名古屋に住んでいて、恋人が東京にいる。
私は社会人でホイホイ名古屋に行けるわけではないので、月に一度くらいのペースで、恋人に会うために、あるいは恋人が私に会うために、新幹線を使って移動する。期間は大体土日の2日、あるいは金-日の3日間で、連休時はこの限りではない。
そしてそれは同時に、月に一度くらいのペースで私たちは「お別れ」をすることを意味する。お別れをした時、私たちの片方は新幹線で自宅まで帰る。

その時、自宅までの所要時間が距離に対して短すぎて、感情がバグる。いや、距離というよりは環境の相違に対して、かもしれない。

数日間を共に過ごしてそこで見聞きする世界は、自宅の最寄りまで帰ってきた時に見聞きするそれとは大きく異なる。人通り、街並み、駅のチャイム。これらは全て私の中で、「恋人と共にいる時に触れるもの」と「日常の中で触れるもの」として明確に分類さえされている。

それが、例えば私が東京から名古屋に帰ってきたとき、「恋人と共にいる時に触れるもの」が「日常の中で触れるもの」に変化するとき、私を日常に引き戻す。それがたった1時間40分で発生するので、あまりに唐突すぎて戸惑うのだ。

  • 東京という「都会」の雑踏

  • 立ち並ぶ高層ビル群

  • JRと私鉄の駅のチャイム

  • 電車のゆるやかな揺れ

  • 快速電車、急行電車という文字

これらが突如、

  • 名古屋という本拠地の聞き慣れた靴音

  • 何度も見たスタバとコンビニ

  • 毎日の通勤で聞く車内放送

  • 名古屋〜伏見駅間のギャリギャリカーブ

  • 区別の必要がなく表示されない「普通電車」の掲示

にすげ替わる。一気に、ここが現実で、明日から日常で、私は1人だと実感する。

そういう時、決まって東山線(名古屋の地下鉄、筆者が帰宅時に使う路線)のチャイムやアナウンスははじめ、まるで生来ノイズキャンセリング機能が備わっているかのようにそれとして認識できない。
ただ読み上げられる文字列だけが脳に入り込み、音がしない。

そして数駅過ぎたあたりで、やっと、ああ、私は今自宅の最寄りに向かう車内で、ここは名古屋で、あの時間は終わってしまったのだなと思う。
脳や感情が、環境の変化に対応できずにバグる。変化が速すぎて、追いつけないのだ。

いくつか電車を乗り換えたら、或いはこうは感じないのかも知れない。触れるものの変化が徐々に訪れて、感情はそれに順応するだろう。
しかし新幹線だと乗り換えはない。

乗っている間聞こえるのは走行音とそれに伴う風切り音。
見えるのは前の座席、自分の荷物、充電器。

すげ替わってしまうものが一つもない。
なにも、なにひとつとして、すげ替わっていないように感じてしまう。

だから新幹線を降りて地下鉄に乗った時、1時間40分、いや、体感はその乗り換えの10分で、全てがすげ替わったように感じてしまう。感情はあまりの変化の大きさに順応できず、フリーズする。

結語

きっとこれを正しく日本語にするなら、「旅の余韻に浸る時間があまりにも短すぎる」ということなのだろう。

でもあまりにも味気ない言葉だとも思う。
私の中ではこの感覚は感情のバグだし、浸っているのは余韻ではなく幸福そのものだから。
余韻とは終わったことに対して感じるもので、私の中で幸福はまだ終わっていないから。

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