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最後の接吻

「行ってらっしゃい」

「行ってくるね」

「ダァード、今日は早く帰ってきてくれる?」

「君がお利口にしていればね」

 そう言って、ジェームスは娘のキャシーの額と赤毛の妻に、キスをした。これが彼にとって「最後の接吻」になる。

 ジェームスはダミーされたCIAの基地に行きかけ、玄関前で足を止めた。いつもと変わらぬ玄関。空はよく晴れ、雲は青色と面取りゲームを行い、風は陽気なポップスを口ずさみ、酸素は全力で生を応援する。いつもと変わらない朝。昨日と同じ日常。変わり映えしない風景、退屈な日常、局員である女との偽装結婚、それが破綻しないようにキメラで作った娘、生まれてから息をするようにハックしてきたネット、血にまみれた両手、クソみたいに連綿と続く毎日! 

 その連鎖を断ち切る処刑人が、玄関に潜んでいる。いや、彼女はVRスーツで風景に溶け込んでいるだけだ。堂々と大地に立っている。背筋は伸びている。その目は真っ直ぐ、ジェームスの目を見詰めている。射るような、憐れむような、生を重んじ死に敬意を払った、両の眼。

「ついに現れたか。コードネームは、松澤フミ。そう、忘れるはずがない、お前は松澤フミだ」

「お待たせしたかしら? お待たせし過ぎたかしら?」

 ステルスを解いて姿を現したフミは、可愛らしく美しく、可憐で凛としていて、素朴で幼さが残り、冷血で残酷無比。

「エリジブル・レシーバーを、まだ根に持っているのか? あの作戦はただペンタゴンとラングレーが北のハッキングを想定した訓練に過ぎない。実害は無かったはずだ」

「勘違いも甚だしい。どうりで、ラングレーが急募の求人をはずだわ」

 ジェームスは足首のホルスターに収納したワルサーを意識したが、それが途方もない無駄だと悟った。すでに自分は、フミの糸に包囲されている。フミが気紛れな風のように小指をかすかに動かしただけで、自分は蟻よりもミクロに裁断される。

「ジェームス、分かっているはずよ? エリジブル・レシーバーは陸軍のお粗末さとサイバーテロの脅威を浮き彫りにした。けれどそれは、枝葉に過ぎない。偵察局にとって問題であっても、私には一ミリも問題じゃないわ」

「フミ、君は偵察局所属の諜報員じゃないのか? 君が諜報の表舞台に出てきたのは、『女子降下小隊』で野蛮な行いを始めたときだ。その後、君はミヤンマーの女性人権家の暗殺に失敗している」

 「クスリ」。フミは失笑した。

「あなたは二つ、間違っている。まず、諜報に表舞台なんかないわ」

 大衆は気付いていないが、戦争は続いている。ミサイルが飛び交う旧来型の戦争から、諜報戦へ姿を変えた。目に見える戦争から、見えない形態に変わっただけだ。無論、施政者が温厚になったわけではない。コスパの問題だ。施政者は常に、残酷だ。

「二つ目は?」

「他の無能な偵察局員はともかく、私が暗殺をしくじるわけがない」

「けれどまだ、彼女は活動を続けているが?」

「本当にラングレーは、質が落ちたのね。いつか、あなたの祖国が肥え太らせた奴等に、怒りの鉄槌を食らうわ。そうね、アルカイダ辺りかしら?」

「あの無力な連中に、何ができる? AKもロクに撃てない奴等だぞ?」

「無力だから、知恵を絞る。サブマシンガンをロクに撃てず、手榴弾もロクに投擲できないから、捨て身になる。まあ、それは今、どうでもいい。私は今日、わざわざ、あなたの自宅に来た。何を意味しているか、分かるわよね?」

「私を殺すんだろう? だが、どうして? それと、私の間違いを一つしか聞いていないが?」

「後半の質問に、まず答えるわ。私は間違いなく、彼女を殺した。糸で、裂いたの。ええ、それは美しく美しく」

「フミ、もう一度言う。彼女は今も、活動を続けている。アジアから軍事独裁国家を追放するのは、アメリカの使命だ」

 フミは「ふん」と鼻を鳴らした。「使命? アメリカが取って代わりたいだけでしょ?」「オフコース。我が国は、マネーマネーマネーだ。金は、命より重い」。

「少しだけ、詳しく説明しょうかしら。ジェームス、あなたが宮勤めしているラングレーとペンタゴンが守っている意識高い系の厚顔無恥な女は、キメラよ」

「レアリィ?」

「シュアー」

 それを聞いて、ジェームスは膝から崩れ落ちた。体中の穴から、悲痛と絶望の液体が飛び出す。クローンがオリジナルに勝るわけがない。しょせん、劣化版しか作れない。また、そうでなければならない。

「最後に、答えてあげる。私があなたを殺すのは、怨恨が動機じゃないわ」

「では、なぜ?」

「エリジブル・レシーバーで、あなたは見たはずよ。当時、あなたはNSAに出向していた」

「『日本救済事業「アンナ」』」

 口にした途端、ジェームスは細切れになった。自宅の扉からそれを見ていた彼の妻と娘は、何の表情も浮かべていない。恐怖ではない、本当に何も感じていない。作りモノの家族。

「大嫌い。冷たいわ、ああ、冷たい。大嫌い」

 フミは嫌悪を顔に浮かべると、「日本にはもう、石黒忠悳はいない」と言い捨て、風景と同化した。フミが消えたあと、ジェームスの妻と娘は無表情に夫であり父であったモノの残骸を、放水でドブに流した。

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