苔生す_表紙2

《苔生す残照⑸》

 単なる好奇心から立ち寄っただけだというのに、どうしてここまで重労働をしなくてはならないのだろう。先程の校門ではトランクに傷をつける始末だった。すべては大司の責だ。今度おごらせてやらないと気がすまない。そのためにここに来た以上はただで帰るよりも、せめて何かしらの答えを得ておかなければ。
 トランクを唯一無事な教壇の上に置いて、腕まくりをした。好都合なことに机はひとつひとつが小学生六人ずつ座れるくらいには大きく、その数も少ない。机の裏を見て、そのメモを掘り出せばいいだけである。大した苦労ではない。そう自らに言い聞かせる。
 さっそく一番手前にあった机を覗いた。裏には汚れや傷は窺えるものの、章二がつけた穴らしきものを見つけることはなかった。その上に積み重なっている机は表を向いたままだったので、覗くのには一苦労した。机と椅子の山を登り、上から覗き込むと反対側の隅にそれらしき穴を見つけた。崩れそうな木の軋む音が聞こえると動きを止め、それが収まるとゆっくりと手を伸ばした。
 穴は身体を傾ければ覗けるくらいには近付いた。教室に落ちていた枝を拾って、それをほじくった。記憶では念入りに押し込んだものである。誰かに知られてはならないという気持ちが強かったからだ。
 しかし掘っても掘ってもそれらしいものは出て来ない。穴を覗いても暗いばかりである。携帯電話の光を当ててみれば、そこには何も見当たらなかった。目を近づけてよくよく覗いてみると、その紙の欠片らしきものは見つけた。指で引っ掻いて取り出してみる。そのメモは千切れてしまっていて、「音楽室 後ろのカーペットの裏 タイムカ」と書かれていた。タイムカ、というはタイムカプセルのことだろう。
 章二は机の山から下り、腕まくりした服を眺める。埃だらけだ。教壇の上のトランクへ向き直ると、黒板に書き殴られた白いチョークの落書きが存在を放っている。
 章二以外にもこの校舎に侵入した者がかつていたようだった。何かを書こうとしてやめたのか、それとも書くことがなかったのか。これが仮に高架下にあるような落書きとかだったなら、不良がたむろしていたんだろうと納得できただろう。だが文字ではないとすると言葉にできない、言いようもない情念や怨念のようにすら感じられて気味が悪かった。
 トランクを手に、早々に教室を出る。かつての情景に思いを馳せ、校舎を見回りながら音楽室に向かうことにした。この校舎の内装は、外観と比べて老朽化が激しい。かつての面影を経た年月が様変わりさせてしまっている。不可逆的な年月という事実が、己の頭の中に描かれる面影に侵入してくる。自分がいたかつての時間は、もう二度と訪れることがないのだということを改めて実感させられる。それはこの校舎に辿りついたときに感じた心地よい哀愁よりも、悲哀に似た痛みを伴っていた。
 音楽室は東側校舎の三階角部屋である。記憶を頼りに階段へ辿りつくと、一段一段登っていった。
 音楽室の扉は廊下の突き当たりにある両開きのドアだった。開くと、図工室とは違い、椅子は教室奥の方に整理されて並べてある。木琴や鉄琴、ピアノもこの教室に置かれていたはずだったのだが、それらは床のカーペットにほのかな痕だけをのこし姿を消していた。コンクリートにプラスチックのカバーをかけただけの廊下とは違い、音楽室には薄いカーペットが敷いてあった。かつては上履きを教室の前で脱いでから入っていたのだが、いまえや土埃に覆われその境界線は存在しない。遠慮なく土足のまま入ることにした。
 メモには後ろのカーペットと書いてある。ずいぶんとざっくりとした指示だった。その教室の後ろ側、つまりは黒板の反対側の壁の方には椅子が並べられている。図工室とは違って苦労せずに済みそうだった。
 椅子の間からそれらしき場所を探す。ちょうどカーペットの剥げかかったところが隅にあった。補修しようと努力したのか、ガムテープでそれ以上広がらないように張りつけてある。そこを目安に椅子をどかした。ガムテープを外し、先端だけ捲りあがっているカーペットの角を摘まんでひっくり返してみると、床との接地面ギリギリに黄ばんだ紙らしいものを見つける。セロテープで張りつけるほどの念の入りようだ。
 メモには「理科室 ホ」とだけ書き遺し、他はまた切れていた。誰かも似たように探したのか、それとも掃除のときにでも捨てられてしまったのか定かではない。
 そのとき突然、ポーン、と軽やかな音が鳴った。章二にはそう聞こえた。ピアノの鍵盤を一音、跳ねたような響きだった。
 章二は振り返るも、もちろんこの教室に誰かがいるわけもなく、また楽器類もない。気のせいか、と思いながらも、薄気味悪さを感じていると、黒板の上に賞状が飾られていることに気付いた。


2014.3 初稿
2018.3 推敲