斎ヘッダ

12月22日~鎚谷斉

 外へと一歩踏み出してから、頬が痛むほどの風の冷たさにマフラーを忘れたと今さら気づき、俺は昇降口の中へすごすごと逆戻りした。身震いし、ポケットに手を突っ込もうとして、腕時計に目をやる。そろそろ午後四時。じき出てくるころだと思うのだけれど。

(寒い)
 改めてダッフルコートのボタンを全部留め、肩を縮めた。あっという間にすっかり冷え切ってしまった。
 寒いのも厚着するのも好きじゃない。さっさと帰って、暖房の入った温かい部屋で薄着になりたい。
(あと三分来なかったら帰る。絶対帰る)
 約束をしているわけでもなく、あくまで「たまたまバッタリ帰りに会う」だけなのだ。凍えながら待つなんて割に合わない。
(何やってんだろう、俺)
 己の涙ぐましい努力に少々むかっ腹が立つのを堪えて足踏みしていると、やがて校舎の奥から調子っぱずれのおかしな鼻歌が聞こえてきた。
「やっほーひーほーへいほほー」
 ひょろひょろ踊りながらこっちへ向かってくる人影がある。
「槌谷」
 呼ぶと、相手は万歳の体勢で駆けてきた。
「あー! とっきえだまめうまーいー」
 訳がわからないがいつものことだ。今さら呆れも驚きもしない。
「奇遇土偶でどっき土器ーやったー!」
 驚きはしないが、寒さを堪えながら偶然を装ってまでこんな阿呆を待っていたのかと思うと、自分が可哀想になってくる。
 けれど、こうでもしないと最近は一緒にいる時間も取れない。槌谷は大学受験を推薦で軽々パスして、次の大会に向けて絶賛追い込み中だ。学舎のプールは数年前に新設したばかりの屋内温水プールだから、一年中ハイシーズンで練習三昧。一方俺は大学受験のハイシーズンで、選択している授業も槌谷とは違う。同じクラスなのに移動教室やら特別授業やらで、教室では顔も合わせない日がざらだ。
 ──泳いでいれば幸せな朔学舎付属のトビウオは、そんなこと気にしていないかもしれないが。
「おまえ、頭ぐしょ濡れじゃねーか」
「取れたてわかめでーす」
「アホか。タオルかせ」
 背負っているバッグの端を引っつかんで、勝手に中を漁った。ぐしゃぐしゃに丸まったタオルを引っ張り出す。
「ほら、かがめ」
「はーい」
 長い背がひょいっと丸まる。目の前に突き出された頭へタオルを被せ、乱暴にがしがしと拭いてやった。
(わざわざ何でこんなことしてやってんだろーなー俺は……。ていうか母親じゃあるまいし、フツーあんまりしないよな)
 けれど、頭から濡れてヘラヘラ笑っているのを見過ごすのはちょっと難しい。
「風邪引いたらどうすんだよ。大事な時期なんだろ」
「へへっ」
「ちょっとは反省しろバカ」
 タオルの隙間からはみ出ている、強い髪の毛を引っ張った。
「いたえへー」
 上機嫌で上目遣いにこっちを見た槌谷と、目が合った。
「……下向け」
「なんでー」
「いいから」
「ちぇー見てたのにー」
「見なくていいんだっつの」
 あんまり近くから見すぎると、目許と鼻筋の造作が案外男らしいことに気づいてしまって、気恥ずかしいから困る。
 一見ひょろ長いだけに見える肩も背も、ひとつひとつ丹念に見ると鍛えられたきれいな形をしている。これ見よがしに筋肉質ではないから気づきにくいだけだ。描いてみたいな、と思うことがときどきあるけれど、あまり絵には向いていない気がする。これはきっと写真で切り取った方がいい。
 そういえば、一時期は水泳部に女子が群がって大変な騒ぎになったりした。大会で優勝した選手の顔写真に、誰も心当たりがなかったせいだ(その後、何者か知れ渡るとほぼ一斉にいなくなったけれど)。
 髪が普段より五割り増ししんなりしているだけで、あちこち違って見える。何なのだろうこれは。
「まだ?」
