「ドン・ジョヴァンニ」とは何者か

数日前に、モーツアルトのオペラ「魔笛」について投稿しましたが、今日は同じモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」について書いてみたいと思います。

 1787年にプラハで初演された「ドン・ジョヴァンニ」は、1791年に初演された「魔笛」、1786年に初演された「フィガロの結婚」と並んで、モーツアルトの「三大オペラ」などと呼ばれ、共に絶大な人気を誇っています。
 
 が、3作の性格は全く違います。「魔笛」は、モーツァルトも加入していたフリーメーソンの儀式と、流行のメルヘンを掛け合わせたオペラ。「フィガロの結婚」は、(内容には過激なところもありますが)宮廷向けの喜劇、そして「ドン・ジョヴァンニ」は天下のプレイボーイの破滅を描いたダイナミックなオペラ。ハッピーエンドなので「喜劇」にカテゴライズされますが、主人公のドン・ジョヴァンニは冒頭で殺人を犯し、最後には殺した騎士長の亡霊(石像)に地獄へ引き摺り込まれるので、「喜劇」とはとても呼べないシリアスなオペラでもあります。モーツアルト自身、この作品を「深刻なものにしたい」と思っていたようです。
 音楽も物語もダイナミックな「ドン・ジョヴァンニ」は、18世紀と19世紀の橋渡しをしたオペラ、と位置付けられることもあります。
 
 公演も多いですし、さまざまな解釈ができる深みのある作品でもあります。つい最近も、メトロポリタンオペラのライブビューイングで鑑賞し、またこの連休は、西宮市まで足を延ばし、兵庫県立芸術文化センター主催の「ドン・ジョヴァンニ」を見てきました。センターの芸術監督を務める指揮者の佐渡裕さんがプロデュースするオペラシリーズで、2組のキャストで8回という、オペラとしてはとても多い数の公演が行われます。
 この兵庫の「ドン・ジョヴァンニ」、デヴィット・ニース演出の美しい舞台と、外国から招聘した歌い盛りの歌手たちの組、オーディションで選ばれた日本人の歌手を中心とした組と、キャストもそれぞれの特徴があって楽しめました。「オーディションで選ばれた」と言っても、ベテランの妻屋秀和さんから、スター街道を爆進中の大西宇宙さん、豊かな将来性を感じさせる新進の高野百合絵さんと、充実の顔ぶれ。一方、招聘組は、世界的に活躍する名前の知られた歌手がほとんどで、ドン・ジョヴァンニの従者レポレッロを歌ったルカ・ピサローニの緩急メリハリのある演技と洒脱な歌、ドン・ジョヴァンニに惚れ込んで追い回すドンナ・エルヴィーラを歌った、メトロポリタンオペラなどで活躍するハイディ・ストーパーの情感豊かな歌など、歌手の饗宴状態。各組、各キャストの持ち味を堪能しました。

 METのライブビューイングで見た「ドン・ジョヴァンニ」は、トップクラスの歌手が揃って壮観だったのですが、イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出も面白く、グイグイ引き込まれました。時代を現代に置き換え、ドン・ジョヴァンニはサイコパス?のような、かなり異常な人物。元々のキャラクターに輪をかけて、犯罪者の領域まで行ってしまっている。けれど、それほど極端に設定したからこそ、彼に復讐しようと追いかけ回す他のキャラクターの復讐心が納得できるし、最後、彼らが悪漢から解放されて、本当に「ハッピーエンド」になのだと腑におちる描き方でした。通常の演出だと、ドン・ジョヴァンニがいなくなると、なんとなく取り残された人々は寂しそうなんですね。。。

 ところで「ドン・ジョヴァンニ」は、ロレンツォ・ダ・ポンテというイタリア人が台本を描いたオペラです。ダ・ポンテが台本を書いたモーツァルトのオペラは、これ以外に「フィガロの結婚」「コジ・ファン・トウッテ」があり、「ドン・ジョヴァンニ」を入れてこの3作を「ダ・ポンテ三部作」などと呼んでいます。他のモーツアルトのオペラと比べ、ドラマとして完成度が高く、何よりキャラクターの描き方が深い。人間味がある、と言いますか。そして結果的にキャラクターを掘り下げることで、ドラマに真実味、統一性が出てくるのです。
 例えば「フィガロの結婚」。このオペラは、フランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェの同名の戯曲をベースにしていますが、ボーマルシェ作品が身分制度を攻撃する政治的な内容を強調してスキャンダルになったので、オペラ化にあたっては政治的な部分をかなり削り、男女の機微が全面に出ています。そしてキャラクターも整理され、また手を加えられています。例えば伯爵夫人という登場人物は、夫の伯爵が小間使のスザンナと浮気しようとしているので夫の愛を失ったと悲しんでいるのですが、ボーマルシェの原作ではそんなメランコリックな性格ではありません。けれどそのような憂いに満ちた性格を与えられたことで、オペラ最終幕のクライマックスで、夫人が浮気しようとした伯爵を「涙と共に許す」という感動的な場面が生まれたのです。

 「ドン・ジョヴァンニ」の主人公は、スペイン生まれの伝説のプレイボーイ、ドン・ファンがモデル。放蕩悪事の限りを尽くし、自分が殺した騎士長の石像(=亡霊)に地獄へ引き摺り込まれる、伝説上の人物です。17世紀以来多くの劇作家が「ドン・ファン」ものを世に出してきましたが、当初はドン・ファンは、地獄へ落ちる前に悔い改めたりしていました(ティルソ・デ・モリーナ「セビリヤの色事師と石の招客」1630)。フランスの劇作家モリエールは、「ドン・ジュアン」(1665)で、最後まで悔い改めない無神論者のドン・ファンを造形します。この神を恐れぬ無神論者という性格は、モーツァルトとダ・ポンテによる「ドン・ジョヴァンニ」に引き継がれます。

