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01月01日~帯刃肇

 空が白んできて、社務所が少しばかりひっそりとしていることに気づいた。
(……もう朝か)
 気づいたら無意識に目を擦っていた。さすがに頭がくらりとする。庭を掃く箒を止め、うまく動かない頭で考え、指折り数えてみた。かれこれもう三日ほど寝ていない計算だ……と思う。
(ときどき眠れないのが一番きついのかもしれないな、この家業は)
 こきり、と首の付け根が鳴るのを聞きながらぼんやり考えた。
 大晦日に正月ともなれば、いくら地元の小さな神社とは言え、近所のお詣りにくるひとであふれかえる。掃除などのお務めも疎かにはできない。
 一方、社務所の奥では宴会が行われ、酒が振る舞われる。突如カラオケ大会が始まったりもする。祭りの時などは神楽殿でビンゴ大会もするくらいなので、うちはたぶん、世間が思う神社のイメージよりも気安い。
 とにかくそんな調子なので、手が回りきらなくて、何人かアルバイトを雇う。だがそれでも追いつかず、年末年始は親戚総出で何日も眠らずに過ごすのが常だ。
 けれど、気取らないこの空気が好きだ。修行や務めも、苦に思ったことはほとんどないと思う。
 そして跡目を継ぐと己の力で決断することができた今は、とても誇らしく清々しい気持ちだ。
 家が神社だから、宮司になる。
 力があるのだから、人間のために霊を倒すべきだ。
 いろんなひとに何度も言われたが、どうしても胸の奥で馴染まなかった。そんな、頑なだった自分の心を溶かしてもらった。彼──時枝昌悟に。
 再び会えるなんて思ってもみなかった、初恋の相手に。間違いない、初恋だ。あのとき以上に、他人を好きだと思ったことはない。
 彼は今も昔も、いつだって自分の肩を押してくれる。側にいてくれるだけで勇気づけられ、励まされる。隣にいて、彼の役に立ちたい。自分が彼を尊敬しているように、彼も自分を認めてくれるといい。夜に別れて朝に会ったとしても、懐かしい。愛おしい。大切にしたい。
 止めどなく溢れてくるこれらを、愛と呼ぶのかどうかは知らないけれど。
 自分にとっては恋だと思う。
 正直に言えば、学舎で見かけるまで昌悟のことは半ば忘れていた。幼かったから、どこへ引っ越したのかもよく知らなかったし、後から調べる術もなかった。
 あれほど好きだった彼のことをあっさり諦めてしまえた当時の自分を不思議に思うけれど、今こじつけるなら、彼が引っ越しして離れてしまうことが寂しくて寂しくて仕方なかったのだろう。このままでは彼との約束が守れそうになくて、だから。
(「泣くなよ」)
 全部、丸ごと忘れた。
 人間は脳の奴隷だな、と思う。脳髄でねつ造された詐病に、これほどあっけなく操られてしまう──。
「──いて」
 ごつんという音と共に、頭蓋へ衝撃が響いた。
 しめ縄のついた大木へ頭をぶつけていた。手の中の箒も、すっかり動きを止めてしまっている。
(アドレナリンじゃなくてエンドルフィンでもなくてセラトニン……違う。逆だ、メラトニン)
 脳が休みを欲している。
 つまりは、眠い。
(なんだか、気分が良すぎたな……今)
 心地よく、一瞬立ったまま眠った気がする。
(潔斎所に行って水を被ろうか)
 潔斎所は社務所にある、いわゆる風呂場だ。仕事を始める前に身を清めるのもここで行う。体を清浄にするという意味合いだ。
 箒を持って突っ立っていても役に立たないし、少しくらい抜けても夜明け方の今なら問題ないだろう。
 アルバイトに来ている年上の男性に「奥へ行ってきます」と声をかけて、肇は社務所に足を向けた。

 社務所は神社で仕事をする者の、詰め所のようなところだ。本殿や境内、自宅とは別に建てられている。宮司が祖父から父に譲られ、最近建て替えたばかりだからとてもきれいだ。
