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02月14日~叶東海

 息せき切って理科室へ駆けつけた俺は、呼気も整わないまま冷えた廊下に立ち尽くした。
「何やってんだ、あのひと」
 思わず、声に出して呟いてしまった。
 目の前の扉には手作りらしい札がぶら下がっている。大きく「重要実験中につき立ち入り禁止」と書かれた、段ボールの切れ端にたこ糸を通して画鋲で吊るした簡単な代物だ。中は黒いカーテンがすき間なく閉められていて、様子がうかがい知れない。
「……叶先生?」
 中から応答はない。試しに戸を引いてみると、がちっと固い手応えがあって開かない。施錠されていた。
 大学受験シーズンのまっただ中、学舎はにわかに生徒の密度が減っている。自分とて例外ではなく、受験スケジュールの合間を縫って眠い目を擦りつつ、朝早くから登校したというのに。
(そりゃ、別に何か約束してたわけじゃないけど)
 足を運べば会えると思っていたから、ひどく当てが外れた気分だった。
(せっかく早く来たのに)
 しばらく顔を見ていない。受験だなんだとすれ違い続きで、今年になってからは数えるほどしか会っていない。最後にきちんと話をしたのはいつだったろう。はっきりと覚えていなかった。
 苛々して、札を指で弾いた。
(……意外ときれいな字を書くんだ、叶先生)
 そういえば黒板の字も読みやすかったように思う。あのひとのことだから、横に何か手本を置いて一生懸命練習したに違いない。
(それとも……誰かに教えてもらったのかな)
 もし手ほどきをしてくれたとしたら、初代学長だろうか。
 百年も前の話を彼はよく話してくれる。学長が新たに手に入れた本を自慢して煩かったとか、まなびやの在るべき姿について夜通し語り明かしただとか。
(そんなジジイ、どうでもいいし)
 本当は、昔の話になると彼が饒舌になるのが少し嫌いだ。心中でそんなことを思う自分自身も好きじゃない。いかにも了見が狭い。
 気鬱を払いたくてかぶりを振る。自分の口許から淡々と吐き出される白い息が、何だか急に寂しく思えた。会いたい、なんて。そんな生ぬるいことを思っているのは自分だけなのかもしれないという気がした。
(……バッカみてえ)
 かぶりを振って、俺はひとけのない廊下を後にした。

