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親戚がみんなズレていった日

2020年から約二年続いたコロナ禍。私はとにかく子供たちの日常を崩してしまうのがイヤで、せめて自分だけでも平常の状態でいようと頑張り続けた。日常に制限が加えられるとしても、家に帰ればいつもと変わらぬ家庭の風景があるように。それだけを目標に、日々の生活を粛々とおくった。そして結構疲れた。こうして生活が落ち着いてきて、一気に心身にいろいろとガタがき始めている。

なんとか日常をおくろうと努める私とは裏腹に、コロナ禍も一年目を過ぎたあたりから、親やら叔父やら、老いた親戚たちの歯車が一気に狂い始めた。まず、高齢の叔父のLINEの返答がチグハグになり始めた。どうも、日課にしていたジム通いが感染への恐怖でできなくなってしまい、身体が疲れないから眠れず、明け方までずっと酒を飲んでいる生活になっているという。アルコールで頭が動いていないのか鬱状態なのか、こちらが様子を伺うために連絡をしても、返答が全くかみ合わなくなっていった。

そして今度は、自分の父からヘルプがきた。母親が暴れる、妄想を見る、過去のことで自分を責め立てる、と。このことについては以下のエントリーで詳しく書いた。

そして困ったことに母は私への依存が酷くなった。ガラクタが大量に入った荷物を送りつけてきたり、手紙を送ってきたり、毎日のように電話を鳴らしたり(もちろん出ない)、「あなたがいなければ生きていけない」と小さな幼子のようなセリフを繰り返した。

一瞬、老いた親戚たち全員の介護も覚悟した。意外と早かったな、自分の子供はまだ小学生なのに、介護も重なってしまうなんて。困ったな。なんて思った。

しかし、ここ数か月ぐらいだろうか。歯車が噛み合っていなかった親戚たちが、凪のように静かになった。様子を伺ってみると、どうもお友達と出かけたり、旅行の計画をたてたりということに忙しくて、私に寄っかかってる暇がなくなったようだった。今まで噛み合っていなかった会話も、しっかり噛み合うようになった。なんだったんだ、アレは。

そうかあ、老人にとって(いや、きっと私たち誰もにとって)一週間後、一か月後の「小さな楽しみ」ってこんなに生きる活力になってるんだな。若い頃、とかく成長しなければならない、と「成長病」に取り憑かれていた私は、常に一年後、十年後の目標を掲げていた。私はそうやって、自分の尻を叩きまくって生きてきて、それなりに達成もできたけど、精神ぶっ壊してしまった人である。

自分の子供なんか見ていて思う。いつも「推し」とか「オタ活」とか言っていて、一週間後、一か月後の小さな小さな楽しみ(例えば一番くじを引くとか、しまむらのコラボグッズを買うとか)のことを考えながら日々を懸命に生きている。

一年後、十年後の目標に向かって成長するのも大事なのかもしれないけど、一週間後、一か月後の小さな楽しみを糧に、人間って今を生きることができるんだな。

その一週間後、一か月後の小さな楽しみさえ奪われた(あるいは不確定になった)という意味で、この二年間は老人たちにとって思った以上に辛いものだったのかもしれない。

私も、最近は一週間後、一か月後の小さな楽しみを大事に毎日を生きている。一年後の自分の成長をひたすら願って研鑽していた若い頃のような元気は今はないから。でもこれが思っていた以上に幸せなのだ。

とりあえず、来週は古澤巌さんのバイオリンのコンサートに行ってくる!

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