 玄関を潜ると衝立があって、その先には座敷が広がっている。コンロのついた座卓がいくつか置いてあり、その周りで酔っぱらったひとびとが思い思いに寛いでいる。ひっくり返って眠っているひともあれば、未だに呑んでいるひともいた。
 肇ちゃん、と起きているひとは手を上げながら声をかけてくれる、どのひとも昔馴染みのひとたちばかりだ。
 挨拶がてら、肇は一通り酌をして回った。
「ご苦労さんだなあ、肇ちゃん。外は寒かったろう。呑むかい?」
「いえ、とんでもないです」いま呑んだりしたら寝てしまう。「もう一杯どうぞ」
「おっとっと。肇ちゃんに酌をされる日がくるたぁ、俺も年を取るわけだ」
「どうだ、学校は。ずいぶんと遠いんだって?」
 毎年同じことを訊ねる近所の親仁共に、思わず笑いがこみ上げた。
「叔父のところにやっかいになっていますから、歩いてすぐです」
「いやぁ、しっかりしたなあ。おまけにでかくなった」
「昔はこーんなちっこくてビービー泣いてなぁ」
「これなら神社も安泰だ」
「肇ちゃんが若先生かぁ」
 どのひとも上機嫌で相手をしてくれる。みんな息災な証拠だ。ほんのりと嬉しくなる。
「では、少々下がります。御用があったら呼んでください」
 一礼して、座敷を引き上げる。
 厨房を覗くと、女性たちが忙しく立ち働いていた。
「肇」
「母さん」
 目の下にうっすらとクマを作った母が、濡れた手を手ぬぐいで拭いながらこちらへやってきた。
「あんた大丈夫なの? すごい顔しとる」
「……そうかな」
 権禰宜である母も眠っていないはずだ。だが、疲れた気配がしない。年の功……などと言ったらはたかれそうなので、黙っていることにする。恐らく嫁いだ最初の年から、少しもたじろがずにここで正月を過ごしたに違いない、とも思う。
 母の実家は神道とは縁もゆかりもない。典型的サラリーマン家庭だ。しかもここよりもずっと以西から嫁いできたというのに、文化の違いをこそりとも感じていないふうに見えるのが、自分の親ながらとてもマイペースだ。ひょっとすると、そんなところは少し似ているのかもしれない。
「相変わらずのんびりした子やねえ。そんなんで生徒会長なんか務まるの」
「なんとかしてるつもりなんだけど」
「そういえば、友だちは? 今年は呼ばなかったん?」
「特には。あんまりうちの話はしてないし、同級生は受験だし」
「ああ、そう言えばそうやね」
 受験だろうが何だろうが、我が家では暮れと正月の方が重要だ。幸いなことに、うちは神道だから盆は関係なく、夏休みは勉強に勤しむことができたのだが。
「母さん、俺……ちょっと水浴びてきていいかな」
「よかよ。朝ご飯前だけども、ちょっとそのぼんやりした顔をなんとかしといで。まだまだご近所さんも来はるしねえ」
 言い捨てて、再び母は寸胴鍋が湯気を噴き、ビールケースが積み上げられた厨房の奥へ戻っていった。あちらはあちらで戦場だ。
 ……と、思って眺めていたら、いきなりよろけた。
 また、がくんと眠くなった。
(しゃべっていた方がまだいいのかもしれない)
 脳でメラトニンがだだ漏れている。いや、実際の睡眠メカニズムはそう簡単なものではないかもしれないけれど──。
 ごちん、と耳の近くで音がした。
「……痛」
 今度は壁に頭をぶつけていた。
(……早く水をかぶってこよう)
 宮司である父が奥で延々と客を相手にしていて、ましてや現役を退いた祖父までも平然と務めを果たしているというのに、実質の禰宜である自分が寝崩れるわけにはいかない。
 厨房を通り過ぎ、細い廊下を過ぎると神楽殿、和室とお茶室がある。この先は境内の外庭に面した、参拝者にお守りやお札を渡す受付窓口。アルバイトに来て貰っている巫女さんたちの、澄んだ声が聞こえるさらにその先には、祈祷を受けるひとのための待合室があって、そのまた奥が潔斎所だ。
(遠い……)
 いつもは気にも留めない社務所の規模が途方もなく広いものに感じて、気が遠くなった。ぐらりと体が傾いたのを堪え、壁に手をついて踏ん張り、よろよろと前進する。
(体から何か欠乏している感じがするな……)
