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こういうのは順番なのだ

二日以上過ぎてしまったけれど、SNSで皆さんのクリスマスの写真を見てほっこりとしてしまった。

俄かで申し訳ないのだが、私はこれでも一応カトリックの信者である。2010年に家族全員で受洗した。なぜ受洗したかは今さら語るまい。とにかく今日一日を生きている意味すら分からなくなり、傷だらけの足を引きずるようにして歩くような時期があったのだ。そのとき、私は高校時代の恩師が教えてくれた作者不詳のある詩を思い出した。

ある晩、男が夢をみていた。
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。

どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。
ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。

すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。

すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。

「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」

神は答えられた。
「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」

FOOTPRINTS IN THE SAND
(砂の上の足跡)作者不詳

人生の一番つらい時期を振り返ってみたら、砂浜には一つの足跡しか残されていなかった。神様は一番つらい時期に自分を見捨てたのかと問うたら、それは神様が自分をおんぶして歩いてくれていた、という詩であった。

高校生の頃は今思えばおめでたかった。この詩を読み聞かせられたところで、「ふーん」である。友達とどうでもいいお喋りに興じている時間の方がよっぽど貴重だったのだ。

それが、30歳を超えたぐらいになって、私は耳元で毎日「死にたい」という声が聞こえてくるようになった。ただただ目の前の子どものために死ぬのをためらっていたけれど、服用する精神薬は日ましに増えていった。睡眠薬を飲んで意識を失うように眠って一日を強制終了させるのだけれど、朝の3時にばっちり目が覚める早朝覚醒に、地獄を見た。

身も心もクタクタだった私が、突然思い出したのが件の砂浜の詩だったのである。そして私は、半ば衝動的に受洗を決意したのであった。

そして2010年のイースターの日に受洗し、その二か月後に生まれた子供は自閉症スペクトラム障害であった。

赤ちゃんの頃はまだしも、3歳を超えたあたりから、毎週通っていた教会に通うことができなくなった。当時、所属していたカトリック鷺沼教会には「泣きの部屋」(現在は「子供室」)という部屋があり、小さな子供用に防音室が準備されていた。その頃は気兼ねなくミサに参加していたのだが、転居後に所属になったつくばカトリック教会には子供用の部屋がない。ジッとできず、奇声をあげる息子を連れていくと、周りの人たちの静かなお祈りの時間を邪魔するのが申し訳なく、結局息子を連れて外で待機することが多かった。

そんなこんなで教会に行く意味もよく分からなくなった。ミサの間の一時間息子を押さえ付けて、それでも祈りたいことってなんだろう。そのときの私は神も仏もどうでも良かった。ただひたすら、休息が欲しかったのだ。

そうして、私は教会に通うのを辞めた。しかも息子は思いきり仏教の幼稚園に行かせた(笑)発達障害児を大らかに受け入れてくれる幼稚園だったからだ。

そしてそれから10年経った。学校で隠れキリシタンの勉強をしてきた息子が、突然「教会に連れていって」と言ってきたのだ。「俺も一応キリスト信者なんだろう」と。まあ幼児洗礼を受けさせた以外は何も教えてきていないけれど。とにかく息子は幼少期とは別物のように落ち着いた子になったので、私たち家族は10年ぶりに教会に行き、クリスマスミサに出席することになった。


つくばカトリック教会

家族で行く10年ぶりの教会。息子は教えてもいないのに、静かに、周りに合わせてきちんとお祈りすることができた。

私たちの隣には、年老いたおばあちゃまがいらっしゃって、どうもミサ中に静かにすることができないらしく、ずーーーっと一人でブツブツと喋り続けていた。恐らく少し認知症が入っていらっしゃるのかも、と思った。傍に付き添っていらっしゃった娘さんは、「うるさくてごめんなさい」と何度も謝ってきた。そして、最初は「静かにしようね」と優しく諭していたけれど、最後は堪忍袋の緒が切れたらしく、「うるさい!」と叱っていた。

私は何度も「いいんです、大丈夫ですよ」と言ったけれど、娘さんは申し訳なさそうに母親を必死になだめていた。

それは、大騒ぎする息子をなだめては、「うるさくしてごめんなさいね」と周りに頭を下げていた10年前の私の姿そのものだった。ごめんなさい、ごめんなさい、もう外に出ますね、と逃げるように出ていっていた私。隣の方が何度も謝ってくるのを見て、神様があの頃の私を、その方を通して見せてくれたのかもなと思った。きっとたくさんの人に、「大丈夫ですよ」と優しく言ってもらえていたはずなのに、私はみんなに責められているような気持ちでいっぱいだった。

こういうのは順番なのだ。人にたくさん迷惑をかけたかもしれないけれど、それ以上に「大丈夫ですよ」と見守ってくれていた人の方が多かったはずだ。私はあまりに自分を追い詰め過ぎて、そういう人たちの言葉に気づかずにここまで来てしまったのかもしれない。

たくさんの人に助けられて、私も息子もここまできた。

だからこそ、これからは自分が人に優しさを配る番なのかもしれない。

俄かカトリック信者のくせに、聖夜に私はそんなことを一人考えて、ちょっと神様にありがとうと言ってみたりしたのだった。


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