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噓日記 1/30 男性性の変容

SNSを覗いていたらツーブロックの男性が、運動部に入ったことがない男性は精神的に弱いと唱える動画を見つけた。
なかなか乱暴な言説だ。
彼の言うことには、スポーツで誰かに負けた経験や誰かに対して劣等感を抱いたことがない人間は逃げている、ということらしい。
果たして本当にそうだろうか。
そして、彼の言うように負けたり誰かに劣等感を抱いたりすることで得られるものは精神的な強さに直結するのだろうか。
個人的に、そんなことはないと思っている。
何かに打ち込む、挑戦するという経験はあって然るべきだと思うし、その経験の差が後の人生に影響を与える、というのなら納得できる。
だが、スポーツに限定し、さらにはそこで挫折を味わうことまで限定してしまうなら得られるのは単純に「人生では負けることがある」という事実のみ。
そこで得られる精神的な強さとは、負けたという経験があるから予測できるだけの痛みしか負わないというだけのことではないだろうか。
また、彼はこうも言っていた。
運動部に入って劣等感を抱いたことがない人間がモテることはない、と。
これもまた乱暴な言説だ。
彼の中では精神的に強くなることとモテるが並列で語られていたのだが、そこに特に相関があるとは語られていない。
論理が飛躍してモテないとまで言ってしまうあたり、学生時代に"スポーツを"頑張ってはったんですねといった印象だ。
私の中のニセ京都人も表れる。
まず、そういった競争の中で苛まれる劣等感で育まれるのはホモソーシャルの中での歪んだ男性性に過ぎないと思う。
他者を見下せる権利を虎視眈々と狙い、下剋上を果たしたいという古い価値観だ。
現代の価値観からはそうとう外れている。
自身の力を誇示したい、人間社会の規範からはもはや外れている動物の所業。
猿山ならボスになれはったやろうね。
私はそういった古い価値観からの変革を望む。
私たち男性は元来持ち合わせる他者に対する攻撃性と上手く折り合いをつけていく必要があると私は思う。
私も、どうしようもなく自身の中の古い男性性が飛び出しそうになった経験が何度もある。
だが、それを抑え込む努力をし続けてきた。
それは私がそうありたいと願ったから。
これからの男性は争いを回避するという術を身につけていかなければならないのではないだろうか。
衝突しなくても手を取り合える、当たり前の社会に。
あと、彼に言いたい。
私、軽音部だったけど死ぬほどモテたよ。
死ぬほど。
君らが運動部で汗ダクキモ坊主になってた時、私はエアコンの効いた部屋でギター片手に死ぬほどモテてたよ。
死ぬほど。

どりゃあ!