2019年ベストコンサートの背景〜クルレンツィス&ムジカエテルナ、モーツァルト=ダ・ポンテ三部作が見せてくれたオペラの可能性

 こんにちは。クラシック音楽界隈でお仕事させていただいている加藤浩子と申します。2回目の投稿です。自分では「音楽物書き」という肩書きを名乗ったりしているので、これからこの肩書きでいかせていただこうと思います。

 今日は、昨年一番感動したパフォーマンスのことを書こうと思います。ギリシャ出身の指揮者、テオドール・クルレンツィスと、彼が創設したピリオド楽器のオーケストラ、ムジカエテルナによる、ロレンツォ・ダ・ポンテが台本を書いたモーツァルトの3作のオペラ(モーツァルト=ダ・ポンテ三部作などと呼ばれます)、「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トウッテ」の、「演奏会形式」による一挙上演です。時期は9月、場所はスイスのルツェルン音楽祭でした。

 クルレンツィスはしばらく前から、最も気になる指揮者の一人です。きっかけは2014年に発売された「フィガロの結婚」のCD。一聴して感じました。これは革命の音楽だ、と。「フィガロ」はフランス革命勃発の3年前に初演されたオペラですが、その不穏な空気をこれほど伝えてくれる演奏はありません。とにかく、激しいのです。デュナーミクもテンポも実に多彩で、メリハリがすごい。とりわけ唖然とさせられるのが、18世紀までは一般的だった即興や装飾の自在さ多彩さです。通奏低音を受け持つフォルテピアノが奏でるレチタティーヴォ(会話が中心の、曲と曲とをつなぐ部分)など、あまりにも即興がすごくて音楽が膨れ上がってしまい、次のアリアや重唱と音楽的に差がないと感じられてしまうほど。また楽譜にない楽器〜例えばハーディ・ガーディ〜を取り入れるなど、本当に自由なのですが、根拠もなくやっているわけでは全くない。あくまで当時の演奏のあり方を研究し、ありうる可能性を追求した結果なので、おかしな感じは全くありません。即興にしても(CDの解説にあるクルレンツィスの言葉によると)、ルネッサンス以来の即興演奏を研究実践した結果だという。だから、繰り返しですが、過激ではあるけれども不自然な感じはしないのです。

 その後クルレンツィスは、ダ=ポンテ三部作を全て録音。その総仕上げとして、昨年の夏、彼の現在の本拠地でもあるペテルブルクからスタートして、ウィーン、そしてルツェルンへと、三部作ツアーを組んだのでした。特にルツェルン音楽祭では、三部作を連日上演したのに加えて(他の町では1日おきなどの上演)、合間には現役最高峰のメッゾ・ソプラノ、チェチーリア・バルトリとのモーツァルトプログラムによるコンサートも開催。バルトリは最終日の「コジ」にもデスピーナという女中役で登場し、芸達者ぶりを見せつけました。

 彼らの「三部作」を生で体験できたことは、私にとって生涯最大の音楽体験の一つになりました。録音以上にその音楽のダイナミズムを体験できたこと、そしてなにより、「演奏会形式」と銘打ったオペラ上演の新たな可能性に触れることができたからです。オペラの未来は演奏会形式にあるかもしれない、そう思ったほどでした。

 何が、そんなに違うのか。

「演奏会形式」のオペラといえば、ドレスを着た歌手がオーケストラの前に立って歌うイメージが定着しています。一方最近では、多少演技をつけた、「セミステージ形式」による上演も増えています。オーケストラは舞台に乗るのですが、歌手は場合によっては衣装なども役のイメージに合わせたものを着用し、場合によっては演出家の指示で演技をします。指揮者が演出の指示をする場合も少なくありません。このような形態で成功し、印象に残っているのは、ジョナサン・ノットが指揮した東京交響楽団によるモーツァルト=ダ・ポンテ三部作、ニコラ・ルイゾッティが指揮したサントリーのホール・オペラの、やはり三部作です。そもそもこの作品はこの手の形式と相性がいいのかもしれません。ちなみに指揮者の2人とも、自分でフォルテピアノを弾き、通奏低音も担当していました、。

 クルレンツィスは通奏低音は弾きません。その代わり、歌手や、場合によっては楽器奏者に近づき、その前に立って指導します。聴衆は彼の指示の一挙一動を目撃できるわけです。つまり、どうやって音楽ができるかを見ることができる。演出もクルレンツィスですが、これがまた面白い。「フィガロ」ではお小姓のケルビーノは伯爵から逃げてオーケストラの中に隠れ、「ドン・ジョヴァンニ」では小悪魔ツェルリーナはオーケストラのチェロ奏者を抱きしめながら歌います。「ドン・ジョヴァンニ」第一幕フィナーレで歌われる「自由万歳 viva la liberta」の合唱は、客席の通路から出てきた合唱団によって歌われ、また合唱団員は「自由万歳」と書かれた赤紙を聴衆に配って歩き、一緒に歌うよう促すのです(歌いましたよ!)。とにかく、次に何が起こるかワクワクドキドキで、一瞬も目が離せないのです。あ、ちなみにオーケストラは立奏で、これはクルレンツィスの「座って弾くよりエネルギーが三倍になるから」という方針に従ったものです。確かに、座って弾くよりパワーは出るのではないでしょうか。それに、座って演奏するより「見る」楽しみも大きくなります。

 クルレンツィスが選定したと思われるソリストも、もちろん多少のばらつきはありましたが、総じてレベルの高い歌手たちでした。とりわけ「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・アンナと「コジ」のフィオルディリージを歌ったアンナ・パヴロワというロシアのソプラノは、小柄なのにパワフルな歌唱力とダイナミックな表現力を備え、これからのオペラ界を担う逸材だと思われました。

これは、新しいオペラの可能性を切り開く上演かもしれない。鑑賞しながら、ずっとそう思っていました。

 今、オペラの上演は、曲がり角に来ているように感じます。20世紀に盛んだったスター歌手〜マリア・カラスや三大テノールなど〜を揃えた上演は、誰もが知っているスター歌手がいなくなった今(これは、クラシックやオペラ界に限ったことではないと思います。誰もがテレビを見ていた時代の誰もが知っているお茶の間のスターなんて、好みが細分化された今は存在しません)、なかなか難しい。ここ数十年の傾向として、「演出」が重視されていることがありますが、これも好みが分かれます。時代を変えたりする読み替え演出が盛んになった結果、かつてのゴージャスなオペラに馴染んだファンが、オペラはもういい、と足が遠のく反作用もあります。その点演奏会形式なら、「音楽」に集中することができる。しかもそれがとてもレベルの高いものであり、今回のような「演出」がつくなら、十二分に楽しめます。装置や美術がない分、コストも安く上がるのです。

 クルレンツィスの演奏は、正直あざといところもあります。なので、好みも分かれるようです。けれど一方で、おそらくクラシック音楽を聴き慣れない人の耳も捉える魅力を備えていると感じます。ロックしている、とでも言ったらいいでしょうか。そしてモーツアルトの音楽は、それに合うのです。

 ああ、なんというモーツアルトの普遍性。それに気づけたことも、今回の収穫でした。






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