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エジプトに暮らして のこと 2

 エジプトの地を初めて踏んだのは アレクサンドリア空港だった。聞くといまはもうなくなったらしい。砂漠のイメージがあった、もちろんカイロ空港からの道すがらは見事に砂漠だ。しかしアレクサンドリアは美しい海と共にある。「砂漠」「ピラミッド」「ミイラ」多くの人はエジプトという国になんとなく、漠然とそのイメージを持つはずだ。しかし、アレクサンドリアはまったく違う場所だった。

 3月だったので 灼熱にはまだ早く 彼の家に着くまでの車窓からの景色はとても爽やかで、「このままとても素敵なところに行くんだなぁ」は的中し、その海の青さと空のやや薄い青さのコントラストは見事だった。わたしがそれからの2年間を過ごす町「アガミ」は、少し歩くと海へと出る。わたしはあんな砂にはじめて出会った。色はベージュと白の中間 掴むと瞬間に風にサラサラととばされる。海辺の砂なのに湿気がないので細かな貝殻の粒子のようだった。

 ムスリムには5つの決まりごとがある。そのなかの「サラート」祈り と「ラマダン」について記憶を辿って書こう、学者さんにはあまりにも曖昧で間違いだらけに怒られるかもしれないが。メッカのある方向に向かい1日5回の祈りをする。その前にからだを清めるウドゥ。普通のお風呂にある洗面台の蛇口で手、口、鼻(吸って洗浄)、顔、ひじ、頭、足(これは高い蛇口に片方ずつやるので、わたしとしてはヨガのポーズのようにキツかった)。同じ台詞からはじめ、コーランのいくつかの中から自分で1つを選ぶ。その時の懺悔のきもちや、感謝と喜びを神さまと対話する。決まりごととしては自由だった。ただ大切なのは「いつわらない」「正直におもう」そうでないとまったく神さまは聞かないのだよ、と教えられた。モスク以外の家での祈りにも ポジションがある。女性は男性の後ろにまわる。ただし、夫婦であれば男性と並んでもいい。子どもたちは親のあとに個別で祈る。わたしは初日から祈りの言葉を繰り返し教えられた。ビックリするのは、その日のうちにそらで数分のアラビア語が言えるようになったことだ。不思議だ。あれはわたしの力意外のものが働いたと思っている。「アラビア語は蜜のように甘くうつくしい」という彼の言葉とおり、歌うように 囁くように聞こえるので " 好みだ " という思いからだろう。呼ばれた、という理由を感じるひとつの出来事だった。

 「ラマダン」はこういうサラートをより鮮明に 厳粛にする。いわゆる断食なのだが、ムスリムにとっては喜びの一月、基本はたべものを頂けることの感謝と 富裕層と貧困が分け隔てなくあれ、が目的で、人々はこの時を楽しみにしている。Happy Ramadan! エジプトの暦は太陽暦を基準としていて、一年が354日となり、毎年始まりはずれていく。テレビで「今年のラマダンは何日からです」と発表され、みんなそのモードに入る。日の出前(これは未明で2時くらい)から日没(7時くらい)までで、その間は水も禁止。快楽が禁止、タバコや性交など。水を飲めないことがわたしには辛かった。全てのひとが働いているわけではないので 寝て過ごすひともいる。余談だが 滞在予定が大きくずれこんだので、日本から必要なものを送ってもらい 受け取りに 一度カイロの税関まで ほぼ40℃はある中、4時間近くエアコンのない車で行った。荷の全ては税関で開封される、現金や粉状の病院の処方薬が入っていたので没収された。そんなことは普通に考えて無謀だが、家族とわたしは甘かった。というか馬鹿げている。" 取りに来なさい " と 書類をいくつも書かされ大変な思いをしてようやく受け取る。経験をしたので その辺りは後 シティバンクを使う、番号を持って送金されたお金を受けとるのだ。クレジットカードを海外で使う為の暗証番号を記憶してなく思い出せない。「えーーーっ!」アウトだ。わたしにも自分のお金は必要。3ヵ月の予定が2年間になるわけだから 滞在中これにはかなり助けられた。ビザも切れている。「それは大丈夫だ」と彼は言う、がそんな訳はない。幸運にも 滞在中に提示を求められたことはなく、難は逃れたと言え 気が気じゃない。帰国にはカイロにある日本人大使館と何度も打ち合わせをしてずいぶん助けられた。最後にお礼を言うと「それが我々の仕事ですから」と、名前を今でも忘れない " 林さん " の笑顔。自分の貯金だから罪悪感はないが やらされる家族はたまったものじゃなかったと思うし、ビザを大使館を使い調整するという行為は慎むべきだ。こうして、単身 弾丸移住のこつを体感していく。のち役立つことになる。

