私の幸せと私の好き

私が考える「幸せ」。大学生になって考える時間が増えた。そこで、私にとっての幸せを考えたことがある。
それは、
何かに対して、「良い」「好き」と感じるとき。
これが私にとっての幸せだ。
これってつまり、自分の感情が死んでいない時。
些細なことでも、何かに対して、良いなとか好きだなとか感じられるのは、感情が死んでいなくて、何かが刺さるほどの心がある。一瞬聞いた音楽でも、誰かが言った1つの言葉でも、好きだなと思えた時は何よりも幸せだと思う。

 だから、私はその、自分の中で動いた感情を大切にしたい。誰かが言ったことに流されたくなくて、自分が本当に感じたことに目を向けたい。
私は、趣味が多いけれど、趣味を共有する人は特にいない。他の人の言葉を通して、好きなものを見るのに違和感がある。例えば、アイドルの動画に対して誰かが、この部分~~で好きとか、このケミのこういう関係好きとか、そういった誰かの言葉があった状態で見ると、何かフィルターがかかったようになって、自分の感情を無視しているようになる。誰かの感想とかは、どうでも良くて、フィルターなしにアイドル自体を見たいし、私なりにありのまま感じていたい。だから、私は誰かと趣味を共有することに向いていない。というかオタクも向いていないだろうなと思う。みんなが沸いているからと言って、沸くこともできないし、自分が好きだなーと感じるときしか、好きなものへ熱が出てこない。

 あと、このアイドルが好きというより、そのアイドルの「この部分が好き」で、「他にもここが好き」で、だからこの人が好きなんだよっていう「好き」でいたい。好きなアイドルであれば、全部好きというわけではないし、その状態だと、自分の価値観が狂いそうだなと思う。だから、おこがましいけど、常に対象側が好きだと思わせる何かを発信してくれないと、私の「好き」は続かない。自分的に、この感覚って芦田愛菜ちゃんの考えに似ているのではないかと思ってて、人には色々な部分があって、人全体で捉えない方が良いのだろうなって思う。その人の、この部分、その部分、そうやって部分部分で見ていくことが一番過ごしていきやすいなーって、20年生きて感じています。


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