 授業終了のチャイムが鳴ると同時に、クラスメイトたちが三々五々、教室から散っていく。きっと次のチャイムが鳴っても戻ってこないだろう。
 朔学舎大学付属高校といえば一応地元では知らぬ者なしの名門校で、その証拠にクラスのほぼ全員が進学希望だ。この時期は受験日程も立て込んでいて、予備校へ熱心に通う者や、図書室で自習する者が多く、出席はまばらになる。単位さえ取れていれば卒業はできるし、ひとりでもいい大学に進学できれば学舎の評判も上がるから、先生たちもとやかく言わない。この公然たる集団サボりは、三年も後半になれば見慣れた風景だった。
 時間割を見る。このあとの授業は受験に使わない世界史と倫理だ。どうりでひとがいなくなるはずだ。抜けても大して目立たないだろうし、テストさえ受けていれば今さら成績にも影響はないだろう。
(理科室……)
 しかしまだ一時間、午前中の授業も残っている。わざわざ行って、また空振りするのも気分が悪い。確実に手が空いていそうな時間を狙った方がいい。
(昼まで図書室で時間潰すか)
 図書室なら暖房も効いている。陽が昇って少しはマシになったけれども、古びた校舎は天井が高く床は石造りで、今どき時代遅れの石油ストーブではなかなか温まらない。手足が鈍く冷たかった。
 教科書と赤本をカバンに突っ込んで立ち上がり、教室を出る。
「──先輩、時枝先輩!」
 廊下の傍らから声がかかった。振りかえると、見覚えのある顔がこちらへやってくるところだった。
「ああ。……ええと、生徒会?」
「あの、我ながらささやかな願いだと思うんですけど、できれば卒業するまでに名前覚えてください。阿立です」
 赤い襟の彼は不満そうな顔で、大荷物を抱えていた。
「真面目ですね、今の時期に登校してるなんて。それとも余裕ですか? K大の理工学部に行くってウワサ聞きましたけど」
「……なんでそんな超個人的なことが噂になってんだよ」
「うちの会長が噂好きなので」
 そういえば最近二見とは顔を合わせていない。そう言うと、阿立が肩をすくめた。
「明日は来ると思いますよ。そういうところは外さないひとだから」
「明日? なんで」
 首を傾げると、じっと見られた。
「あー……まあ、先輩はそういうひとですよね。わりと世間から解脱してるっていうか」
「なんだそれ」
「いえ、こっちの話です」
 慌てて阿立が首を振って咳払いをする。釈然としない態度ではあったけれどそれ以上問い詰める気にもなれなかったから、話題を変えることにした。
「──それより、こんなとこで何ウロウロしてんだ。三年の階なんて用ないだろ」
「三年の教室じゃなくて理科室です。化学準備室」
 思わずどきりとした。
「……なにしに」
「これ、片付けに。ほっとくとうちの担任の荷物が教壇の脇にあふれるんで、定期便なんです。一年のころから」
「担任て」
「叶先生です」
 大きな段ボールに二箱分、上はふたが閉まりきらずに中のものがはみ出している。
「それ、全部?」
「全部です。気づくと増えてるんですよね、プリントとか、読みさしっぽい本とか、脱いで丸めた白衣とか、なぜかビーカーとか。別に俺が片付ける義務もないんですけど、ほっとくと教室が大変なことになるんで」
 阿立が大きくため息をついた。
「で、今日も持って行ったんですけど、理科室閉まってるんですよ。なんか変な札が下がってて。ま、叶先生がおかしなことをするのは今に始まったことじゃないんで、ひとまずこれは生徒会室に置いておこうと思って移動中です。教室に戻るより近いですから」
 じゃあまた、と阿立は会釈して階段を上っていった。
(まだ何かやってんのか)
 理科室を閉め切って、いったいぜんたい何をしているんだろうか。しかも、足繁く阿立に身の回りの荷物を運ばせているなんて、知らなかった。
(……いや、今日会えないのは阿立と関係ないけど)
 阿立が悪いのでもない。どちらかといえば親切だ。頼まれもしないのに律儀に片付け役を買って出て、文句を言われたのでは割に合わないのに違いない。
 ──だけど、おもしろくない。
(片付けくらい自分でしろっつうの、いいオトナのくせに)
 心中で悪態をつきながら廊下を余分に歩き、遠目に理科室を伺い見る。やっぱり、あの札はかかったままだった。

 結局その日は昼休みも放課後も理科室は解放される気配がなく、先生には会えずじまいに終わった。
 夕食後の勉強も身が入らず、俺は早々に着替えてベッドへ倒れ、部屋の明かりを消して転々とした。
(何やってんだ……俺)
 受験の大事な時期、こんなことで消耗している自分が馬鹿馬鹿しい。わかっているのにどうにもならない。考えなきゃいけないことも、やらなきゃいけないこともたくさんあるはずなのに、全然集中できなかった。
 たかだか一日会えなかったくらいで。
 ──あいたい。
 ため息とともに目を閉じた瞬間、ふいと携帯が鳴った。驚いてまばたき、取り付いた。メールの着信だった。
 送信者は──二見馨。
 落胆した自分を自覚して、もう一度大きなため息が出た。
(先生が携帯メールなんて使うわけないじゃん)
 たぶん、携帯は持っていないはずだ。見たことがない。けれど不便を覚えたことも、不安に思ったこともなかった。化学準備室に行けば不思議といつでも会えた。こちらを振り返って、笑って、インスタントのコーヒーをいれてくれる。それが、当たり前だった。
 だけど本当はあのひとが理科室に、朔学舎に留まり続ける明確な理由などない。時計塔は崩れてしまったのだし、今もあそこで化学教諭をやっていることなんてただの気まぐれにすぎない。
(もし黙っていなくなったりしたら、俺は……どうしようもない)
 現に教室の扉を閉められただけで、もう為す術がない。すべて、先生の胸一つだ。ひとの気持ちなんて変わるものだし、あてにならない。そもそも、あれはひとじゃない──。
 自分の考えにいたたまれなくなって、俺はシーツへ顔を強く押し付けた。ひどく不毛なことを考えている。あのひととの間に、確固たるものなんて最初からひとつもない。今に始まったことじゃない。
 あるとすれば、それはたったひとつの言葉だけ。
(好きとか……言ったくせに)
 普段なら疑いもしないことが、ひとりでいるとなぜかひどく難しい。
(それもこれも、あのひとがこもって出てこないせいだ)
 すんなり会えていれば、きっとこんな余計なことを考えずに済んだ。
 それに、先生は平気なんだろうか。長いこと会えなくてどうしようもなく気に掛かったり、会いたさにいてもたってもいられなくなったり、次に会ったら何を言おうか頭の中がいっぱいになってしまったりはしないんだろうか。
 ──たまには、自分から会いに行こうとか。
(バカだ俺)
 たまには向こうから会いに来てくれたら嬉しいのに、なんてちらりとでも思う自分の思考は本当に破綻していると思う。これではまるで、自分ばかりが先生のことを好きでどうしようもない女子みたいだ。
 情けない気分を紛らわせたくて、俺は手の中の携帯を見た。新着メールの文字。ボタンを押した。