 本人は周りが騒ごうが、……俺がどぎまぎしようが、気づいてもいないわけだが。
「……もういい。帰ったら風呂入れよ」
「アイアイサー」
 下駄箱で靴を履きかえ、一直線に外へすっ飛び出て行く槌谷の背中を俺は慌てて追いかけた。まるで空気の抜けた風船だ。
 最寄りの駅まで十分前後。槌谷は電車通学、俺は徒歩通学だから、一緒に下校すると言っても共有するのは僅かな時間だ。寄り道するわけでもなし、他愛のない話をして別れるだけで終わる。そもそも相手が槌谷だから会話になっていないときも多い。
 何で毎日会おうとこんな地味に努力しているのか、正直自分でもよくわからない。
「ねえねえ、時枝ー」
「ん?」
「あのさー明日俺ン家こなーい?」
 唐突で、驚いた。そんなふうに誘われたのは初めてだった。
「槌谷の家? ……なんで」
「俺のおたんびー」
「は? ……ああ、誕生日?」
 最近槌谷語が少し翻訳できるようになってきた。
「おまえ、12月生まれだっけ」
「うんそう。そんで毎年やってんの。おとんとおかん、クリスマスはいそがしーから全部一緒にすんの。ちっこいやつら喜ぶし」
「へー」
「勉強忙しい?」
「ま、それなりにな」
 確かに大学受験と資格試験の二足草鞋ではあるが、この時期一日くらい出かけて落ちるような勉強はしていない。
 そう言おうとして、次に飛んできた言葉に──俺は思わずかちんときた。
「なんか二見は今年来れないってゆーし。人少ないのつまんないし」
「……行かない」
「えーなんで!」
「そんな家族水入らずっぽいの、気が引ける」
「水は楽しいよ! 友!」
「おまえ日本人としてもう少し慣用句覚えろ。とにかくイヤだ」
 数合わせに呼ばれるなんてごめんだ、と思わず口にしかけて、飲み込んだ。
(違う、悪気があってそういうこと言えるやつじゃない。……ただ、無神経なだけで)
 それくらいわかっている。
(けど俺は……二見の代わりなんてやれない)
 そんなことは当たり前だ。いくら槌谷がバカでも、俺と二見を一緒にするわけがない。二見は槌谷にとって特別だ。俺が一生かかっても追いつけない、余分に積み重ねられたふたりの時間がある。
 ──たぶん俺は、それが羨ましい。
 二見になんて敵わない。だから代わりになんてなれるわけがない。二見がいなくなった空席を俺が埋められるはずがない。そんなふうに思って、意固地になっている。
(バカだ)
 けれど、頭で考えるより早く「面白くない」と思ってしまったからしょうがない。腹の底に降って湧いた黒い固まりは、そう簡単に払拭できない重さがあった。
「時枝ー」
 先に行く俺へ背中から声がかかる。うっかりすると「わかったよ」と言ってしまいそうなのをぐっと堪えた。おかしな意地だと、頭ではわかっている。優しくないことをしているのも。
(なにやってんだ、俺)
 学舎から駅までの道のり、たった十分ばかりを捻出するためにわざわざ寒空の下で待っているくせに。──けれど、俺が毎日内心苦心していることだって槌谷は少しも気づいていないし、今だって俺がどうして怒っているかなんてこれっぽっちも理解していない。
 なぜか俺ばかりが槌谷のことを必死で考えている。
 特別に思われたがって、端から見たられっきとした片思いみたいになっている。細くて遠い一方通行の。
(相手がこいつだからしょうがない)
 こんな会話もまともにできない水泳オタクを相手に、俺はひとりでから回りしている。
(……こいつがいったい何だっていうんだ)
 好かれたいならただ思いきり優しくして甘やかしてやったらいいと思うのに、素直にそうすることもできない。自分で自分の気持ちがよくわからなかった。
「時枝ってばー」
 返せる言葉がないから、俺は押し黙ったまま歩き、しょげた槌谷を駅の手前で置き去りにした。

