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噓日記 5/9 洒落っ気

say 小納言。
殺してくれ。

つまらないことを言うとつまらない人間だと思われる。
頭の中では誰にも負けない面白いもの、楽しいものが浮かんでいるはずなのだ。
ただ、それを言葉にして誰かに伝えようとする度に私の言葉は陳腐になっていく。
枝のように細ったユーモアは誰の胸も打たないし、だれの心にも染み入らない。
誰かを笑わせたい、そしてそれを見て自分も笑いたい。
そんな気位だけは人一倍あるのにその理想を叶えるだけの語彙や技術がない悔しさがいつもギュッと胸を締め付ける。
私は、お笑い芸人の漫才に何度心を救われただろう。
言葉とは語彙とリズムなのだ。
舞台に立つ彼らのそれは緻密に計算されたネタと繰り返された訓練によるものだ。
彼らもまた誰かを笑わせるためにその天性の才能に溺れず、弛まぬ努力を重ねているのだ。
だから私も諦めてはならない、彼らの漫才を見る度にそう勇気づけられているような気がした。
人は皆、他者存在によって自身のアイデンティティを確立する。
私にとっては誰かが笑ってくれる、そんな誰かを笑わせられる私こそが自己実現のゴールである。
つまり、未だにそのゴールが遠く見えない状況にあると言えるだろう。
どうしたら面白い人間であれるのだろう、そう悩まない日はないのだ。
いつも眠る前にベッドで一人、小話を考える。
主人公が居て、脇役がいて、狂言回しがいたっていい、それらが紡ぐ物語を自分の中で築き上げる。
物語にオチがつくまでそれを延々と回し続ける。
それが近年、だんだんとオチがつくスピードが速くなってきたように感じる。
ボケるだとか、ツッコむだとか、そういうお笑いの定義というか決められたフォーマットをなぞるようなものではなく、より原始的で根源的な笑いへ私のフェーズが移行し始めたのだ。
つまり、私が思う面白さを頭の中のイメージでならスピーディーに表現できるようになってきたのだ。
主人公が居て、彼を取り巻く環境をイメージして、その解像度を深める。
脳が一瞬、本当に彼が実在すると思い込むギリギリのラインまで思考を深め、ディテールを追求していく。
そして、そのイメージがフィクションとリアルのベン図でちょうど重なり合うような説得力を持ち始めた時。
物語を動かす。
そして即座にでっけぇでっけぇ恐竜が出てきて、国会議事堂の前でメスの犬と同じポーズでオシッコをする。
そのオシッコに溺れるちいせぇキジの赤ちゃん。
ション下(小便の水底の意)に沈むキジの赤ちゃんの断末魔が響く。
「こぷぅーん!」
もうこれでいい。
私はこぷぅーんでしかもう笑えなくなっている。
これがこの世で一番面白いってことになるまで私の世界征服は終わらない。
明日はモンゴルへと攻め入る。
世界征服まであと4カ国。

どりゃあ!