> 明日は学校来るっしょ。
> 帰り空いてる?
> それとも先約あり?

(なんで来るって決めつけてんだ、こいつは)
 そういえば阿立も「明日は来る」なんて天気予報みたいなことを言っていた。
(明日がなんだってんだよ)
 苛々とメールの表示を切った。待ち受け画面に戻ると、ちょうど右隅に表示されたデジタル時計が「0:00」に切り替わった。
 明日が今日になった。とたん、
 ──カツン
 どこかで固い音がした。
(なんだ?)
 部屋を見回したけれど、変わりなかった。
 ──かつん
 もう一度。
(窓……?)
 慌ててカーテンを引くと──ひとが逆さにぶらさがっていた。
「────!!」
「やあ、時枝」
 あんまり驚いて、咄嗟に声が出なかった。
 しばらくしてから人影──叶先生は首を傾げた。
「……おかしいか?」
「ものすごくおかしいです」
 間髪入れずに俺が言い放つと、ぱちりとまたたいて困った顔になる。
「そうか」
 また違ったか、と口の中でモゴモゴと呟いた。
「夜に突然家庭訪問はおかしいようだし、白衣もやめたが」
 窓から現れて逆さづりになっている方がもっとおかしいと言いたい。ちょっとしたホラーだ。
「……親が気づいたらビックリするからやめてください」
 必死にそれだけ言うと、先生は少し考え込むような仕草の後、俺に向かって腕を伸ばした。
「じゃあ、気づかれないようにしよう」
「──え」
 俺が言葉の意味を判じ損ねている間に、先生は軽く、それでいて強引に俺を窓の外へ引っ張った。
「ちょ、……っ!」