 さて 話をもどそう。最初のサラートが済むと、ブレックファストまでに 未明にかなりの量をワイワイと楽しく談笑しながら食べる。だいたいメニューは同じで、空豆のコロッケや白いチーズ、トマトとたまごの炒め、肉の煮込みなどでラマダンが終わる頃にはみんな見事に太る!笑。真夜中のサラートには、ふだん少しサボりがちなムスリムたちも家族に起こされ きちんと整う、と言う訳だ。何とも功を奏している。

 ラマダンが終わると祝祭が行われる。一夫多妻 4人もの妻を持つような富裕層の男たちは、羊を何頭も買い、部位を上手いことファミリーに別ける。なので食卓は素晴らしい羊の煮込みやら グリルで満たされる。ここでもまた驚くのは、道のどこそこにさばかれた羊の皮やら骨がポンっと置かれている「えーーーっ!」だ。まぁ気を取り直して。例の見事なお米に この煮込みのスープが絶妙なのだ。祝祭は「レバラン」といい、町には子供たちが 女の子はこれでもか!と特別に新調されたリボンやフリフリのスカート、男の子はタキシードのような決めた服!と可愛い、 大人もかなりいい服を纏う。まさに「おめでとう!」なのだ!微笑ましいし、賑やかだ。この時期のお菓子が大好きで、ココナッツをクルクル巻いた焼き菓子や、しとっとしたバターとクミンのスティック状のケーキ、ナッツのクッキーを焼くので これまたアパート中に香る。それくらいラマダンとはハッピーなものなのだよ。

 しばらくエジプトについては書かないので、カイロの博物館てみた心に残るものを残そう。「バステト」古代エジプトでは顔が猫、からだは人という神がいたことはまことしやかにある。しかし、アッラー以外の偶像を拝むことはなく、むしろ偶像は破壊されてきた。バステトを、ではない。それをここで書ききることはちょっとわたしの文才では無理だ。長い長い歴史を数年で理解することは出来るはずもない、ただパピルスによく猫が書かれているのは知っているのでは?また余談だが、わたしの猫との関係は子どもの頃から強く、集会も何度も出くわしているし、花と同様に猫とも話せる。一匹に挨拶をしていたら、気づけば20匹ほど集まっていた。ほぼのら猫だ。そういう顔つきをしているからすぐわかる。以来、このバステトに近いこの猫を博物館でみたとき かくも「それで呼ばれたのか」と思った訳だ。

 アメンホテプ4世。ファラオの一人。ネフェルティティを妻としていた。わたしはネフェルティティにかなり興味があった。アメンホテプとの結婚には、とてつもないストーリーがある。女性でありながらある意味、歴史をも変えようとした彼女の墓はいまだきちんと説明されてはいない。こういう事を含めて、その意味を自分の目で見て 解釈したい、という思いは最初からわたしにはあった、" 謎を解く "もこの国エジプトに呼ばれたひとつの要因だと思っている。あぁ書きたいことが沸々と沸く、が記憶と魅力をサッと書くに留めよう。当時導きをたくさんくれた彼とは、結婚には至らなかった、が今も友人であり、たまにビデオ電話でも話す仲なのでありがたい。ありふれた日常で アパートの屋上を爆音で飛ぶシリアからの軍用機に驚きたじろぐわたしに「驚くことじゃない。そのなかで俺たちは何も変わらずに暮らしている」彼の言ったアラビア語が完全に聞き取れていた。あの国の力はなんなのだろうか。真実に目を見開き 求めたら答えを得る、どんなひとにでも。ぜひ訪れて驚いてみてほしい。喜怒哀楽を込め「えーーっ!」と叫んで欲しい。

 ママと話すときは わたしの最初はつたないアラビア語とのもので。 お互い興奮すると早口のアラビア語と日本語になり だけどそれが成り立ち、意味もお互い全部わかる。" すごいね!二人とも!" とははと笑いながら優しい笑顔で眺めていた彼の存在が何よりもを語るのかな?今まさにエジプトではラマダン真っ最中、それを思い たべものを大切に考えている。ムスリムではないが 良い習慣は忘れずにいたい。





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