 何だろうとぼんやりし、ふいと頭に思い浮かんだのは、彼の姿だった。
 ──昌悟。
(「肇先輩、……おい、肇、聞いてんのかよ」)
(「こんなところでぼけっとしてねーで……ホラ、しっかり立てっての」)
 最初はちょっと敬語なのに、だんだん崩れていく。あれがまた面白くて。好きだ。
(「バカ、しょうがないなあ」)
 そのあと、ひとさじ笑いが含まれた、呆れた調子に変わる。
 ああ、そういえば帰省してからあの声を全然聞いていない。
(今ごろ何をしているかな)
 家が忙しくて電話もしていない。
(──会いたい)
 急に胸苦しくなった。喉の奥まで塞がれたみたいに。
(足りない)
 修行も務めも辛いなんて思ったことはない。憑きものとやり合っているときでさえ。
 なのに──今、とても苦しい。
 じゃあ、と最後に別れてからたかだか一週間程度で、息を吸うのが辛いほど。
(あのときもそうだった)
 昌悟の引っ越しは急すぎて、まともにさようならも言えなかった。
(……やっぱり、だから忘れたんだ)
 こんなに喉が詰まる、胸の塞ぐことを抱えて、普通に息なんてしていられるわけがない。イキは息と書く。自らの心と書くのだ。息の根が止まれば、ひとは死んでしまう。
 だからすっかり忘れたのだ。昌悟が自分を忘れたように、全く同じ仕組みで。
 死んでしまわないように。
 生きて、いつか会う日が来るとわかっていたみたいに。
(会いたい)
 このままだと、苦しすぎてまた忘れてしまうかもしれない。
(「バカだな」)
 あの声で、あの調子で、今ここで、笑い飛ばしてくれたらいい。
(昌悟)
 その音は祈りにとても似ている。
 まるで神道祝詞の、高天原への憧憬や畏敬、親愛のように。
 胸の真ん中に、いつもひっそりと、しかし確実に──ある。
(昌悟)
「なんですか、肇先輩」
 やけに明瞭な返事があった。
 いつの間にか目の前が暗くなっていて、慌てて目を開けた。
「昌悟」
 すごく近くに昌悟の顔があって、俺は必死で目を擦った。
「夢……なのか?」
「夢でいいのかよ」
 少しむくれたような、それでいて底意地の悪い笑いの粒子を含んだ声が、真上から振ってくる。
「そうじゃなくて、俺は……風呂に」
「風呂?」
 怪訝な顔で首を傾げられた。
「バカ、肇、寝ぼけすぎだ。だいたい、歩きながら寝るなよ」
 今度はハッキリ笑われた。
 改めて辺りを見回してみると、神楽殿のど真ん中だった。
「……どうして、昌悟がここに」
「一般市民が正月に神社へお詣りに来たら駄目なわけ?」
「駄目じゃないが」
 むしろ、日本人としてわりと真っ当な感じがする。
「でもって引っ越した後輩が、昔の地元にいる先輩の神社を詣でたら駄目なんですか」
「いや……いいと思うけど」
 けれども、どうしてこんな体勢なんだろう。
(昌悟の顔が真上にあって、見下ろされていて……向きが逆さだ)
 何が、どうなってこうなったんだろう。
「前とあべこべだ」
「前……?」
「俺の具合が悪くて、肇に公園のベンチまで連れて行かれて、上から覗かれた。このくらいの近さで」
 まさか忘れてねえだろうな、と鼻先で問われた。こんなに近くはなかったと口にしようとして、やめた。
 この、ややもすると衝突しそうな近さに気がついたら、昌悟はこの場から自分など放り出して逃げてしまうかもしれない。寝ぼけた頭でも、それくらいは想像がついた。彼はときどきビックリするほど大胆なのに、後から気づいて恥ずかしがるきらいがある。
「たまには気分いいな。俺の方が上にいるの。……肇、まだボケてんのかよ」
 目の前を手のひらがひらひらと舞った。
「よっぽど眠かったんだな」
 くすくすと笑われた。
(まぶしい)
 神楽殿には、障子を通した陽が沁みていた。締め切って薄暗い神楽殿へ滲むように、ふっくらとほの明るい粒が舞っている。
 なのに──電灯のような目に痛い光量ではないはずなのに、ひどく目の前がまぶしい。
「どれくらい……寝てた?」