 叫ぶ間もなかった。
 いきなり夜の空、星の海へ逆さまに落っこちたみたいな錯覚に目眩がして、俺は先生の首へぎゅっとしがみついた。髪の毛を掻き分けて首筋に触れるとやんわり温かい。切れるように冷たい真冬空の下、滲むような温度はまるで氷が溶けるみたいに背骨がじゅわっとして、気持ちよかった。
「時枝?」
 静かな声と一緒に、背中へ手のひらが下りてくる。あやすようにゆっくりと撫でられ、くすぐったいような熱がいっぺんに来て、ふわりと体中包まれる。お気に入りの毛布にすっぽりくるまったみたいな、心地よさ。
 さっきまで苛々していたのが嘘のようだった。こうしていられれば何も心配いらないのだと、理性から少し遠いところでいきなり気づいた。いつも身体で当たり前に感じていたことを頭を使って考えすぎていた気がする。
「……どうしてわざわざ俺の家まで来たんですか」
「渡したいものを持ってきた」
 俺は腕を緩めて先生の顔を見た。内心、先生の答えが少し不満だった。
「そんなの別に、学校でいいじゃないですか」
「今日、私が一番に渡したかった」
 大まじめな顔で言って、先生は俺を屋根の上にそっと下ろした。
 手渡されたのは手のひらほどの大きさをした平たい箱だった。ピンクの色紙にまかれ、赤いリボンがグルグル巻いてある。
「コンチングとテンパリングが思ったより難しくて、デモールダリングまで間に合わなかった」
 聞いたことのないカタカナばかりだった。いったい何が入っているんだ。
「だが、早くしないと先を越されるかもしれないと思って」
「……あの、すみません。俺、何のことだかわからないんですけど」
 俺がさらに首を傾げると、つられたように先生も首を傾げた。
「そうなのか」
「いや……俺がものを知らないだけかもしれませんけど」
「有名なのだと思っていたが、違うのだろうか」
 開けてみろと視線が促していたからそうした。
「これ……」
 ハートの形をした金型に、茶色いものが流し込んであった。
 それにこの、甘ったるい匂い。
「ひょっとしてチョコレート、ですか?」
 先生が頷いた。
「──あ」
 慌てて手に持っていた携帯の日付を見る。
 日付が変わったばかり。
 今日は、2月14日。
「バレンタインデーというのだろう?」
 わずかに不安そうな瞳がこちらを覗き込んでいた。
「みんな、好いた相手にチョコレートを配るのだと書いていた。14日は成功しますようにと」
「じゃあ……実験って」
 チョコレートを作ってたのか。
「うまくいかなくて、何度か失敗した。材料の配分がシビアだった」
 大まじめな顔で先生がそう言った。
(呆れた)
 そんなことのために、俺は一日苛々してたのか。
(バカみたいだ)
「時枝に食べてほしい」
 先生が、まだ固まりきっていないらしいチョコレートを指ですくい取った。
「ん」
 指が俺の唇を押しのけて、歯列を割った。先生の細くて形のいい指が舌先に当たる。中でこするように動いたから舐めた。
 何だかじゃりじゃりしていた。
(甘……)
 大した分量でもないのに舌がヒリヒリする。
「……ン」
 指がさらに口の奥へ入ってきた。優しく、まるで雛鳥に餌をやるみたいに。
 与えられる。あふれるほど。
「おいしいか」
 声までいつもより甘ったるく聞こえる。薄く目を開けると口許に指があてがわれているのがハッキリ見えてしまって、すごく恥ずかしいことをしているといきなり気づいた。しかも寒空の下、屋根の上なんかで。
「も、いい──」
 胸を強く押して突っぱねると、つぷんと水っぽい音がして口から出ていく。生々しい濡れた音に、思わず仰向けの喉がこくんと鳴った。
「まずかったか」
「別に」
 味なんて、甘いとしかわからなかった。
「私がチョコを渡すのはいけなかったか」
「そうじゃなくて」
「時枝と、ちゃんと恋人になりたかった」
「そんなの、俺はチョコなんか……」
「じゃあ、なにがいい?」
 楽しそうに、少し目が細くなる。
「時枝が欲しいものは何でも知りたい。教えてくれ」
 俺の唇をなでながら、囁く。ひょっとしてこのひとは、俺が思っているよりもずっといろいろなことがわかっているのじゃないかという気がしてきた。
 俺が会いたくてジリジリしていることとか。
 呼ばれるとこっそり震えていることとか。
 触られると背骨がぐずぐず崩れそうになることとか。
 何も知らない振りをして、本当はわかっていて、俺の口からわざと言わせようとしている気がする。
「時枝?」
 催促するようにもう一度名前を呼ばれた。
 しゃくだったから、正直に言うことにした。
「俺は、……チョコなんてどうでもいいから昨日会いたかったし、本当はコーヒーだってあんまり好きじゃない」
 高い位置にある先生の襟を引っ張って、引き寄せた。
「俺は……こっちの方がいいです」
 そう言って、口づけた。
「そうか」
 先生の唇が笑う形にほどけた。
「私もチョコを作るより楽しいな」

 久しぶりのキスはチョコの味付けがされていて、痺れるほど甘かった。

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