わたしはどう死にたいか
※宮崎駿監督最新作映画まだ見ていません。
なので、このタイトルは映画に何も関係していませんが、タイトル書いていたら、あの映画のもじりっぽいなと思ってしまったので、とりあえず言い訳しておきます。
タイトルのことは多分高校生くらいからずっと考えている。
私は「どう生きるか」よりも「どう死ぬか」のほうを重要視してきた。
現時点での自分の理想の死にざまについて書いておこうと思う。
とりあえず初手は「悔いなし!」と思って死にたい。
これ、ラオウの名台詞だってこと知る前から思ってましたから、リスペクトじゃないんです。
「悔いがない状態」ってどんなかな?と考えると、
やりたいことをやりつくして思い残すことはない
ってことかと思われるが、私はそこまで求めていない。
あ~、もうちょっとだったのに!
って感情でもOK。
道半ばでも目的に向かって進んでいたなら悔いはないと思う。
野垂れ死にも悪くないと思っている。
その時は「ちくしょう…!」または「仕方ねえな…」の両極端な感情どちらか、はたまたどちらも共存するかもしれない。(でも成仏はしたい)
死に方とはちょっと違うけれど、
漫画「ドラゴンヘッド」並みの大災害が起きた時に、
家にいたいか?
出先にいたいか?
を考えると、出先にいたいと思っている。
本当は、もう復興なんてとてもとても無理くらいの絶望的な状況(ゾンビ化バイオハザードとか)が起きるなら初手で死んでいたいのだけれど。
生き残ってしまうなら、出先にいたい。
そして 家に帰る ことを目的にしたい。
ちなみにこの場合こそ道半ばで命を落としても本望なシチュエーションである。
主人公が私の骨を家に帰してくれて「よかったな。帰ってこれたぞ」とか言ってくれたら、自分の位置最高じゃん。ってあの世でニヤニヤするだろう。
以上のことから、多分、私は目的を達成してようがしてまいが自分の目的をしっかり持った状態で死にたいのだと思う。
自分には生きる目的がないからなんだろうな。
さて、ここまでは理想の心理状態で、身体的な理想をはなかなか難しいことがわかっているから悩む。
現実問題、コントロール不可な可能性のほうが遥かに高い。
一番の希望は「死体を誰にも見られたくない・誰にも私の死体の始末でお手数かけたくない」ということ。
とりあえず理想の理想で以下の2つ。
①死ぬ時に自ら森の土に埋まり、木々の栄養分になる。もし発見されるなら、白骨化してから。
②家の中で身体的に死ぬことに気づいた時点で、極限まで体液を減らすべく即身仏モードに切り替える。
即身仏は実際に拝観して、改めて畏敬の念を持っている。
自分の最期には彼らを目指す精神を持ちたいと思っている。肉体的にも理想だ。
難しいだろうな。
少し違うルートだと、「幕末の死にざま」エピソード集で衝撃かつ、憧れも持ってしまった死に方を挙げる。
生麦事件で、外国人に切りかかった薩摩藩士が切腹をすることになり、切腹の場で見学していた外国人に自分の腸を投げつけたという。
この激情が凄い。「攘夷」の思想が、切腹という身体的痛みを凌駕していることが羨ましい。
私も身体的感覚が無くなるくらいの激情の中で肉体の終わりを迎えたい。
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