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斎藤学に学ぶ

 またも斎藤学(敬称略、以下同)を読んでいる。色々と腹が立つTweetを目にして、治療のようにして『封印された叫び』を手に取った。不快なことが余りに多いからTwitterのアカウントを消したのに、これでは元の木阿弥ではないかと思っているが、それはこの際脇に置く。本稿を書く意図の一つは、中井の死に接して、斎藤学が存命のうちに彼のことを書かねばならないという焦りに駆られたからだ。

 『封印された叫び』を読んでいると、当事者、或いはサバイバーの失望と絶望のうらに託された斎藤自身の精神医療に対するそれを感じ取ることが出来る。私も同じ、と言うには当事者やサバイバー、斎藤に対しておこがましいような気はするのだけれど、自分の職業的キャリアの半分以上の期間で養われてきた医療や科学に対する不信感と同根のものを、そこから感じ取ることは確かにある。

 目の前で困っている人を科学的なタームを"当てはめる"こと、自分が"手を差し伸べる"人を選んでおいてそれが当然で倫理的だと信じる心根、当事者から生まれた言葉を自分たちの手柄にすること、理論という色眼鏡をかけてしか人の話を聴かないこと。斎藤を読んでいると、私が精神医療とそのサブシステムたる心理、福祉に対して持っている怒りが成就するような気持ちになる。しかし、失望と不信感は強まるばかりである。

 幸い、ソーシャルワーカーは現在のところ科学的であることを必要条件とはされていないようなので、私に力と覚悟さえあれば、科学から自由で霊的かつ倫理的で、誠実な態度で彼らと関わることが可能だ。医師や心理士として同じように生きるのは簡単ではあるまい。職業的な周辺状況が整然としておらず、ときに混沌としているのも、悪いばかりではないのかも知れない。

 斎藤は様々な毀誉褒貶のうちにあるが、私にとっては誠実に生きるための大事な拠り所の一つである。

 

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