 モーツァルトとダ・ポンテの「ドン・ジョヴァンニ」には、直接の先行作品となったオペラがあります。1787年の2月にヴェネツィアで初演された、ベルターティ台本、ガッツァニーガ作曲の「ドン・ジョヴァンニ あるいは石の招客」です。モーツァルト=ダ・ポンテのオペラは、冒頭でドン・ジョヴァンニが騎士長の娘ドンナ・アンナを襲い、出てきた騎士長を殺害、そして最後で騎士長の亡霊に地獄へ引き摺り込まれるのですが、この枠組みが登場するのがガッツァニーガのオペラなのです。モリエール作品にはドンナ・アンナに当たる人物はいませんし、モリーナ作品には「ドニャ・アナ」というドンナ・アンナに当たる人物がいて、ドン・ファンに襲われたり父を殺されたりするのも共通していますが、そのエピソードが登場するのは物語の半ばなので、モーツァルトのオペラのように冒頭でその強烈なシーンが繰り広げられるわけではありません。とはいえ、この冒頭での強烈なシーンは、ガッツァニーガのオペラにはあったものでした。

 けれど、ガッツァニーガの「ドン・ジョヴァンニ」は、モーツアルト=ダ・ポンテのそれに比べると遥かにささやかな作品です。元々が劇中劇であることもあって、長さも半分以下。モーツァルトオペラの第2幕に相当する部分は全くありません。なので、先行作品と言っても、ダブっているのは一部であり、その点でモーツァルト=ダ・ポンテオペラは、ほとんどオリジナルと言ってもいいでしょう。音楽も、オペラの規模にふさわしく?可愛いものです。

 モーツァルト=ダ・ポンテの「ドン・ジョヴァンニ」が優れていると思うのは、モーツアルトの強烈な音楽だけではありません。音楽は台本があって初めて生まれるもので、台本にそそられたからモーツァルトの音楽がすごいものになったのです。
 
 台本がうまくできていると思う一つの理由は、繰り返しですがキャラクター設定です。「ドンナ・アンナ」は、ガッツァニーガのオペラでは冒頭のシーンにしか出てきません。代わりに?途中で、ドンナ・クセーニャという、やはりジョヴァンニに口説かれる女性が出てきますが、ドラマ的にはそれほど重要ではありません。モーツアルトオペラに出てくるドンナ・エルヴィーラとツェルリーナに相当する人物はいるのですが。
 対して、ダ・ポンテは、ドンナ・アンナを主役の一人にし、婚約者のドン・オッターヴィオと一緒にドン・ジョヴァンニを復讐のために追う役割を担わせました。この方が、ストーリーにはるかに一貫性が生まれます。ドンナ・アンナがこのように設定されたことで、ジョヴァンニに捨てられたエルヴィーラ、ジョヴァンニに口説かれて振り回されたツェルリーナとその夫のマゼット、彼ら全てがドン・ジョヴァンニを追う設定となり、ドラマに緊迫感が生まれたのです。

 モーツァルトのオペラでは、音楽もキャラクターやその場の状況を巧みに描いていますが、そのように設定したのが、ダ・ポンテの台本だということを忘れてはいけません。

 例えば、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でおそらく1番のヒットメロディである、ジョヴァンニがツェルリーナを口説く小二重唱「手に手をとって」。
 これ、ガッツァニーガのオペラだと、同じ場面にマトゥリーナ(モーツァルトオペラのツェルリーナ)のアリアがあるんですね。行こうかどうしようか迷う、という内容です。
 肝心のドン・ジョヴァンニのアリアも、ガッツァニーガとモーツァルトのオペラでは全然違います。ガッツァニーガだと、嘘八百を並べて女を口説くアリア。モーツアルトだと、ドン・ジョヴァンニは、有名な「シャンパンの歌」で、これから宴会を催して女を口説くのだと自分の行動を興奮状態で歌い、「セレナード」では変装して、つまり他人に扮して(=本気じゃない)、口説きの歌を歌い、マゼットたちを騙くらかすアリアも歌う。どれも、彼の本質を突いている。音楽とセリフと両方で。
 こうやって描かれたからこそ、モーツァルトとダ・ポンテ作品における「ドン・ジョヴァンニ」は、他のどんな作品より強烈で、普遍的な存在になっていると思うのです。

 もう一つ、モーツアルトとガッツァニーガの「ドン・ジョヴァンニ」の違いは、ガッツァニーガのタイトルが「ドン・ジョヴァンニ あるいは石の招客」、モーツァルトが「ドン・ジョヴァンニ、あるいは罰せられた放蕩者」であるところにも示されています。ガッツァニーガ作品では、「石の招客」伝説との関係がクローズアップされ、モーツァルトでは「放蕩者が罰せられた」ことが重要なのです。ここに、モーツァルトの父子関係の投影〜作曲中に父を亡くした〜を見ることは、不可能ではないかもしれません。
 
 ちなみに、「ドン・ジョヴァンニ」は「ドランマ・ジョコーソ」と題されていて、それがおどろおどろしい?劇的な?内容を暗示しているのだなどという説を目にしますが、「ドランマ・ジョコーソ」は当時の、いわゆるオペラ・ブッファ(イタリア語による喜歌劇)によく用いられた呼び方で、モーツアルトだと「コジ・ファン・トウッテ」もそうですし、ガッツァニーガの「ドン・ジョヴァンニ」もそうです。戸口幸策先生の「オペラの誕生」では、「ドランマ・ジョコーソ」は、ちょっと高級な喜歌劇につけられた呼び名ではないか、という説が紹介されています。 
 
 
 

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