「一時間くらい」
「そんなに?」
「バカ、嘘に決まってんだろ。十分くらいだよ」
 昌悟は機嫌が良さそうだった。
「じいちゃん、カンカンだったぞ。神楽殿で仰臥するとは何ごとだ、って。でも、肇でかいから誰も動かせないしさ。どうせだから、おばさんが寝起きの肇を脅かしてやれって言って……肇?」
「久しぶりに聞いたな、声」
 腕を持ち上げて、昌悟の首の後ろをやんわりと捉えた。そのままゆっくりと引き寄せる。勁くてしなやかな葦のように、僅かな抵抗を手のひらに残しながら俺に向かって倒れてきた。
 滑らかに、まつげが伏せられていく。
 ──くちづける。
「ん……ン」
「その声も久しぶりに聞いた」
 押して離れて、また啄んだ。キスの隙間から、噛み殺しそこなった細かな声が溢れてくる。
 体に馴染んだ体温、痺れるほど甘い唇、お互いから漏れる暖かな白い呼気。重ねられた全てが心地いい。
 くらむ。眠気とは全然質の違う、ほのかに暖かいものに脳が痺れて目眩がする。
「ばっか……ぅ、ん……っは」
「大丈夫。怖くないから」
 耳許で囁いてやると、震える。いつもそうだ。こう言って耳の淵へわずかにかかるくらいのところへ息を落とすと、背骨から首筋までがひと息にそそけ立つ。
 それでも昌悟は自分を突き飛ばしたり、腕を振り払ったりしない。
 赦してくれている。
 小さな彼が自分の腕にすっぽりと体を埋めて、できる限り赦そうとする姿に、余計じんとする。
 たくさん声が聞きたくて、なおも口づけた。
「っあ……、も、よせ……ってば!」
 聞こえないふりをして、角度を変えた。くちゅ、と生々しい水音が鳴って、昌悟が驚いたように目を瞠り、腕を突っ張った。
「ちょ、ちょっと待て……待て! こんな、とこで」
「そうかな。誰も来ないと思うけど」
「じゃなくて……っ! ここ、神聖なとこなんじゃ……ないのかよ、バカ!」
 眦を赤く染め、瞳を潤ませ、顔を真っ赤にして喘ぐ昌悟が心の底から愛おしい。
「俺は別にいいよ。天に報告しておこう。神楽殿ならかえって誰も入って来ないと思うし」
「バカ!!」
 しー、と人差し指を立てると、昌悟が口を噤んだ。
「……今日はこんなことするつもりじゃ、なかったのに」
 唇を尖らせて小さく呟く昌悟は、まだ少し息が上がっていて、頬がほんのり赤いままだ。


「久しぶりにこっち来て、何だか景色が一回り小さくなったみたいな気がしたり、神社で茅の輪くぐって、幣帛と神矢とどっち買おうかなって思ったり……肇はどうしてるかなとか、……元気かとか」
「元気だよ。ちょっと眠いけど」
「ひっくり返ってたから一瞬ビックリした。心配して損した」
「心配してくれたのか」
「連絡ないし」
 ふくれた顔で言う。
「……こっそり来たら久しぶりに見られるかなと思ってたんだ、その格好。仕事してるとこ見てから、いきなり現れて脅かしてやろうと思ってたのに」
「ああ、狩衣?」
「これじゃ近すぎて……よく見えねえよ」
 言って、小さな小さなキスをしてくれた。
「俺が寝ている間にたくさん見てたんじゃないのか」
「バカ、……そんなの、起きてる方がいいに決まってんだろ」
 昌悟は上目遣いに睨んで、もう一度屈み込んできた。
 俺はそれを、体中でゆるく抱き留める。
 清楚な木材と清楚な壁に囲まれて、まるで違い棚の陰みたいにひっそりと、俺たちはみるみるうちに沈んでいく。
 お互いの体へ──しみこんでいく。
 甘く、甘く、静かに、暖かく。
 いま自分の脳みそではきっと、メラトニンを押しのけて大量のドーパミンが出ている。
 元手の掛からない自己痲薬だ。
 そう、人間はいつだってこんなにも、脳の奴隷だ。
(──だけど、こんな幸せなことならずっと隷属するのも悪くないな)
 ひっそりとそう思い、けれども口にはしなかった。
 口は、もっと大切なことで忙しかったので。

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