 翌日、やはり学舎ではすれ違いもしないまま一日が過ぎた。
 午後の授業を終えて、時計は三時半。昇降口で、自分の下駄箱の前へ立ち尽くしたけれど、廊下の奥から陽気な鼻歌は聞こえてこなかった。
(そりゃそうだよな)
 まだいつもより時間が早いし、きっとまだ泳いでいるのだろう。俺が会う努力を放棄すればこんなものだ。そうでもしなければ会えなかったのだし。
 内心少しホッとしてもいた。昨日あんな別れ方をしておいて、どんな顔をして会えばいいのかよくわからない。
(槌谷は大して気にもしてないかもだけど)
 相変わらず、俺ひとりで空回りしている可能性はある。何にもなかった顔をして寄ってこられたら、それはそれで癪に触るのかもしれなかった。
 それに──今日は。
(「俺のおたんびー」)
 そんなこと急に言われても、困る。
(あいつの欲しいものなんてわからねーよ)
 何をあげたら喜ぶのかなんて想像がつかない。そういえば、好きなものも嫌いなものも知らないし、遊びに行こうにも家の場所すらわからない。
(けど……あいつだって俺のことなんか知らない)
 こんな状態では、すれ違って当然かもしれない。
 ──ふいと、海に行きたくなった。
 深く赤く染まって暮れてゆく天上と、波の息づかい。夕日を背に風の中で、指をつないで歩いたときは、言葉なんて少なくても槌谷のことがわかったような気がしていたのに。
(俺もけっこー勝手だな)
 相手が自分の思うとおりにならないから焦れている。ひどく子供じみた八つ当たりだ。
 ひとつため息をついてから、下駄箱を開ける。革靴を取り出して履きかえると、脱いだ上履きを突っ込んで乱暴に閉めた。古い鉄でできた扉が、ぎいっと嫌な音を立てて軋む。外へ出ると、空は冬特有の灰色に重く濁っていた。冬至も過ぎたばかり、一年の間でもっとも日が短い季節だ。あと三十分もすれば駆け足で暗くなっていくだろう。
(そういえばまたマフラー忘れた)
 急いで家まで歩けば寒さも紛れるだろうか。
 横目に部活棟を見ながら、身をすぼめて俺は学舎を後にした。なんだかんだここのところ毎日槌谷を待っていたから、まだわずかでも明るいうちに学舎の敷地を出るのは久しぶりだ。ひとりで歩くのも。周りは宅地だから、この時間は人通りもなくて本当に静かだった。
(どうせなら雪でも降らねーかな)
 雪の日独特の静けさは好きだ。まるで辺りの音が雪にくるまれてしまったようにしんとする。自分の胸にある正体の分からないささくれも、雪に吸われて、覆い隠されて、全部消えてしまえばいい。
(……槌谷は雪が降ったら喜ぶだろうな)
 しんとするどころか、はしゃいでどこまでもかけずり回りそうだ。
 思わず苦笑した。
(俺、まだ槌谷のこと考えてる)
 槌谷は俺を二見の代わりに呼ぼうとしたのに。俺ばかりが槌谷のことを考えている。
 たぶん──俺は槌谷にも同じくらい考えて欲しいと思っていて、誰かの代わりじゃなく、おまえだけは必ず来てほしいと言われたかった。せめて、二見の話をする前に俺を誘ってほしかったのだ。
(ガキくせえ)
 恋し恋されたい、単なるロマンチシズム。
 ひどく感情的で女々しい気がして、急に気恥ずかしくなった。
(夜、こっちから電話するか……)
 どう考えても自分の方が偏屈な態度だったと自覚しているのに、機嫌を悪くしたスタイルを引きずり続けるのも決まり悪い。ひょっとしたら、槌谷のことだから昨日のことなどすでにコロっと忘れているかもしれないけれど、謝る空気でなければ誕生日おめでとうとだけ言って切ればいい。それとも、これから簡単なプレゼントでも探しに行って明日手渡すか。
(でもなあ、あいつの欲しいものなんてやっぱ想像も……)
「ぉぉぉぉぉおおおおお」
 だしぬけに、どこからかおかしな声がした。
「おおおおおおお!」
(なんだ?)
 不審に思って振りかえると、坂の上から誰か走ってくるのが見えた。急勾配をものすごい勢いで──
