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《愛のカタチ》_シェイプ・オブ・ウォーター 感想

「僕らは生まれる時代を間違えた。
僕らは遺物だ。」

 これは遺物同士の物語である。個人的な極みは普遍的になる。イライザが歌った「あなたは気付かない。私の想いがこんなに深いことを」という一節すら、人間と人魚という関係でなくても容易く存在し得る痛みだろう。
 誰もがひとりぼっちであること、それぞれが異なった怪物であることを知らないまま、傷つけ合い慰め合い、それでも愛してしまうのは否応なく訪れる嵐のようだ。愛さずにはいられないのは、ひとりではいられない、近しい存在を求めてしまうからだ。「私とあなた」という絆を欲しているのは、聾唖であっても黒人もゲイも軍人も同じだ。

もしイライザに初めからエラがあったらきっとあの不思議な水生生物と、ジャイルズとゼルダには出会うことはなかった。彼女は聾唖だからこそ彼と心を交わすことができたのかもしれない。

ギレルモ監督は「パンズ・ラビリンス」でも父権的なヒールを登場させることが好きだなあと思った。支配的で暴力が好きで、圧倒的で理不尽だ。他者を排斥することに躍起になっているくせに、表面的には幸福を取り繕っている。まさにサイコパスだ。気持ち悪い。
そういった人間に苦い思い出でもあるのだろうかと邪推する。それでもこの物語が優しいのは、そんな彼でも抱えている痛みがあることを忘れないことだ。

イライザは“彼”に固執していたけれど、きっと彼女が「言葉」というギャップを用いずにやっと接することができた初めての体験だったからかもしれない。過去は紐解かれることはなかったが、それでも版をおしたような生活を送る。卵をゆで、まずい食堂の代わりにサンドイッチを作って、シャワーではマスターベーションを欠かさず、靴を磨く。それでも彼女は幸福だった。“彼”に出会うまでは満ち足りていたようにすら見える。それでも出会ってしまったのが、ある意味「運の尽き」とも言うべきか。
愛や恋の怖さはまるで人を変えてしまうような熱量を有していることだ。時には身を滅ぼさんかぎりの炎で焼き尽くす。

“彼”の方はなぜイライザに惹かれたのだろうか。彼も人間の形をしているのに、誰も仲間がおらず、対等に扱ってくれたからかもしれない。
欲を言えばもっとふたりが惹かれ合う過程を見てみたかった。

《食と愛の関係》( https://note.mu/vintch/n/nd57f69d263cf )では、レクターが生命としての尊厳を奪うことを調理によって禊ぎすることが彼なりの唯一無二の存在への愛し方になっていた。シェイプオブウォーターではそれは好奇心と娯楽によって触発される形になっている。どちらも性愛を伴う欲望の一端であるように感じるのは気のせいだろうか。

そして出来上がった愛は庇護と戯れの中で育まれていった。

怪物であろうと愛の形は変わらない。聾唖だろうと黒人でもゲイでもその形は変わらないし、誰も介入できなくなってしまう。それは残されたジャイルズとゼルダが象徴してくれている。時に熱情と寂しさと凶暴性を伴う愛のカタチを示して、それでも僕はそれらが愛しくてたまらない、という告白のようでもあった。