見出し画像

星野くんの記事を読んで思い出した

先週、Twitterで久しぶりに大学時代の友人を取り上げた素晴らしい記事と行き当たった。随分と反響が大きかったようで、いろいろなところでシェアされている。星野君とは折に触れて自分たちの育ってきた生育環境や、「らしさ」にがんじがらめになる生きづらさについて語り合ってきたけれど、こうしてまた彼の記事が多くの人の心の何かに触れる瞬間を見ることができて、私は本当に嬉しい。(リンクは星野君の記事である。是非ご一読いただきたい)

偉そうに上から目線な発言に聞こえるかもしれないが、星野君のすごいところは、記事中にもあるように、自分が信じる正しさを常に疑うことができること、自分の正しさを人に押しつけていないかを自身に問いかけながら活動ができるところなのだろう。

簡単に見えて、これは本当に難しいことなのだ。

そのうえで、私はこの記事のなかに出てくる

僕は、結婚について聞かれることが本当に嫌なんです。仕事柄、結婚しているのかどうか尋ねられることが多く、保護者から「子どものいない先生にはわからない」と言われたこともありました。自分が傷つく言葉だとわかっているので、過剰反応しないように日ごろから注意はしていました。

https://o-temoto.com/akiko-kobayashi/toshikihoshino2/

という部分でふと立ち止まった。

普通に読み進めていくと、「まぁなんて失礼な保護者だこと」で流し読みしてしまう部分なのだが、私はなぜかこの部分が喉に刺さった棘のように自分の心に引っかかったのだ。私自身が傷ついたのではない。なぜ保護者がこのような言葉を星野君に投げつけたのか。そしてある意味で考えるのもおぞましかったのだが、自分自身も他人にこういう言葉を投げつけていることはないかと。

しばらくモヤモヤと考えているうちに、私は「ああ」とため息をついてしまった。自分の中で一生抱え込んでいこうと決めた、蓋をしてしまった悔しさのようなものを突然思い出したからだ。もしかしたらだけど、星野君にそういう言葉を投げかけた保護者も、私と同じような想いを抱いていたのかもしれない。

たくさんの本を読みながら、少しずつ、学歴至上主義や自己責任論の呪縛から解放されていくのを感じました。受験勉強ではない学問があったのだと、大学に入って初めて知りました。

https://o-temoto.com/akiko-kobayashi/toshikihoshino2/

記事の中のこの星野君の言葉。すごく印象的だと思った人も多かったのではないだろうか。実は私も大学院に進学して社会学という学問と出会って、全く同じ経験をした。学問というものを通して、いやもっと平たく言えば知るということを通して、自身をがんじがらめにしていた社会の規範のようなものから自身を解放することができた経験というのは尊いものであった。大学院に通っていた10年弱、私は貪るように本を読んだ。学問によって自分自身の生き方は肯定され、生きづらさの原点にたどり着くことができた。文系の学問など役に立たないと言われ続け、後で就職難+奨学金という借金に追われる生活が待っていたものの、あのときの経験は本当に得難いものだったと思っている。

けれども、だ。

私は結婚して、出産育児をした瞬間から、解放されたはずの社会の呪縛に引き戻されていくという経験をした。

家を買おうと家探しをしていても、車を買おうと車を探していても、営業の人は夫にしか名刺を渡さなかった。私はちょこんと所在なさげに夫の横についていることしか許されず、誰もが夫にしか話しかけなかった。私の貯金も半分ぐらい出すんだけどなあと思いつつ、「奥様」と言われてジュースだけ出された。

姑には「あなたは息子の労働のお金で食べていくのだから」と繰り返し言われた。「あなたは主婦なのだから」と言われたので、「私は主婦ではありません」と思わず言ってしまった。なぜ自分のアイデンティティを人に勝手に決められないといけないのであろうか。私は私、それじゃダメなのか。

子供が生まれたら今度は否応なく「母」になった。子供がお熱を出したら保育園から電話がかかるのは絶対に私だ。仕事を時短にするのも私。保育費を払うのも私。子供の行事のときにお休みをするのも私。一度、子供がノロやら突発性発疹やらで一か月近くほとんど保育園を休んだときがあったのだが、「さすがに一か月休むのは…」と私が言ったときに、母にこう言われた。「何言ってるの。旦那さんは男なんだから。男の人を子供のことで休ませるなんておかしいよ」

そして子供が成長して。

大学院で社会学を学び、「学歴至上主義から解放された」はずの私は、子供の受験を目の前にしてまた「学歴至上主義」に引き戻されていくのである。解放されたのではなかったのか。いい学校に入ってくれないと近所の人の目が気になる、周りになんて言われるか分からない、そんな気持ちで私はぐちゃぐちゃになり、長女の受験のときにはカウンセリングに繰り返し通わないと精神的にもたなくなった。自分があれほど苦しんだ学歴至上主義なのに、どうして親と同じことを子供にもしてしまうのだろう、幼い頃からのトラウマまで同時に刺激されて、私は何度もこの世から消えてしまいたくなるほどつらかった。

結婚、出産、育児の一連の流れのなかで、私は自分が信じてきた「正しさ」を諦める作業ばかりを繰り返してきた気がする。

多様性も、男女平等も、学歴至上主義ではない生き方も、私が社会学を学びながら「素敵だ!!」と何度も叫んだキラキラ光るものを、私は一つ一つポロポロと落としながら歩き続けるしかなかった。「もういいや…」という言葉を重ねていくうちに、なんだか正しさが何かということを考えることすら面倒くさくなった。

理不尽なことに立ち向かおうとすればするほど、家族の間はギクシャクした。長いものに巻かれて、思考停止してしまった方が、家族は平和だった。

ああ、思考停止。若い頃は私の一番嫌いな言葉だったというのに。

だから私はふと想いを馳せたのだ。「子どものいない先生にはわからない」という言葉を星野君に投げた保護者が何を考えていたのか。結婚して、子供を持った瞬間に諦めなければいけなかったたくさんのキラキラしたもの。自分が解放されるはずだったものにまた引き戻されていく敗北感。だからこそ、それを持ち続けていられる星野君が羨ましかったのかもしれない。(だからと言って、言っていい言葉ではないが)

それでもね。

一瞬でも解放された瞬間があったというのは、自分にとって宝物だったから。だから私は、子供たちにも「知ること」はやめないで欲しいと思うよ。そして星野君も、「自分が信じることを伝えること」はやめないで欲しいと思う。

今でもあの頃のキラキラは、私の心のすみっこにちゃんと残って、私を支えている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?