多様性

多様性、多様性、多様性…

メディアでこれ見よがしにこのワードを連呼されるたび、まるで果物ナイフで削り取られるかのごとく、精神が磨耗していく。

結局のところ、オリンピックというイベントは少なくとも僕にとって我が国と多くの人々の精神が多様性と最もかけ離れたところにいるという事実をリフレインされる気味の悪いイベントにすぎなかった。

僕が元来スポーツを見ても感動せず、つまらないというどうしようもない個性、どうしようもない趣向であること。

平和の祭典のために若者に自身の安全衛生を損なうリスクを背負わせるというトップ集団のダブルスタンダード。

いちばん敬愛していたアーティストの社会的な失墜(むろん、ファンゆえに偏向拡散であるとうっすらわかっていたとはいえ、事実とは別にそれを望むテイをなす社会そのもの)それを取り囲む第三者の無責任で正義的な主張の渦。

僕もいい大人だから、それらすべてのことは
たとえ納得はできなかったとしても我慢できるし、類似のことは人生にたくさんあって、今までも我慢してきた。大きな潮流を少数派にあわせてフィットさせる必要はないし、僕の趣向にあう世の中になるというのはたとえ夢に見るにしても、些かおこがましい寝言だ。



だが、それは、
このイベントが
“多様性”を声高に謳ってさえいなければ、
だ。



汚い言葉で端的にいえば、たとえばスポーツなんて観るだけでもイヤな気分になり吐き気がして、
いつまでも届きもしないワクチン接種によって感染の後遺症リスクにビビってオリンピックに反対しつつ、かつCorneliusの新譜を、メタファイブの新譜を心待ちに、楽しみに、日々を慎ましく生きていたハズの僕のような人間の居場所はこの多様性の中にはどこにもないってことだ。
セサミストリートはオスカーを認め許容するけど、オスカーのような僕のセサミストリートは存在しないってワケ。
こんな、ムカつくことってある?



結局のところ多様性を認めキレイにしようとしているのは、オリンピックというイベントの外壁の内側に過ぎず、そこに立ち入れないものは社会は、民意は、トップ達は許容しない、できないというメッセージ発信のようなものを国民的な イベントとしてやっているのだ。


心からがっかりしている。僕は、この国の現状の多様性の中にてんで含まれていない。

文句を言っていたくせになんだかんだ放送を見て毎日楽しみに盛り上がっている人間が羨ましい。これは断じて嫌味ではなく、心の底から羨ましい。僕にもみんなのように そういうスイッチがついていたらとても楽しく生きれるのにと、毎日、毎日思わなくちゃいけない。
だからこそイライラする。


せっかく毎日楽しんで観ているあなたは、
さぞ、この僕の駄文が気に食わないだろう。
ムカついて、悲しくなるだろう。会ったらノり方を教えようと、説得をするかもしれない。あるいはぶんなぐってやろうと思っているかも。
その感覚はあなたにとって正しい。僕は僕が正しいなんてひとつも思っていない。
だけど、だからといって、自分と異なる盛り下がることを言う人間を、僕を、大勢でもって傷つけていいことにはならない。
色んな感覚を持った人がいても、まずはその感覚を否定しないでくれることが多様性じゃなかったのか。



日本人でdiversityを謳ってもたいていこういうお粗末なことになるのは、僕はなんとなく知っていた。日本で人気になるのはどこの世界でもいつでも、多様でなく、視野が狭く一貫していて推進力のある人間だ。自分に理解できないことを言う人間でなく、自分に同調する人間、多数派なのだ。これはウソじゃない。

とにもかくにも、
わかっていて、目を背けていたことをいちいち突きつけられる。瞼を閉じた両眼に、わざわざ指を捻じ込んできて直視しろと言う。君たちはいつでもいつも、少数派に対して実に傲慢だ。
そのうえ中途半端に手をさしのべるポージングをするのだから、とてもひどい。

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