見出し画像

白木蓮の着物ラブNO2 お振袖に血が騒ぐ 4歳の私



それを見ると、なぜか血が騒ぐ…
みなさんも、きっとご経験が
おありでしょう。

魅力され、虜になってしまう。
DNAに組み込まれているのか?過去世の記憶なのか?


私のそれに、まつわる最初の記憶は、物心がついた4つの時でした。


濃い青の地に白い手毬が描れ、リボンの様な柄が、
手毬と手毬を繋ぎ、着せて貰うと、それはもうお姫様気分で。

それと言うのは、振袖なのです。

戦前に私の母が着ていたものでしたが、お気に入りだったので、娘にも着せたかったのでしょうね。

今はもう写真でしか見ることが叶いませんが、辛口の甘さが個性的で、とても素敵な
着物です。


「このおべべ好き。
こんなんが好き。」

と、思った事を朧げながら
覚えているのです。
振り返るならその時が、 
私の着物ラブ人生の幕開けでした。


私が生まれ育った小さな港町には、旧正月を祝う風習があります。


遡れば、
私が手毬の振袖を着ていた、昭和40年頃頃が、一番華やかな時代でした。

300隻の漁船が、極彩色の
大漁旗をはためかせる中、
浜には数十件の露店が並び、朝から夕方迄、大勢の人で
賑わう様子は風物詩となり、カメラマンが撮影に来る程で、老若男女が心待ちにする、一年に一度の大イベントになっていたのです。


その大イベントに着る衣装が
振袖でしたから、女の子の
いる家はどの家庭でも、心尽しの晴れ着を準備して旧正月を待ち、女の子達の昂ぶりがマックスになって行くのに、私の心は沈んで行くのでした。


なぜかと言うと、
大きくなって、手毬振袖が
着れなくなった後も、私の振袖は、誰かのお下がりだったからなのです。

私の親族には女の子達が多く、それが回って来た事もあるでしょうし、親の懐具合も 
温かくなかったのかも知れません。


幼心にお下がりが淋しく、
新の振り袖が欲しいと、
母にねだっては叶わずが、
数年は続いていたと思います。


やっと、念願叶ったのは
小学3年生の時でした。
紫っぽいピンクの地に、
白い小花を散らした大人びた振袖。
私だけの振袖…


飛び上がる程嬉しくて、
枕元に置いて眠り、起きると消えて無くなっていないか
、心配で心配で。

人生初の
執着とでも言いましょうか。
一世を風靡した、「りかちゃん人形」よりも、何よりも、私は着物に恋をしたのです。


その恋は、60年もの月日を経ても尚続き、一途な私の着物ラブ。


白木蓮の着物ラブでは、
着物に纏わる思い出や、
私なりのコーディネートなどを綴ってまいります。
どうぞ、読んで下さいませね。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?