「おおおおおおおおおお──!」
「つ……」
 槌谷だった。ジャージ姿の。
 何でランニングなんかしているんだろう、とぼんやりしているうちに肉薄してきた。
「ちょっ……え!?」
 あいつはなぜ止まらないのか。
「しょぉぉぉぉぉごぉぉぉぉぉおおおおおおお!」
 俺かよ!?
 と、思ったときにはもう遅かった。槌谷の身体が俺に突っ込んできて、もうお互いどういう体勢なのかわからないまま道ばたの藪をゴロゴロと転げていた。
「い……ってぇ! バッカ……なにすんだよ」
 身を捩り、唸りつつ頭を抱えて起き上がると、槌谷は大の字になって俺の横に転がっていた。肩で息をしている。頭は濡れてぐしゃぐしゃだ。
「なんなんだよもう……なにやってんだおまえ」
「だって帰るから!」
 目をつむったまま槌谷が怒鳴った。
「……授業終わったんだから帰ったっていいだろ」
「いつもは俺が帰るときいるじゃん!」
「あれは……たまたま」
「なんで今日だけ!?」
「別に……今日だけってわけじゃ……」
「俺すごい不満! めっちゃ不満!」
 ぜいぜい喉を鳴らしながら、槌谷は叫び続けている。
(こいつなに怒ってんだ)
 そう。この言い方はたぶん、怒っているのだと思う。
「……昨日のことなら、その、俺が悪かった……けど」
 心当たりがそれしかないから、言ってみた。
 すると倒れていた槌谷が、飛び起きた。
「そうじゃなくて!!」
 あまりの勢いに動けずにいると、ぎゅっと手を握られた。
「いいからおめでとうって俺にゆえ!!」
 真っ正面から怒鳴られた。
「は……?」
「早くゆえさっさとゆえ今すぐゆえ!!」
「………………」
「はっぴーっぽくないじゃんそんなの!昌悟が俺にめでたいってゆってくんなきゃ!!」
 ぽかんと口を開けてしばらく呆けた。
「なのに、なんで今日だけ先に帰んの1? 今日うち来ないんでしょ!? 俺いつおめでとう言われたらいいわけ!? えっ、ちょっと待ってなに笑ってんの!俺怒ってるのに!?」
 言われて気づいた。俺はいつの間にか笑っていた。おかしくて。
 なんだかもう、槌谷の考えることは順番がめちゃくちゃだ。全然わからない。こんなのわかるわけがない。
 理解できないといって悩んだ自分がバカだった。
 わからないからこいつは面白いんだった。
「なにっ、俺そんなにヘン!?」
「変だよ、おまえ」
 俺のことなんかなにも分かってないくせに、ひと言で俺の欲しいものを全部くれる。こいつの隣にいるだけで俺はバカな俺を認めて、許してやれる気がする。
「ええっ!? 嘘っ! 俺ヘン!? なんで!?」
 がびーん、とおかしな擬音で仰け反ってから、俺の首っ玉に槌谷がかじりついてきた。
「ゆってよ!」
(でけえマフラー)
 おかげでもう全然寒くない。
「俺、昌悟のおたんびなんかぜったい百回くらいカミサマサンキューなのに!なんで!?」
「わかった、わかったから。──おめでと」
「もっと!」
「しつこい。てゆーか、つめてえ! 頭くらい拭け!」
「忘れた!」
 もみあっているうちに、槌谷の赤い鼻へちょんと白い切片が舞い降りてきた。
「……ひとつ聞くけど、おまえ俺のこと好きなわけ?」
「すきに決まってるじゃん! なんで!」
「二見とどっちが好きだよ」
「なにゆってんのバカじゃないの馨なんか嫌いに決まってんじゃん!!」
 ポカポカ殴られた。
「いてっ、わかったって! 俺が悪かった! だから機嫌直せ。──プレゼントやるから」


 俺はちょっと満足して、槌谷の鼻っ面に小さくキスをしてやった。
 悩んでいたのが嘘みたいにすんなり、できた。

 その年初めて降った雪が願い事を叶えてくれるというのは、どうやら本当らしかった。

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